祈りの歌
文字数 3,562文字
トーラ王子たちに儀礼的な挨拶をするころには、ディデリスはすっかり彫像に戻っていた。
『罪人を連れて一度戻るが、遠くないうちに親書を送ろう。その後、また来訪する』
『何のために?』
レヴィアの鋭いまなざしにも、ディデリスの無表情は崩れない。
『引き起こされるはずだったさらなる悲劇を、未然に防いでもらった謝礼に』
『必要ありません。僕たちも助けられ、むぐ』
いつになく強気な弟の口を、クローヴァが塞 いだ。
『お待ちしております。いずれ、チェンタ族長国とアガラム王国も含めた、一大合議を開催しようと思っております。ディアムド帝国に加わっていただけるのならば、これほど名誉で心強いことはありません』
柔和な笑みと剣呑 な瞳を同居させる第一王子を眺めながら、ディデリスは手を胸に当てて了承を伝えると、踵 を返していく。
「レヴィア」
クローヴァが振り向くと、弟はありありと不機嫌な顔を上げた。
「政 に私情を挟んでは駄目だよ」
微笑ましく思いながらも、一応兄として、為政に関わる者としてたしなめたのだが。
「アルテミシアが最優先に決まっています」
(おや)
ふいと顔を背けられて、クローヴァは目を見張る。
(こんな態度、初めてだな)
どう声をかけようかとクローヴァが悩む間に、レヴィアはそのまま、さっさと天幕の中へと入っていった。
ほんの少しの距離ではあるが、レヴィアは小走りになってアルテミシアの元へと急ぐ。
そして、枕元にひざまずくと、慎重にアルテミシアの首元に手を当てた。
「熱、あまり下がらないね。痛みは?……そう。違う薬茶を試してみようか」
向けられる、熱のせいだけではなく潤む若草色の瞳が切なくて。
レヴィアはアルテミシアの手を取って、ぎゅっと握った。
「ミーシャ。もう、我慢しなくていいよ。いいんだよ、大丈夫だよ。ミーシャは、頑張ったよ」
ゆったりとしたレヴィアのトーラ語を聞いたとたんに。
「ふ、くぅ……」
レヴィアの腕に額を寄せて嗚咽 を殺しながら、アルテミシアは静かに泣き始めた。
どのくらい、つらかっただろう。
つらいだろう。
いくら泣いたって、アルテミシアが受けた心の傷は、きっと消えない。
ただこの美しい涙が、アルテミシアの大切な人に届きますように。
レヴィアはそう祈りながら、アルテミシアの肩を擦 り続けた。
「あの彫像騎士は」
天幕の隅に下がったジーグに近寄りながら、クローヴァはふたりを見守る。
「リズィエの前だと、普通に血の通った人間になるんだね」
ジーグから尋ね顔を向けられたクローヴァは、悪戯 そうな顔をしながら、懐 に忍ばせた小さな鏡をちらりと見せた。
「寝台に縛りつけられた生活が長かったから。ダヴィドに頼んで、差し入れてもらったんだ。寝首を掻かれないようにね。……まあ、話している内容までは、さすがにわからなかったけれど」
(なるほど。監禁中、命を守るために身に付けた術 を用いて、天幕の外にいながら、中の様子をうかがっていたのか)
ジーグはクローヴァの用意周到さに舌を巻く。
「……少し落ち着いてきたかな、リズィエは」
クローヴァとジーグの視線の先で、レヴィアの腕にすがっていたアルテミシアの顔が上がった。
若草色の瞳にたまった涙を優しい指で拭 うと、レヴィアは微笑みながら首を傾ける。
「のどが渇いたでしょう?お茶、淹 れようか」
「ん」
「気分が和らぐお茶と、すっきりするお茶、どっちがいい?」
「おいしいほう」
「ふふ、じゃあ、僕に任せてくれる?」
「もちろん」
微笑み合うふたりから目を離さずに、クローヴァがさらに声を落とした。
「それにしても、あれは帝国での普通の挨拶?」
「挨拶?……額への口付けですか?」
「そう。トーラでは口付けは恋人同士のものか、幼子へのものだからね。従兄妹 同士だとしても、過度な触れ合いだなと思っていたけれど。でも、副隊長もしていたね。あれは帝国の流儀なの?」
「帝国というより、竜族の慣習です。無防備な頭部への口付けは信頼の証 。ただし、上の者が下の者に許す行為です」
