外れ者の姫
文字数 3,909文字
トゥクースは積雪の多い都市ではないが、冬には毎日のように雪が舞う。
今日は少し雪の量が多いようだ。
南向きの窓から遠く望む針葉樹の森が、薄っすらと雪化粧をまとっている。
兄王子が王宮を去り、弟王子が首都に来て、家庭教師が消えた。
それからメテラの元には、呼ばなければ誰も来ない。
あれやこれや世話をやかれるのも煩 かったが、こうもあからさまだと笑ってしまう。
「どうせ、外 れ者の癇癪 姫だわ」
メテラの独り言が、冷えた床に吸い込まれていった。
ごてごてした豪奢 な宮廷服は、離宮に行こうとして行けなかったあの日以来、袖 を通していない。
使用人が着るような簡素な平服を着て、髪も地味にまとめ上げたメテラは、ぼんやりと庭を眺め続けている。
トン、トトトトン。
不意に、部屋の扉が叩かれた。
聞き覚えのあるその合図に、メテラはさび付いた絡繰 り人形のように首を向け、扉を凝視する。
再び、軽く戯 れるような音が室内に響く。
「……どうぞ……」
「やぁ、久しぶり」
「クローヴァ、殿下」
扉を開けて入ってきたその人を見て、メテラは言葉を続けることができなかった。
会うのは何年ぶりだろう。
クローヴァが軟禁されてしまってからは一度だけ、恫喝 に近い形で使用人に頼み込み、カーフが外出した隙 に果物を差し入れたことがある。
そのとき微笑んでくれたクローヴァは青白い顔をして、寝台から起き上がることもできない様子だったのに。
「ご無沙汰しております」
見違えるほど男ぶりの良い兄王子に、メテラは涼やかで落ち着いた、彼女本来の声で挨拶を返した。
優雅に淑女の礼をとるメテラに、クローヴァは苦笑いを浮かべる。
「他人行儀だね。元気だった?」
「だって、他人ですから」
榛色 の瞳が自虐的に歪んだ。
「私は陛下の娘では……、!」
歩み寄ったクローヴァがメテラの唇に指を当て、その言葉を止める。
「父上は貴女 を、実の娘としてレーンヴェストに迎えた。貴女 に豊穣 の女神の名を付けたのは、父上なのだよ」
苛立ちのない可愛らしいメテラの瞳が、驚きに揺れた。
「貴女 には、確実に王家の”時”が流れている。絆は血などでは作られない。北棟にいたとき、果物を持ってきてくれたことがあったろう。ダヴィドから聞いているよ。あのあと、貴女 はカーフから……」
浮かんだ涙を隠すように、クローヴァにそれ以上言葉を紡がせないように。
メテラは大きく首を横に振った。
その目尻から流れようとした雫を、クローヴァの指がそっとすくい上げる。
「貴女 は、……知っていたのだね。いったい誰が」
「教えられたわけではありません」
震えるメテラの声が、責めるようなクローヴァをさえぎった。
「ずっとおかしいと思っていたのです。私は陛下や殿下と、あまりにも似ていない。母は離縁されたと聞きますが、その理由を誰も教えてくれなかった。……カーフがここに来て間もなく、彼に来客があって……」
母の実家だと言うアッスグレン家から教育係が寄こされたのは、メテラが六歳の冬。
その日は暗い雲が垂れ込める雪交じりの天気で、その空に似た鉛 色をした目の男は、初対面の挨拶でもニコリともしなかった。
その日以来、それまで父王が付けてくれていた家庭教師も、遊び相手の貴族の子女たちも。
親しかった者たちはすべて遠ざけられ、メテラは王宮で孤立を深めた。
カーフの授業は、幼いメテラには苦痛で苦痛で。
少しの間違いも許されず、激しく平手を振るわれることもあった。
惨 い仕打ちに「父上に言う」と泣きながら訴えたこともあるが、カーフは薄く笑うばかり。
「私は陛下に許されてここにいます。言わば、私が陛下の代理なのです。言いつけるとは、陛下に逆らうということ」
カーフのその言葉は、メテラの心に呪いのように刻み込まれた。
王女とかしずかれ、一応は丁寧に扱われる。
だが、身の回りの世話をする使用人も、いつの間にか、カーフが選んだ者たちばかりになっていた。
涙を見せれば「王族のくせ不甲斐ない」と嘲 笑われ、誰に助けを求めることもできない。
やり切れない気持ちを使用人にぶつければ、「癇癪 姫」などのあだ名で呼ばれる始末。
夏を迎えたある日、昼食を持ってきた使用人が、意外なことを口にした。
「……午後のお勉強は、お休み?」
「カーフ様にお客様があります。本日はこれ以降、自由になさってください」
「そう」
飛び上がりたいくらい嬉しかったが、その様子を告げ口されては、またあとが怖い。
「わかったわ。さっさと下がってちょうだい」
高飛車な態度は変わらないが、いつもの癇癪 がなかったことにほっとしながら、使用人は退出していった。
(ずっと自由だなんて、何をしよう!)
