分水嶺(ぶんすいれい)
文字数 3,401文字
風が吹き抜けるたび、森のなかを赤や黄に染められた広葉樹の葉が踊る。
澄み渡った湖から吹いてくるその風は冷気を含んで、冬の始まりを告げていた。
湖を見渡せる露台 に置かれた椅子 に座るクローヴァは、風を受けて目を閉じる。
ここは離宮の一室。
掃き出し窓から直接出られる露台 には陽が降り注ぎ、短く整えたクローヴァの金髪をきらめかせていた。
背後から聞こえた軽い音にクローヴァが振り返ると、金の縁取りのある軍服を着た弟の半身が、扉からのぞいている。
「クローヴァでん……」
「ん?なんだって?」
おどけてにらむ紺碧 の瞳に、レヴィアがクスリと笑う。
「兄さま。お加減は、いかがですか?」
三歳で別れた異母兄のことを、レヴィアはまったく覚えていなかった。
そのため離宮で顔を合わせた際には、敬意を込めて「クローヴァ殿下」と呼びかけたのだが。
「殿下だって?!……もう”兄さま”とは呼んでくれないんだね。時の流れとは、かくも残酷なものか……」
クローヴァは目頭を寝巻の袖 で押さえながら、ウソ泣きをする。
「僕はよく覚えている。レヴィアのことも、リーラ義母上 のことも。君はとても可愛くて、義母上 は素敵な方だった。僕にはかけがえのない思い出なんだよ。どうか、昔のように兄と呼んで」
口を開いたら泣いてしまいそうで。
レヴィアは唇を噛みしめながら、コクリとうなずいて了承を示した。
「今日は咳も出ないし、気分もいいよ。レヴィアの薬茶がとても体に合うみたいだ」
暗く底冷えする部屋に押し込められ、体を蝕 まれていたクローヴァであるが。
離宮に移ってきてからは、日ごと顔色が良くなってきている。
「よかった。では、その薬茶のお時間です」
レヴィアが煎 じ薬を傍 らの円卓に置くのと同時に、露台 前の植え込みがガサガサと揺れた。
「おはよう、リズィエ・アルテミシア。今日は、せっかくの髪を隠しているんだね」
生垣からひょっこりと頭を出した旅装束 を見て、クローヴァの瞳が弧を描く。
「おはようございます、トーラの王子たち。愚連隊の相手をしておりましたので」
アルテミシアは頭巾 と襟巻 を取りながら、前庭へと姿を現した。
春先から奔走 したジーグによって、今や離宮は、レヴィアとその直属隊の牙城となっている。
愛想がよく口の上手いラシオンと、寡黙で穏やかなトーレを先に送り込んだことが功を奏し、使用人や周辺の住民との関係は良好。
トレキバに残った愚連隊たちも、それぞれ急激な成長をみせていた。
動物好きのメイリは、厩舎 の管理を一手に引き受けられるほどの技術を会得している。
アスタはリズワンの指導の下、弓術 の才能を開花させた。
長く両親と暮らした経験のあるフロラは、家事全般が得意で。
その家庭料理の腕たるや、食べた皆が「料理屋が開ける」と太鼓判を押すほどだった。
農家の息子だったスヴァンは、畑仕事ならば何でもござれ。
手先も器用で、嬉々としてレヴィアから医薬学を学び始めている。
そして、ヴァイノは。
アルテミシアから子犬認定を受けてから数日後。
「お願い!オレを隊長の弟子にして!」
ヴァイノは出かけようとしていたジーグの行く手を阻 んで、頭を下げた。
「と、言われてもな……。私はこれからトレキバに長くはいない。ラシオンも連れて行くし、スライは……、レヴィアにつきっきりか」
「それなら、私に任せろ」
「ふくちょ?!」
突然の声に、ヴァイノは目を丸くして振り返る。
「ヴァイノは良い目と肩を持っている。すばしっこいし、お前は接近戦向きだろう」
旅装束 の下から取り出された短剣が、アルテミシアの手の中でくるりと回った。
