異形の竜
文字数 3,160文字
その姿を見て、一瞬でアルテミシアは理解した。
あれは一撃で倒せる竜ではない。
粘液でずるりと覆 われた体、まばらな深紅の羽。
成体の竜では弱点である首部分の皮膚 が、雛鳥 の形態のまま、何重にもひだが寄っている。
異形中の異形。
止血帯が巻かれた傷はそれほど痛まない。
だが、それは気が高ぶっているためか、まだ残る竜の血の影響だろう。
幾重にも巻かれた細布はぐっしょりと濡れぼそっていて、太もも辺りまで濡れた感触もしている。
(この体で、あとどのくらい……)
「クルルゥー!」
(ロシュが戻ってきたのね)
頼もしい相棒の声を聞くアルテミシアが、呆然としているレヴィアを見やった。
「レヴィ」
春風の声に呼ばれて、毒竜から目を戻したレヴィアが慌てて立ち上がる。
「そうだミーシャ、ちゃんと手当てをしなくちゃ、かはっ……」
無防備なレヴィアの首側面に、アルテミシアの手刀が叩き込まれた。
意識を飛ばしかけて崩れ落ちるレヴィアの体を優しく支え、その耳元にアルテミシアが唇を寄せる。
『レヴィア。私の可愛い、大切な主 。約束したわね。私のすべてで貴方 を守ると。貴方 とトーラに幸 あれ』
そして、大地に横たわっていくレヴィアの耳に、アルテミシアの指笛と走り去る足音だけが残された。
「大丈夫か?!」
蹄 の音とラシオンの声に、レヴィアの意識が浮上する。
「どうした?なにやらかしちまったんだよ」
馬から降りたラシオンが、首筋を片手で押さえるレヴィアを肩に担 ぎ上げた。
「ねぇぇぇさああまあああ!」
痛みを堪 えるレヴィアの視線の先で、ロシュに騎乗したアルテミシアに追いすがる毒竜の、ぬらりとした背中が遠ざかっていく。
「お、さすがお嬢、アレを何とかしてくれる、……いや、待てよ?」
レヴィアを抱 えるラシオンの腕が、緊張で強張 った。
「お嬢、なに考えて……」
ラシオンの脳裏を過 ったのは、スバクル地図を読み込んでいたアルテミシアの姿。
何度も、何度も。
事あるごとに、地形を頭に叩き込むように。
「あっちは崖じゃねぇか!」
「っ!」
駆けつけたジーグがラシオンの言葉を耳にして、素早く指をくわえた。
「ピュィィー!!」
危急の指笛が耳に入ったディデリスが振り返り、琥珀 と翡翠 の瞳が真正面からぶつかり合う。
ジーグの腕が真っ直ぐに、アルテミシアと毒竜が走り去った方向に伸ばされた。
「崖に向かっている!私たちでは追いつかない!」
顔色を変えたディデリスの短く鋭い指笛に、ルベルが風のように走り出していった。
「フリーダ卿、力をお借りしたい。……どうしました?」
エリュローンで近付いてきたカイが、緊迫した空気に首を傾げる。
「向こうは、切り立った崖になってるんだ」
上擦 ったラシオンの声につられて、カイは颯 のように走り去るディデリスの背中を目で追った。
「まさかリズィエ……。いや、鉄壁は彼女を諦めない」
見る間に毒竜に追いついていくルベルを見送り、ジーグもうなずく。
「私たちは私たちの為すべきことをいたしましょう」
爪を突き立てた拳 に力を入れながら、ジーグは冷静な表情のままカイを見上げた。
俊足のルベルはあっという間に毒竜に追いつき、ディデリスは着火装置の鎖を握る。
その気配に雛鳥 が振り返った。
『ジャアマァ、シナイ、デっ』
醜怪 な雛鳥 は、人の言葉で鳴きながら毒息を吐く。
ディデリスはルベルの手綱 を引き、素早く左へと進路を変えた。
『ディーデニ、イッツモジャアアマアアア』
追い続けるルベルに、さらに毒息が迫る。
『ネェサマ、ツレテク、アソベナイ!キライィィィィ!』
毒をよけながら、蛇行して走るルベルの速度が落ちていく。
――フェティの腕を食べた不完全体は、あっという間に完全竜化した。ならば、雛鳥 のままのもう一頭には、全身与えたらよい。そう思いついて、眠るラキスを雛鳥 に喰わせた――
「悪魔の雫」を限度以上飲ませて自白させたクラディウス・ドルカは、虚ろなまなざしでそう言っていた。
――失敗だった。毒息の特殊能力は得たが竜化しない。不完全体ですらなく、雛鳥 のまま、図体だけが大きくなった。粘液も酷 くて、触れることすらためらわれる。何よりラキスの人格が残った。私を見て「くそじじい」と鳴いた――
大量のよだれとともに、おぞましい話を白状し終わったクラディウスは、それっきり。
間近に迫る死を待つばかりの、肉塊となり果てたのだ。
雛鳥 がディデリスを振り返りにらみながら、くわぁっと口を開く。