食事もそこそこに、メテラは窓から身を乗り出して外を眺める。
(前に行った王宮の森に、兎 の家族がいたわね。……うん、行ってみよう!兎 の子が増えてるかも)
メテラは外出着に着替えると、部屋を飛び出していった。
兎 の子は見つからなかったが、森の中を久し振りに思い切り走った。
以前は、みんなでかくれんぼなどしたのに。
寂しく思いながら、開けた草原 までたどりついて、野花を摘 んでいるとき。
遠くから男の声が聞こえてきた。
あのねっとりとしたしゃべり方は。
(カーフ?!)
声はだんだんとこちらへ近づいてくる。
メテラは慌てて大きな木によじ登った。
(確か、大きな洞 があったはず!)
「ここも変わらないな」
メテラが洞 に体をねじ込んだのと同時に、品の良い男の声が聞こえてくる。
「来たことがおありですか」
ねっとりとした、なんの感情もうかがえない声が応えた。
「子供のころ、ヴァーリに連れられてな。退屈な昼餐会 を抜けられたのは良かったが、ヴァーリもまた下らない人間だった。狩りをしようと誘ったら、”遊びで動物を殺すのは好まない”などと、腑抜けたことを言っていた」
「さようでございますか」
「今も変わらず腰抜けだ。外道共 に国を開いて何になる。”共存共栄の先にある和平を目指す”?まったく馬鹿らしい」
優美な声に嘲笑 が混じる。
「ところでどうだ、外れ者の姫の様子は」
その言葉に、メテラは耳を殴られたような衝撃を受けた。
「姫」といえば自分のことだろう。
だが、「外れ者」とは?
「最近では抗 うこともなくなりました。たかが子供ひとり、従わせることなど簡単です」
「そうか。しかし、ヴァーリはよくあの娘を王家へ迎え入れたな。自分の子でもないというのに」
体中の血が、一瞬にして足元に流れ落ちるような感覚をメテラは味わう。
(お父様の子では、ない?)
「あのアバズレはどうしたのだったか。婚姻前に妊娠しているなど、はしたない。父親は誰だった」
「頑 として口は割りませんでした。輿入 れ前でしたから、拷問にかけるわけにもいかず……。初期なのだから、何食わぬ顔をしていろと命じたのに自害を図るなど、まったく迷惑千万。田舎に移動する途中、アッスグレンが上手くやりました。
ふっと鼻で笑う気配がする。
「ふしだらな女の末路としては上等だろう。そうか。では、あの娘が外れ者であることを王宮で知るのは、ヴァーリだけか」
「おそらく」
「奴は黙らせておけるか」
「クローヴァ殿下のご体調が、最近どうも芳 しくありません。
「はは、さすが”アバテ”だ。もちろん、ヴァーリは感づいているだろうな」
「でなければ、脅しになりません。特例を設け、あの年で士官寄宿舎へ入れることにしたのも、そのためでしょう」
「ふん。もう少しだったのにな。まぁ、この先機会はいくらでもある。では、今のところ、計画は順調だな」
「はい」
「引き続き、外れ者はお前の言いなりになるよう躾 けろ。あばずれの血だが女は女だ。王家の者だと世間に認めさせてしまえば、利用価値はある」
「かしこまりました。兄上」
「カーフに兄?……どんな男だった」
「顔は見ておりません」
メテラはうつむき加減に首を横に振った。
「恐ろしくて、悲しくて。動くこともできず……。ただ、それで私は知ったのです。私は父のわからない、あばずれの……」
涙声のメテラを、クローヴァがゆっくりと抱きしめる。
「それは違う。そんなことを言ってはならない。……カーフめっ!弟ばかりか、妹までにもっ」
メテラの背に添えられたクローヴァの手が、怒りを込めて握られた。
「でも、おにい、クローヴァ殿下も当時……」
「もう兄とは呼んでくれないの?」
悪戯 そうに笑うクローヴァが、メテラをのぞき込む。
「メテラ、僕の妹。よく聞いて」
潤んだ榛色 の瞳が上がった。
「カーフは今、行方知れずだ。アッスグレン当主兄弟も牢の中。だが、彼らの息の掛かった反王家の者たちが、貴女 の周りには入り込んでいる。このままでは終わるまい。最近、変わったことはない?危険を感じることは?」
「不可思議なことと言えば……。身辺が騒がしく不安だろうとおっしゃって、ロキュス様がたびたび、贈り物を持っていらっしゃいます」