「レヴィアには皆伝 したから、次はヴァイノだな」
「……体術はまだ、だよ。短剣だって、やってないと腕が鈍る」
足音もなく現れた無表情のレヴィアが、アルテミシアとヴァイノの間に割って入ってくる。
「そうか。それもそうだな。では、ふたりまとめて面倒見よう。それからヴァイノ。読み書きも、ちゃんとやらないどダメだぞ」
「えぇ?!」
額に「嫌だ」と書いてある顔でヴァイノがのけぞった。
「ジーグがいないからって、逃げられると思うなよ。代理教師は優秀だぞ?脱走常習犯だったんだから」
若草色の瞳が、笑いながらレヴィアを見上げる。
「な、レヴィ。一緒に監視しよう」
「ミ、副長と、一緒に?」
レヴィアがアルテミシアの頭巾 をのぞき込んだ。
「そう。私と一緒に」
「うん!」
たちまち顔を明るくしたレヴィアを見て、ジーグの目元が緩む。
「これは逃げられないな。副長と王子に認められたら、お前もフリーダ隊の一員に加えよう、ヴァイノ」
「え、本当?!」
座学 の宣言に心が折れそうだったヴァイノが、ジーグの厚みのある大きな手を取って、目を輝かせた。
「オレ、ジーグさんの役に立つよ!」
「そうか、楽しみにしている。レヴィア、
「はい」
先ほどの無表情が嘘のように、レヴィアは嬉しそうな笑顔でジーグを見上げた。
そして、秋も終わるころ。
それぞれの役割をそのまま引き継げる施設が離宮に整い、フリーダ隊と愚連隊は、拠点 をトレキバからトゥクース離宮へと移したのだ。
「愚連隊?ヴァイノと稽古 、してたの?僕、いないのに。……また?」
レヴィアの声が、だんだんと低くなっていく。
弟子となって以降、ヴァイノはすきあらば剣の稽古 をねだるものだから、そのたびにアルテミシアは「お前は遊び盛りの子犬かっ」と、呆れて笑うのが常だった。
本当に、どこで見ているのか。
不思議に思うほど、ヴァイノはアルテミシアの手の空く時間を見逃さない。
ふたりきりで手合わせをしていることもしばしばで、それを見かけるたびに、レヴィアはモヤモヤした気持ちになるのだ。
「スヴァンとトーレも一緒にな。あのふたりも、護身術くらいは身につけておいたほうがいい。これから何があるかわからない」
「すまない。僕を王宮から連れ出してくれたばかりに。回復したら、僕もフリーダ隊に加わろう」
「僕も、もっと頑張るよ」
真面目な顔をする王子たちの前まで来ると、アルテミシアが明るい声で笑う。
「軍と行動をともにする者にとっては、当たり前のことです。おふたりが責任を感じる必要はどこにも」
さやさやと吹いてきた秋風に、薔薇の花束のような巻き髪が揺れる。
「それに、クローヴァ殿下はご自分の正規隊をご統率なさるお立場でしょう。……レヴィときたら」
若草色の瞳が深い笑みを浮かべた。
「確かにレヴィは竜騎士だ。でも、貴方 の命 に私たちは従う。貴方 のために私は戦う。レヴィが指揮官なんだぞ」
「頼もしい竜騎士だね。僕の隊には、ぜひ貴女 が欲しいな」
「え?!」
驚いて目をやれば、兄は風に躍る巻き髪を指に絡めて、意味深に口の端を上げている。
「だ、だめ、です。ミーシャは、駄目」
「でも、竜騎士はふたりいるだろう?ひとりは僕の隊に来てほしいな」
「!」
レヴィアは思わず、兄から紅い巻き髪を奪い返した。
「ご指名は光栄ですが、ロシュとスィーニがそろってこその騎竜隊です。それに、私はレヴィを守るためトーラ国民となりました。離れるなんて考えられません」
きっぱりと断るアルテミシアに、レヴィアはほっと胸をなでおろす。
「こういうときはね、レヴィア。感謝を込めて、その手の中の髪を押し頂くものだよ。……ついでに、口付けのひとつでも」
「え?……あぁっ!」
(僕、いつの間に!)