『ジャアアマアアアっ。でぃでに、バァァカァァァァァ!』
吐き出される毒は、ディデリスの記憶にあるラキスの罵詈雑言そのままだった。
かつて叔父のサラマリス邸に顔を出せば、必ずと言っていいほど、ディデリスはラキスからの木の実や小石の攻撃にさらされた。
予定した訪問の際には廊下に油が塗られたり、鳥もちが仕掛けられていたり。
(大量のカエルの出迎えにあったときには、驚いたな。……俺とアルテミシアが大笑いをしてしまって、かなり拗 ねていた)
まだ小さなラキスは悔し涙を流しながら、声の限りに悪態をついていた。
サラマリスは家族の情が薄い傾向があり、自分も弟と遊んだ記憶も、遊びたいと思ったこともない。
だが、アルテミシアはあんなにも人懐こい性格をしているし、双子の弟妹 を大切にしていた。
その弟であるラキスも、また違う感性を持っていたのかもしれない。
もっとラキスの話を聞いてやればよかった。
(そうは思っても、もう何もかも遅いな)
開いてしまった毒竜との距離を、ルベルが確実に詰めていく。
(一瞬でいい。毒竜の足を止めよう。……狙うのは目)
ディデリスは短刀を握り締めた。
成功率は心許 ないが、アルテミシアひとりに背負わせるつもりは、微塵 もない。
(駄目なら、ともに)
『ルベル、頼むぞ!』
ディデリスの指笛が高らかに鳴り渡り、小柄な赤竜が猛然と走る速度を上げた。
ディデリスに構い遅れる毒竜の気配を感じつつ、アルテミシアはロシュの首を叩く。
ロシュが浴びた斑竜 の血で、手のひらがべったりと赤く染まった。
脇腹から流れる血は止まる気配はなく、体に力が入らなくなってきている。
『ねえ、ロシュ。レヴィとスィーニとお前。楽しかったわね。こんなに楽しい日々を過ごしたことは、なかったわ』
「クルゥ!」
『怒らないで聞いて。レヴィアを守りたいの』
鼻息を荒らげるロシュを宥 めながら、アルテミシアは嘴 脇の着火装置に細工してあるゼンマイを巻いた。
『五に一回、噴け』
指を鳴らし、指笛を交えた指示がロシュに与えられる。
『さあ行って!メイリの言うことをよく聞いてね。可愛い私のロシュ!』
「クルルルルルゥー!」
ふわりと鞍 から降りたアルテミシアの耳に、高らかで哀しい、竜の鳴き声がいつまでも届いていた。
ディデリスの視線の先で、電模様の竜がその身を反転させて、こちらへ向かって走ってくる。
(戻ってきたのか?)
だが、ディデリスの期待も虚しく、無人の鞍 を乗せた竜がすれ違い、走り去っていった。
空の鞍 に付着した大量の血液が、アルテミシアがそこにいた唯一の名残。
慌ててディデリスが前を向くと、崖際 に立つアルテミシアが両手を差し出し、微笑んでいた。
――ラキス――
その唇が弟の名を呼び、 毒竜がアルテミシアに突進していく。
『ねぇぇぇさあああまああああ』
『やめろ、やめてくれ!アルティ!!』
あと少し。もう少しで追いつくのに。
『アルテミシアぁぁ!!』
血を吐くようなディデリスの絶叫のなか、差し出された腕に毒竜の巨体が飛び込み、アルテミシアがその首を抱きしめた。
元結が解 けたのか、長い紅色 の巻き髪が、醜悪 な雛鳥 の体を包み込んでいく。
そして、アルテミシアは雛鳥 もろとも崖から飛び出し、そのまま一塊 となって落ちていった。
あれは一撃で倒せる竜ではない。
粘液でずるりと
成体の竜では弱点である首部分の
異形中の異形。
止血帯が巻かれた傷はそれほど痛まない。
だが、それは気が高ぶっているためか、まだ残る竜の血の影響だろう。
幾重にも巻かれた細布はぐっしょりと濡れぼそっていて、太もも辺りまで濡れた感触もしている。
(この体で、あとどのくらい……)
「クルルゥー!」
(ロシュが戻ってきたのね)
頼もしい相棒の声を聞くアルテミシアが、呆然としているレヴィアを見やった。
「レヴィ」
春風の声に呼ばれて、毒竜から目を戻したレヴィアが慌てて立ち上がる。
「そうだミーシャ、ちゃんと手当てをしなくちゃ、かはっ……」
無防備なレヴィアの首側面に、アルテミシアの手刀が叩き込まれた。
意識を飛ばしかけて崩れ落ちるレヴィアの体を優しく支え、その耳元にアルテミシアが唇を寄せる。
『レヴィア。私の可愛い、大切な
そして、大地に横たわっていくレヴィアの耳に、アルテミシアの指笛と走り去る足音だけが残された。
「大丈夫か?!」
「どうした?なにやらかしちまったんだよ」
馬から降りたラシオンが、首筋を片手で押さえるレヴィアを肩に