「あの彫像騎士よりも上の立場なの?リズィエは。サラマリス当主家の姫だから?」
「それもありますが……。サラマリスの血を引く女性は、特別の存在です。もともとサラマリス家の子女 は、特殊な育ち方をするので」
「特殊?」
「毒への耐性のつけ方は、子供に施すものとは思えないほど苛烈です」
「……ああ、だから、リズィエは」
――かなりの毒に耐性があります――
トーラ国での凱旋会を思い出して、クローヴァの顔が曇る。
「それは必要なことなの?」
「何かと暗殺の対象となるため、と聞いています。実際リズィエもあの男も幼少期、何度か危険に晒 されています」
主筋 であったサラマリス家の竜騎士を、ジーグは複雑そうに「あの男」と呼んだ。
その違和感に、クローヴァの眉間にシワが寄る。
だが、不審そうにするクローヴァを無視して剣士は続けた。
「ですから、サラマリスの者が成人すると、一族あげての祝賀の宴 が設けられますし、子を成すことのできる女性の場合は、さらに盛大に祝われます。当主には年の離れた妹御がいらっしゃるのですが、当主もその兄上も妹御には逆らえず、ほぼ言いなりでしたよ。とはいえ、サラマリス一族はあまり表情を動かさないので、傍 から見れば、奇妙な可愛がり方でしたが」
ジーグに懐かしそうな苦笑いが浮かぶ。
「あの冷静な当主も、滅多に表情筋を動かさない兄上も。妹御の額に口付けるときだけは、”慈しんでいる”と、誰もがわかるお顔をされていらっしゃいました」
「そう、なんだね。ならば、あとでレヴィアに教えてあげないと」
小さく笑って、クローヴァをレヴィアを盗み見た。
「口付けられるリズィエが鏡に映るたび、それは怖い顔をしていたから」
兄と師匠が見守るなか、レヴィアは調合した茶葉に丁寧に湯を注いでいる。
「あの子は自分の気持ちに気がついたんだね」
(けれど、彼女のほうは……)
浅く、速い呼吸を漏らすアルテミシアの傍 らに、十分冷ました薬茶を持ってレヴィアが戻った。
「少し、無理しちゃったね」
「これ、菫 の香りがする。トレキバで淹 れてくれた味だ」
アルテミシアの舌に懐かしい風味が広がり、今、命があることを実感させられてしまう。
(また、生き残ってしまったんだわ……)
守るべきだったのに。
そのために、この命はあったのに。
どこまでも身勝手に、残酷に奪われていった家族。
執着に飲み込まれ、存在を手放した幼馴染み。
大切な人もいただろうに、大いなる矮小な欲望に巻き込まれた者たち。
(そのために生きろと言われていたのに……)
絶望に侵食され始めたアルテミシアの唇が、吸い口から離れかける。
「ミーシャが好きだと思ったから、砂糖漬けを入れてみたんだ」
目を上げれば、
――ミーシャは心が痛いんだよ――
まだ人の手を怖がっていた小さなレヴィアが、自分のために淹 れてくれた薬茶。
(……何も変わらないのね、レヴィアは)
孤独のなかにありながら、ためらいなく手を伸ばしてくれた小さな子。
持てるすべてを与えてくれた優しい子。
だから、その楔を解き放ってあげたかった。
閉じ込められていた場所から、自由に飛び立ってほしかった。
重く苦い思いにはふたをして、アルテミシアは微笑む。
「いい香り。美味しい。もっと飲みたい」
「お腹は苦しくない?」
「ない。……ん、本当に美味しい」
用意した半分以上も飲むことができたアルテミシアに、レヴィアの表情がほっと緩んだ。
「だいぶ汗をかいたね。メイリを呼んで、体を拭 いてもらおうね。それから張り薬を換えて……、あ、その前に、少し眠る?疲れたよね」
あたふたと世話を焼くレヴィアを見て、アルテミシアの微笑が深まる。
「そうだな、少し眠い。眠り草を入れた?」
「入れてないよ。自然に眠くなったのならよかった。ゆっくり休んで。また、来るから」
立ち去ろうとしたレヴィアの袖 を、アルテミシアがきゅっとつかんだ。
「どうしたの?まだつらい?」