「ロキュス?」
「ジェライン・セディギア様の、秘書をなさっているとか」
「セディギアの一族なの?」
軟禁生活が長かったため、クローヴァは最近の王宮事情に詳しくない。
「父上はご存じなのか?次はいつ来ると?」
「陛下にはお話しする機会がなくて……。明後日、ジェライン様と王宮を訪れるついでに、こちらに立ち寄ると」
クローヴァの瞳が剣呑に細められる。
「メテラ。その日はずっと庭にいなさい。東屋 の周りに焚火台 を用意させよう。今日のような日でも、僕の妹が凍えないように」
警戒を露わにしたクローヴァに、メテラは不安そうにうなずいた。
今日は少し雪の量が多いようだ。
南向きの窓から遠く望む針葉樹の森が、薄っすらと雪化粧をまとっている。
兄王子が王宮を去り、弟王子が首都に来て、家庭教師が消えた。
それからメテラの元には、呼ばなければ誰も来ない。
あれやこれや世話をやかれるのも
「どうせ、
メテラの独り言が、冷えた床に吸い込まれていった。
ごてごてした
使用人が着るような簡素な平服を着て、髪も地味にまとめ上げたメテラは、ぼんやりと庭を眺め続けている。
トン、トトトトン。
不意に、部屋の扉が叩かれた。
聞き覚えのあるその合図に、メテラはさび付いた
再び、軽く
「……どうぞ……」
「やぁ、久しぶり」
「クローヴァ、殿下」
扉を開けて入ってきたその人を見て、メテラは言葉を続けることができなかった。
会うのは何年ぶりだろう。
クローヴァが軟禁されてしまってからは一度だけ、
そのとき微笑んでくれたクローヴァは青白い顔をして、寝台から起き上がることもできない様子だったのに。
「ご無沙汰しております」
見違えるほど男ぶりの良い兄王子に、メテラは涼やかで落ち着いた、彼女本来の声で挨拶を返した。
優雅に淑女の礼をとるメテラに、クローヴァは苦笑いを浮かべる。
「他人行儀だね。元気だった?」
「だって、他人ですから」
「私は陛下の娘では……、!」
歩み寄ったクローヴァがメテラの唇に指を当て、その言葉を止める。
「父上は
苛立ちのない可愛らしいメテラの瞳が、驚きに揺れた。
「
浮かんだ涙を隠すように、クローヴァにそれ以上言葉を紡がせないように。
メテラは大きく首を横に振った。
その目尻から流れようとした雫を、クローヴァの指がそっとすくい上げる。
「
「教えられたわけではありません」
震えるメテラの声が、責めるようなクローヴァをさえぎった。
「ずっとおかしいと思っていたのです。私は陛下や殿下と、あまりにも似ていない。母は離縁されたと聞きますが、その理由を誰も教えてくれなかった。……カーフがここに来て間もなく、彼に来客があって……」
母の実家だと言うアッスグレン家から教育係が寄こされたのは、メテラが六歳の冬。
その日は暗い雲が垂れ込める雪交じりの天気で、その空に似た
その日以来、それまで父王が付けてくれていた家庭教師も、遊び相手の貴族の子女たちも。
親しかった者たちはすべて遠ざけられ、メテラは王宮で孤立を深めた。
カーフの授業は、幼いメテラには苦痛で苦痛で。
少しの間違いも許されず、激しく平手を振るわれることもあった。
「私は陛下に許されてここにいます。言わば、私が陛下の代理なのです。言いつけるとは、陛下に逆らうということ」
カーフのその言葉は、メテラの心に呪いのように刻み込まれた。
王女とかしずかれ、一応は丁寧に扱われる。
だが、身の回りの世話をする使用人も、いつの間にか、カーフが選んだ者たちばかりになっていた。
涙を見せれば「王族のくせ不甲斐ない」と
やり切れない気持ちを使用人にぶつければ、「
夏を迎えたある日、昼食を持ってきた使用人が、意外なことを口にした。
「……午後のお勉強は、お休み?」
「カーフ様にお客様があります。本日はこれ以降、自由になさってください」
「そう」
飛び上がりたいくらい嬉しかったが、その様子を告げ口されては、またあとが怖い。
「わかったわ。さっさと下がってちょうだい」
高飛車な態度は変わらないが、いつもの
(ずっと自由だなんて、何をしよう!)