「ねぇぇぇさああまあああ!」
痛みを
「お、さすがお嬢、アレを何とかしてくれる、……いや、待てよ?」
レヴィアを
「お嬢、なに考えて……」
ラシオンの脳裏を
何度も、何度も。
事あるごとに、地形を頭に叩き込むように。
「あっちは崖じゃねぇか!」
「っ!」
駆けつけたジーグがラシオンの言葉を耳にして、素早く指をくわえた。
「ピュィィー!!」
危急の指笛が耳に入ったディデリスが振り返り、
ジーグの腕が真っ直ぐに、アルテミシアと毒竜が走り去った方向に伸ばされた。
「崖に向かっている!私たちでは追いつかない!」
顔色を変えたディデリスの短く鋭い指笛に、ルベルが風のように走り出していった。
「フリーダ卿、力をお借りしたい。……どうしました?」
エリュローンで近付いてきたカイが、緊迫した空気に首を傾げる。
「向こうは、切り立った崖になってるんだ」
「まさかリズィエ……。いや、鉄壁は彼女を諦めない」
見る間に毒竜に追いついていくルベルを見送り、ジーグもうなずく。
「私たちは私たちの為すべきことをいたしましょう」
爪を突き立てた
俊足のルベルはあっという間に毒竜に追いつき、ディデリスは着火装置の鎖を握る。
その気配に
『ジャアマァ、シナイ、デっ』
ディデリスはルベルの
『ディーデニ、イッツモジャアアマアアア』
追い続けるルベルに、さらに毒息が迫る。
『ネェサマ、ツレテク、アソベナイ!キライィィィィ!』
毒をよけながら、蛇行して走るルベルの速度が落ちていく。
――フェティの腕を食べた不完全体は、あっという間に完全竜化した。ならば、
「悪魔の雫」を限度以上飲ませて自白させたクラディウス・ドルカは、虚ろなまなざしでそう言っていた。
――失敗だった。毒息の特殊能力は得たが竜化しない。不完全体ですらなく、
大量のよだれとともに、おぞましい話を白状し終わったクラディウスは、それっきり。
間近に迫る死を待つばかりの、肉塊となり果てたのだ。
『ジャアアマアアアっ。でぃでに、バァァカァァァァァ!』
吐き出される毒は、ディデリスの記憶にあるラキスの罵詈雑言そのままだった。
かつて叔父のサラマリス邸に顔を出せば、必ずと言っていいほど、ディデリスはラキスからの木の実や小石の攻撃にさらされた。
予定した訪問の際には廊下に油が塗られたり、鳥もちが仕掛けられていたり。
(大量のカエルの出迎えにあったときには、驚いたな。……俺とアルテミシアが大笑いをしてしまって、かなり
まだ小さなラキスは悔し涙を流しながら、声の限りに悪態をついていた。
サラマリスは家族の情が薄い傾向があり、自分も弟と遊んだ記憶も、遊びたいと思ったこともない。
だが、アルテミシアはあんなにも人懐こい性格をしているし、双子の
その弟であるラキスも、また違う感性を持っていたのかもしれない。
もっとラキスの話を聞いてやればよかった。
(そうは思っても、もう何もかも遅いな)
開いてしまった毒竜との距離を、ルベルが確実に詰めていく。
(一瞬でいい。毒竜の足を止めよう。……狙うのは目)
ディデリスは短刀を握り締めた。
成功率は
(駄目なら、ともに)
『ルベル、頼むぞ!』
ディデリスの指笛が高らかに鳴り渡り、小柄な赤竜が猛然と走る速度を上げた。
ディデリスに構い遅れる毒竜の気配を感じつつ、アルテミシアはロシュの首を叩く。
ロシュが浴びた
脇腹から流れる血は止まる気配はなく、体に力が入らなくなってきている。
『ねえ、ロシュ。レヴィとスィーニとお前。楽しかったわね。こんなに楽しい日々を過ごしたことは、なかったわ』
「クルゥ!」
『怒らないで聞いて。レヴィアを守りたいの』
鼻息を荒らげるロシュを
『五に一回、噴け』
指を鳴らし、指笛を交えた指示がロシュに与えられる。
『さあ行って!メイリの言うことをよく聞いてね。可愛い私のロシュ!』
「クルルルルルゥー!」
ふわりと
ディデリスの視線の先で、電模様の竜がその身を反転させて、こちらへ向かって走ってくる。
(戻ってきたのか?)
だが、ディデリスの期待も虚しく、無人の
空の
慌ててディデリスが前を向くと、
――ラキス――
その唇が弟の名を呼び、 毒竜がアルテミシアに突進していく。
『ねぇぇぇさあああまああああ』
『やめろ、やめてくれ!アルティ!!』
あと少し。もう少しで追いつくのに。
『アルテミシアぁぁ!!』
血を吐くようなディデリスの絶叫のなか、差し出された腕に毒竜の巨体が飛び込み、アルテミシアがその首を抱きしめた。
元結が
そして、アルテミシアは