あなたのために -貴女のために-

文字数 3,856文字

 トレキバの星空の下よりも、トゥクースの雪空の下よりも。
 もっと冷たく、固く握りしめられたアルテミシアの手がつらかった。

「だから、寝巻が

なんだね」
 うつむいたまま、アルテミシアは小さくうなずく。
「ずっと、ずっと独りで(かか)えていたの?嫌でなければ、なるべく話して?僕を孤独から救い出してくれた貴女(あなた)が、独りにならないで」
「……レヴィ……。”小さくて可愛いレヴィア”だったのに」
 アルテミシアが目を落とすと、褐色の両手はすっぽりと自分の手を覆い隠していた。
「外側は大きくなったけれど……。中身は変わってないと思うよ?」
「そんなこと、ないわ」
 アルテミシアの頬に涙が一筋、流れ落ちていった。
「レヴィは、かばってくれたもの。私の心を(ないがし)ろにするなと、言って、くれたもの……」
 アルテミシアは懸命に嗚咽(おえつ)(こら)え、それ以上泣くまいと唇を()みしめている。
 その健気な姿を目にした瞬間、思わずレヴィアはアルテミシアを腕の中に閉じ込めていた。
「怖かったのっ。……怖いの」
 レヴィアの(ぬく)もりに包まれて、アルテミシアの涙腺が崩壊する。
「ディデリスが変わってしまったことも、変えてしまう自分もっ。……それでも嫌いにはなれなくて……。サラマリスを背負う孤独を、誰よりも分かち合ってきたから」
 いつもはきっぱりと潔いアルテミシアが、もろく崩れそうに泣いていた。
「アルテミシア」
 震えるその背中を、レヴィアはなだめるようになでる。
「今日、よくわかった。竜と貴女(あなた)の血にしか価値を求めない人が、帝国にはいるんだね」

(何を捨てても、貴女(あなた)だけを欲しがる人も)

 腹の底から湧き上がる猛烈な嫉妬と怒りに、アルテミシアの肩を抱く腕に力が入った。
「これからはあの人と、ディアムドの人と会うときは、必ず僕も連れていって。せめて、矢が届く範囲にいさせて?」
 涙に濡れる若草色の瞳が上がる。
「次は茶碗ではなくて、矢を放つ?」
「必要があれば。二度と貴女(あなた)を、あんな目には遭わせたくないから」
「私の、存在が……。私が、いる、から」
 止まらない涙をレヴィアの親指に(ぬぐ)われながら、アルテミシアは声を詰まらせた。
「ディデリスに(おきて)を破らせてしまう。そんな自分が本当に(いと)わしい。中途半端に情を捨てきれない私が、竜騎士などになったせいで、」
「それは違うよ。ミーシャは悪くない。貴女(あなた)は絶対、悪くない」
 強い口調で言い切ったレヴィアを見つめるアルテミシアの瞳に、みるみる新しい涙が湧き始める。
「ラシオンが言っていた。”女の子はとても柔らかくて傷つきやすいから、男が力づくで思うままにしては、絶対に駄目”だと。それに、情は悪いものばかりではないでしょう?」
「情を制御できなければ、ディデリスみたいに、私が貴方(あなた)を痛めつけてしまうかもしれないのよ。(おきて)以上に、それが怖い」
 深紅のまつ毛が震え、涙がひとしずく散っていく。
「僕が、ミーシャをつらくさせているの?」
「レヴィのせいじゃないわ。私が未熟だから」
「僕をひとりぼっちから救ってくれたのは、ミーシャの情だよ。でも、貴女(あなた)を苦しませてしまうのなら、僕は独りのままでいい」
「それは駄目!レヴィは愛されるべき人だもの。それに、今は貴方(あなた)を大切に思う人が周りにたくさん、」
「ほかの誰がいてくれても」
 低い声でさえぎられて、アルテミシアは口を閉じた。
「ミーシャがいなくて、貴女(あなた)と会う前に戻ってしまったみたいだった。あのころの僕は、自分の気持ちがわからなかったけれど。僕の世界には誰もいなかったから」
 
 トレキバの森を独り逃げていた。
 日ごと、夜ごと。
 ただ生き延びるためだけに。
 けれど、夕暮れの岩場でふたりに出会った。
 初夏の陽射しが差し込む小屋で、アルテミシアが待っていてくれた。

「あれは”寂しい”、だったんだね……」
 独り言のようにレヴィアはつぶやく。
「今、僕はたくさんの人に囲まれていて、それは幸せだと思う。でも」
 レヴィアはおずおずと、だが、強い瞳をアルテミシアに向けた。
「ミーシャがいないと、”寂しい”」
 潤んだ若草色の瞳に、レヴィアの真剣な顔が映り込んでいる。
「それに、ミーシャは驚くほど短気なところがあるけれど、もし僕を痛めつけようとうするなら、必ず理由がある。僕が悪いなら謝るし、僕は悪くないと思ったら」
 口をつぐんだレヴィアに、アルテミシアが尋ね顔で首を傾けた。
貴女(あなた)がリズワンと勝負したように、僕も師匠であるミーシャと勝負をするよ」
 きっぱりとした宣言に、アルテミシアの目元が緩む。
「そう……。ならば、安心ね。レヴィはもう立派な竜騎士だから」
「相手をしてくれる?」
「勝負ならば、ぜひ」
「よかった」
 アルテミシアから腕を離したレヴィアは、椅子(いす)の背にもたれて、長いため息を漏らす。
「断られるかと思った」
「どうして?」
 手の甲で涙を拭きながら、アルテミシアはレヴィアをのぞき込んだ。 
「だって、ミーシャは最近、口も利いてくれなかったでしょう?見限られたんだって思っていた」
「それは、」
「うん、わかってる。心配してくれただけだって。でも……」
 レヴィアの目がちらりとアルテミシアに向けられる。
「あのときは、竜のことなのに、僕じゃなくてメイリを頼っていたでしょう。それがうらやましくて……。僕なんかもう、いらないんだって……」
 再びうつむいてしまったレヴィアを見て、アルテミシアの胸がズキリと痛んだ。