食事もそこそこに、メテラは窓から身を乗り出して外を眺める。
(前に行った王宮の森に、
メテラは外出着に着替えると、部屋を飛び出していった。
以前は、みんなでかくれんぼなどしたのに。
寂しく思いながら、開けた
遠くから男の声が聞こえてきた。
あのねっとりとしたしゃべり方は。
(カーフ?!)
声はだんだんとこちらへ近づいてくる。
メテラは慌てて大きな木によじ登った。
(確か、大きな
「ここも変わらないな」
メテラが
「来たことがおありですか」
ねっとりとした、なんの感情もうかがえない声が応えた。
「子供のころ、ヴァーリに連れられてな。退屈な
「さようでございますか」
「今も変わらず腰抜けだ。
優美な声に
「ところでどうだ、外れ者の姫の様子は」
その言葉に、メテラは耳を殴られたような衝撃を受けた。
「姫」といえば自分のことだろう。
だが、「外れ者」とは?
「最近では
「そうか。しかし、ヴァーリはよくあの娘を王家へ迎え入れたな。自分の子でもないというのに」
体中の血が、一瞬にして足元に流れ落ちるような感覚をメテラは味わう。
(お父様の子では、ない?)
「あのアバズレはどうしたのだったか。婚姻前に妊娠しているなど、はしたない。父親は誰だった」
「
事故
で死んだのならば、仕方ありますまい」ふっと鼻で笑う気配がする。
「ふしだらな女の末路としては上等だろう。そうか。では、あの娘が外れ者であることを王宮で知るのは、ヴァーリだけか」
「おそらく」
「奴は黙らせておけるか」
「クローヴァ殿下のご体調が、最近どうも
お食事が口に合わない
ようです」「はは、さすが”アバテ”だ。もちろん、ヴァーリは感づいているだろうな」
「でなければ、脅しになりません。特例を設け、あの年で士官寄宿舎へ入れることにしたのも、そのためでしょう」
「ふん。もう少しだったのにな。まぁ、この先機会はいくらでもある。では、今のところ、計画は順調だな」
「はい」
「引き続き、外れ者はお前の言いなりになるよう
「かしこまりました。兄上」
「カーフに兄?……どんな男だった」
「顔は見ておりません」
メテラはうつむき加減に首を横に振った。
「恐ろしくて、悲しくて。動くこともできず……。ただ、それで私は知ったのです。私は父のわからない、あばずれの……」
涙声のメテラを、クローヴァがゆっくりと抱きしめる。
「それは違う。そんなことを言ってはならない。……カーフめっ!弟ばかりか、妹までにもっ」
メテラの背に添えられたクローヴァの手が、怒りを込めて握られた。
「でも、おにい、クローヴァ殿下も当時……」
「もう兄とは呼んでくれないの?」
「メテラ、僕の妹。よく聞いて」
潤んだ
「カーフは今、行方知れずだ。アッスグレン当主兄弟も牢の中。だが、彼らの息の掛かった反王家の者たちが、
「不可思議なことと言えば……。身辺が騒がしく不安だろうとおっしゃって、ロキュス様がたびたび、贈り物を持っていらっしゃいます」
「ロキュス?」
「ジェライン・セディギア様の、秘書をなさっているとか」
「セディギアの一族なの?」
軟禁生活が長かったため、クローヴァは最近の王宮事情に詳しくない。
「父上はご存じなのか?次はいつ来ると?」
「陛下にはお話しする機会がなくて……。明後日、ジェライン様と王宮を訪れるついでに、こちらに立ち寄ると」
クローヴァの瞳が剣呑に細められる。
「メテラ。その日はずっと庭にいなさい。
警戒を露わにしたクローヴァに、メテラは不安そうにうなずいた。