気遣わしそうに振り返ったレヴィアに、アルテミシアはゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫。でもレヴィ、歌って?お母さまの歌。あの旋律は、すごく好きなんだ」
――旋律というより、レヴィアの歌声が好きなんだ――
そう続けようとしたのに。
なぜだかわからないが、胸に何かが詰まったようで言葉にできない。
「いいよ、もちろん」
アルテミシアが迷っているうちに、レヴィアが再び枕元に膝をついて、歌い始めた。
「”懐かしく愛しい、遥かなる者。今は安らぎ、静かに眠る……”」
異国の調べと、レヴィアの柔らかいアガラム語の歌声が、アルテミシアの痛みを拭 っていく。
兄と従者はその歌声を耳に、静かに天幕をあとにしていった。
『罪人を連れて一度戻るが、遠くないうちに親書を送ろう。その後、また来訪する』
『何のために?』
レヴィアの鋭いまなざしにも、ディデリスの無表情は崩れない。
『引き起こされるはずだったさらなる悲劇を、未然に防いでもらった謝礼に』
『必要ありません。僕たちも助けられ、むぐ』
いつになく強気な弟の口を、クローヴァが
『お待ちしております。いずれ、チェンタ族長国とアガラム王国も含めた、一大合議を開催しようと思っております。ディアムド帝国に加わっていただけるのならば、これほど名誉で心強いことはありません』
柔和な笑みと
「レヴィア」
クローヴァが振り向くと、弟はありありと不機嫌な顔を上げた。
「
微笑ましく思いながらも、一応兄として、為政に関わる者としてたしなめたのだが。
「アルテミシアが最優先に決まっています」
(おや)
ふいと顔を背けられて、クローヴァは目を見張る。
(こんな態度、初めてだな)
どう声をかけようかとクローヴァが悩む間に、レヴィアはそのまま、さっさと天幕の中へと入っていった。
ほんの少しの距離ではあるが、レヴィアは小走りになってアルテミシアの元へと急ぐ。
そして、枕元にひざまずくと、慎重にアルテミシアの首元に手を当てた。
「熱、あまり下がらないね。痛みは?……そう。違う薬茶を試してみようか」
向けられる、熱のせいだけではなく潤む若草色の瞳が切なくて。
レヴィアはアルテミシアの手を取って、ぎゅっと握った。
「ミーシャ。もう、我慢しなくていいよ。いいんだよ、大丈夫だよ。ミーシャは、頑張ったよ」
ゆったりとしたレヴィアのトーラ語を聞いたとたんに。
「ふ、くぅ……」
レヴィアの腕に額を寄せて
どのくらい、つらかっただろう。
つらいだろう。
いくら泣いたって、アルテミシアが受けた心の傷は、きっと消えない。
ただこの美しい涙が、アルテミシアの大切な人に届きますように。
レヴィアはそう祈りながら、アルテミシアの肩を
「あの彫像騎士は」
天幕の隅に下がったジーグに近寄りながら、クローヴァはふたりを見守る。
「リズィエの前だと、普通に血の通った人間になるんだね」
ジーグから尋ね顔を向けられたクローヴァは、
「寝台に縛りつけられた生活が長かったから。ダヴィドに頼んで、差し入れてもらったんだ。寝首を掻かれないようにね。……まあ、話している内容までは、さすがにわからなかったけれど」
(なるほど。監禁中、命を守るために身に付けた
ジーグはクローヴァの用意周到さに舌を巻く。
「……少し落ち着いてきたかな、リズィエは」
クローヴァとジーグの視線の先で、レヴィアの腕にすがっていたアルテミシアの顔が上がった。
若草色の瞳にたまった涙を優しい指で
「のどが渇いたでしょう?お茶、
「ん」
「気分が和らぐお茶と、すっきりするお茶、どっちがいい?」
「おいしいほう」
「ふふ、じゃあ、僕に任せてくれる?」
「もちろん」
微笑み合うふたりから目を離さずに、クローヴァがさらに声を落とした。
「それにしても、あれは帝国での普通の挨拶?」
「挨拶?……額への口付けですか?」
「そう。トーラでは口付けは恋人同士のものか、幼子へのものだからね。
「帝国というより、竜族の慣習です。無防備な頭部への口付けは信頼の