わたわたと紅色の髪を手放したレヴィアに、クローヴァは含み笑った。
「くくっ。……ところで、リズィエは何か用があってここに来たのでしょう?」
「そうでした」
アルテミシアがレヴィアに向き直る。
「ギードから、スィーニを飛ばすことのできる良い場所を教えてもらったんだ。離宮裏の山向こうが平原になっているって。途中の森が深いから、街の者がそうそう行けるところではないらしい」
「そうなの?今から行く?」
「できれば。クローヴァ殿下、弟君 をお借りしてもよろしいですか?」
「スィーニだけ?ロシュは連れていかないの?」
「今日はスィーニで遠乗りがてら、訓練をして参ります。それぞれの竜に乗っては、遠乗りにならないでしょう?レヴィ、行こう」
「うん!兄さま、またあとで」
「行ってらっしゃい」
(それは”遠乗り”というより……)
庭へと下りていくふたりの背中を、クローヴァは柔和な笑みで見送った。
澄み渡った湖から吹いてくるその風は冷気を含んで、冬の始まりを告げていた。
湖を見渡せる
ここは離宮の一室。
掃き出し窓から直接出られる
背後から聞こえた軽い音にクローヴァが振り返ると、金の縁取りのある軍服を着た弟の半身が、扉からのぞいている。
「クローヴァでん……」
「ん?なんだって?」
おどけてにらむ
「兄さま。お加減は、いかがですか?」
三歳で別れた異母兄のことを、レヴィアはまったく覚えていなかった。
そのため離宮で顔を合わせた際には、敬意を込めて「クローヴァ殿下」と呼びかけたのだが。
「殿下だって?!……もう”兄さま”とは呼んでくれないんだね。時の流れとは、かくも残酷なものか……」
クローヴァは目頭を寝巻の
「僕はよく覚えている。レヴィアのことも、リーラ
口を開いたら泣いてしまいそうで。
レヴィアは唇を噛みしめながら、コクリとうなずいて了承を示した。
「今日は咳も出ないし、気分もいいよ。レヴィアの薬茶がとても体に合うみたいだ」
暗く底冷えする部屋に押し込められ、体を
離宮に移ってきてからは、日ごと顔色が良くなってきている。
「よかった。では、その薬茶のお時間です」
レヴィアが
「おはよう、リズィエ・アルテミシア。今日は、せっかくの髪を隠しているんだね」
生垣からひょっこりと頭を出した
「おはようございます、トーラの王子たち。愚連隊の相手をしておりましたので」
アルテミシアは
春先から
愛想がよく口の上手いラシオンと、寡黙で穏やかなトーレを先に送り込んだことが功を奏し、使用人や周辺の住民との関係は良好。
トレキバに残った愚連隊たちも、それぞれ急激な成長をみせていた。
動物好きのメイリは、
アスタはリズワンの指導の下、
長く両親と暮らした経験のあるフロラは、家事全般が得意で。
その家庭料理の腕たるや、食べた皆が「料理屋が開ける」と太鼓判を押すほどだった。
農家の息子だったスヴァンは、畑仕事ならば何でもござれ。
手先も器用で、嬉々としてレヴィアから医薬学を学び始めている。
そして、ヴァイノは。
アルテミシアから子犬認定を受けてから数日後。
「お願い!オレを隊長の弟子にして!」
ヴァイノは出かけようとしていたジーグの行く手を
「と、言われてもな……。私はこれからトレキバに長くはいない。ラシオンも連れて行くし、スライは……、レヴィアにつきっきりか」
「それなら、私に任せろ」
「ふくちょ?!」
突然の声に、ヴァイノは目を丸くして振り返る。
「ヴァイノは良い目と肩を持っている。すばしっこいし、お前は接近戦向きだろう」
「レヴィアには
「……体術はまだ、だよ。短剣だって、やってないと腕が鈍る」
足音もなく現れた無表情のレヴィアが、アルテミシアとヴァイノの間に割って入ってくる。
「そうか。それもそうだな。では、ふたりまとめて面倒見よう。それからヴァイノ。読み書きも、ちゃんとやらないどダメだぞ」