「あの彫像騎士よりも上の立場なの?リズィエは。サラマリス当主家の姫だから?」
「それもありますが……。サラマリスの血を引く女性は、特別の存在です。もともとサラマリス家の
「特殊?」
「毒への耐性のつけ方は、子供に施すものとは思えないほど苛烈です」
「……ああ、だから、リズィエは」
――かなりの毒に耐性があります――
トーラ国での凱旋会を思い出して、クローヴァの顔が曇る。
「それは必要なことなの?」
「何かと暗殺の対象となるため、と聞いています。実際リズィエもあの男も幼少期、何度か危険に
その違和感に、クローヴァの眉間にシワが寄る。
だが、不審そうにするクローヴァを無視して剣士は続けた。
「ですから、サラマリスの者が成人すると、一族あげての祝賀の
ジーグに懐かしそうな苦笑いが浮かぶ。
「あの冷静な当主も、滅多に表情筋を動かさない兄上も。妹御の額に口付けるときだけは、”慈しんでいる”と、誰もがわかるお顔をされていらっしゃいました」
「そう、なんだね。ならば、あとでレヴィアに教えてあげないと」
小さく笑って、クローヴァをレヴィアを盗み見た。
「口付けられるリズィエが鏡に映るたび、それは怖い顔をしていたから」
兄と師匠が見守るなか、レヴィアは調合した茶葉に丁寧に湯を注いでいる。
「あの子は自分の気持ちに気がついたんだね」
(けれど、彼女のほうは……)
浅く、速い呼吸を漏らすアルテミシアの
「少し、無理しちゃったね」
「これ、
アルテミシアの舌に懐かしい風味が広がり、今、命があることを実感させられてしまう。
(また、生き残ってしまったんだわ……)
守るべきだったのに。
そのために、この命はあったのに。
どこまでも身勝手に、残酷に奪われていった家族。
執着に飲み込まれ、存在を手放した幼馴染み。
大切な人もいただろうに、大いなる矮小な欲望に巻き込まれた者たち。
(そのために生きろと言われていたのに……)
絶望に侵食され始めたアルテミシアの唇が、吸い口から離れかける。
「ミーシャが好きだと思ったから、砂糖漬けを入れてみたんだ」
目を上げれば、
あのとき
と同じ顔をしたレヴィアが見下ろしていた。――ミーシャは心が痛いんだよ――
まだ人の手を怖がっていた小さなレヴィアが、自分のために
(……何も変わらないのね、レヴィアは)
孤独のなかにありながら、ためらいなく手を伸ばしてくれた小さな子。
持てるすべてを与えてくれた優しい子。
だから、その楔を解き放ってあげたかった。
閉じ込められていた場所から、自由に飛び立ってほしかった。
重く苦い思いにはふたをして、アルテミシアは微笑む。
「いい香り。美味しい。もっと飲みたい」
「お腹は苦しくない?」
「ない。……ん、本当に美味しい」
用意した半分以上も飲むことができたアルテミシアに、レヴィアの表情がほっと緩んだ。
「だいぶ汗をかいたね。メイリを呼んで、体を
あたふたと世話を焼くレヴィアを見て、アルテミシアの微笑が深まる。
「そうだな、少し眠い。眠り草を入れた?」
「入れてないよ。自然に眠くなったのならよかった。ゆっくり休んで。また、来るから」
立ち去ろうとしたレヴィアの
「どうしたの?まだつらい?」
気遣わしそうに振り返ったレヴィアに、アルテミシアはゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫。でもレヴィ、歌って?お母さまの歌。あの旋律は、すごく好きなんだ」
――旋律というより、レヴィアの歌声が好きなんだ――
そう続けようとしたのに。
なぜだかわからないが、胸に何かが詰まったようで言葉にできない。
「いいよ、もちろん」
アルテミシアが迷っているうちに、レヴィアが再び枕元に膝をついて、歌い始めた。
「”懐かしく愛しい、遥かなる者。今は安らぎ、静かに眠る……”」
異国の調べと、レヴィアの柔らかいアガラム語の歌声が、アルテミシアの痛みを
兄と従者はその歌声を耳に、静かに天幕をあとにしていった。