「えぇ?!」
額に「嫌だ」と書いてある顔でヴァイノがのけぞった。
「ジーグがいないからって、逃げられると思うなよ。代理教師は優秀だぞ?脱走常習犯だったんだから」
若草色の瞳が、笑いながらレヴィアを見上げる。
「な、レヴィ。一緒に監視しよう」
「ミ、副長と、一緒に?」
レヴィアがアルテミシアの
「そう。私と一緒に」
「うん!」
たちまち顔を明るくしたレヴィアを見て、ジーグの目元が緩む。
「これは逃げられないな。副長と王子に認められたら、お前もフリーダ隊の一員に加えよう、ヴァイノ」
「え、本当?!」
「オレ、ジーグさんの役に立つよ!」
「そうか、楽しみにしている。レヴィア、
ふたり
を頼んだぞ。脱走と暴走をしないようにな」「はい」
先ほどの無表情が嘘のように、レヴィアは嬉しそうな笑顔でジーグを見上げた。
そして、秋も終わるころ。
それぞれの役割をそのまま引き継げる施設が離宮に整い、フリーダ隊と愚連隊は、
「愚連隊?ヴァイノと
レヴィアの声が、だんだんと低くなっていく。
弟子となって以降、ヴァイノはすきあらば剣の
本当に、どこで見ているのか。
不思議に思うほど、ヴァイノはアルテミシアの手の空く時間を見逃さない。
ふたりきりで手合わせをしていることもしばしばで、それを見かけるたびに、レヴィアはモヤモヤした気持ちになるのだ。
「スヴァンとトーレも一緒にな。あのふたりも、護身術くらいは身につけておいたほうがいい。これから何があるかわからない」
「すまない。僕を王宮から連れ出してくれたばかりに。回復したら、僕もフリーダ隊に加わろう」
「僕も、もっと頑張るよ」
真面目な顔をする王子たちの前まで来ると、アルテミシアが明るい声で笑う。
「軍と行動をともにする者にとっては、当たり前のことです。おふたりが責任を感じる必要はどこにも」
さやさやと吹いてきた秋風に、薔薇の花束のような巻き髪が揺れる。
「それに、クローヴァ殿下はご自分の正規隊をご統率なさるお立場でしょう。……レヴィときたら」
若草色の瞳が深い笑みを浮かべた。
「確かにレヴィは竜騎士だ。でも、
「頼もしい竜騎士だね。僕の隊には、ぜひ
「え?!」
驚いて目をやれば、兄は風に躍る巻き髪を指に絡めて、意味深に口の端を上げている。
「だ、だめ、です。ミーシャは、駄目」
「でも、竜騎士はふたりいるだろう?ひとりは僕の隊に来てほしいな」
「!」
レヴィアは思わず、兄から紅い巻き髪を奪い返した。
「ご指名は光栄ですが、ロシュとスィーニがそろってこその騎竜隊です。それに、私はレヴィを守るためトーラ国民となりました。離れるなんて考えられません」
きっぱりと断るアルテミシアに、レヴィアはほっと胸をなでおろす。
「こういうときはね、レヴィア。感謝を込めて、その手の中の髪を押し頂くものだよ。……ついでに、口付けのひとつでも」
「え?……あぁっ!」
(僕、いつの間に!)
わたわたと紅色の髪を手放したレヴィアに、クローヴァは含み笑った。
「くくっ。……ところで、リズィエは何か用があってここに来たのでしょう?」
「そうでした」
アルテミシアがレヴィアに向き直る。
「ギードから、スィーニを飛ばすことのできる良い場所を教えてもらったんだ。離宮裏の山向こうが平原になっているって。途中の森が深いから、街の者がそうそう行けるところではないらしい」
「そうなの?今から行く?」
「できれば。クローヴァ殿下、
「スィーニだけ?ロシュは連れていかないの?」
「今日はスィーニで遠乗りがてら、訓練をして参ります。それぞれの竜に乗っては、遠乗りにならないでしょう?レヴィ、行こう」
「うん!兄さま、またあとで」
「行ってらっしゃい」
(それは”遠乗り”というより……)
庭へと下りていくふたりの背中を、クローヴァは柔和な笑みで見送った。