 見目(みめ)は立派になって、仲間も大勢できたけれど。
 レヴィアが背負わされた孤独は、たった二年程度で埋まりはしないのだ。
 トレキバの小屋で初めて会ったときに、自分を見上げていた丸い大きな瞳。
 触れられると(おび)えて震えていた小さな肩。
 真夜中の畑で、幾度(いくたび)も歌ってくれた細い声。
 そして、大きくなったレヴィアは自分をかばい、痛みを遠ざけようとしてくれた。
 今も懸命に傷を包もうとしてくれている。
 なのに、自分は事情を隠したまま、ただ(いたずら)に寂しくさせてしまった。

「レヴィ」
 その声は春風のようにレヴィアに届く。
「不安にさせてしまうなんて、私は師匠失格ね。ジーグに”そこそこ”と言われてしまうのも当たり前だわ。ごめんなさい」
「ミーシャは悪くないよ!」
 慌てて顔を上げたレヴィアの両頬を、アルテミシアの指が優しく(つま)んだ。
貴方(あなた)は本当に優秀よ。なのに自信がもてないのなら、師匠として私が至らなかったから。もう一度、やり直しをさせてね」
「もう一度?一緒に?」
 笑顔になりかけて、レヴィアはふとヴァイノの言葉を思い出す。

――弟じゃなくて、男に見てもらうしかないじゃん――

「あの、でも、それは……」
 レヴィアの声がだんだん小さくなっていく。
 「一緒にいてくれるのは、弟の面倒をみるように?ただの弟子として?」とは聞けなくて。
 「そうだよ」と言われてしまったら、立ち直れそうもない。
 
 到底許せないヤツだが、ディデリス・サラマリスは秀麗な大人の男だった。
 クラディウスに抜いた剣は疾風のようで、稲妻のようで。
 強靭(きょうじん)であり上品なその姿は、翡翠(ひすい)の瞳を持つ(ひょう)を彷彿とさせた。
 
 比べて、自分はどうだろうか。
 どんな「男」だろうか。

 黙り込んでしまったレヴィアの両頬を、アルテミシアは指で軽く持ち上げた。
「小さくて可愛いレヴィアだったころからずっと、貴方(あなた)は私を助けてくれたわ。自分は何ひとつ欲しがらないで、与えてばかりいる。そんな貴方(あなた)に、寂しい思いはもうさせない。レヴィが必要としてくれる限りは、そばにいる。守りきるわ」
 
 レヴィアを支える人は、支えたい人はたくさんいる。
 これから紡いでいく絆で孤独が埋っていけば、いつか「寂しかった過去」は消えていくだろう。
 だって、レヴィアはこんなに温かいのだから。
 その言葉も、心も。
 こんなに可愛いのだから。
 裏心なく向けられる瞳も、誠実な口元も。
 レヴィアを傷つけてしまう可能性を恐れていたが、彼の言葉で吹っ切れた。
 優秀な竜騎士となったレヴィアは、自分との勝負で負けはしないだろう。

 どういうわけだかアルテミシアには、レヴィアに勝つ自分が思い描けなかった。
 そして、それでいいとも思う。
 
 (まど)いがすっかり消えたアルテミシアの微笑を前に、レヴィアは焼けつくような渇望を抱いた。
 
 アルテミシアから「レヴィアを守る」と言ってもらえることは嬉しい。
 けれど、自分だってアルテミシアを支えたいのだ。
 あんなふうに泣かせたくない。
 眠れない夜に独りでいてほしくない。

――貴女(あなた)を守れる男になる――
 
 そう伝えたくて、でも、自信がなくて。
 
「僕には欲しいものはないんだ。だって、ミーシャがいろんなものをくれるから。美味しいと楽しいと、嬉しいも。それからスィーニも。僕の幸せは、全部ミーシャにもらったものだよ。本当にありがとう」
 心からの感謝は、秘めた言葉の代わりのもの。
「そうね、スィーニは本当にレヴィを慕っているわ。貴方(あなた)と距離を置いていたとき、竜舎に行くたびに、スィーニに(つつ)かれたの。レヴィをいじめるなって。あまりに(ひど)いときにはロシュが間に入ってくれて、あわや二頭で大ゲンカになるところだったわ」 
 レヴィアの目が丸くなる。
「そんなことがあったの」
「”そうなんだ”」
 大きくうなずいたアルテミシアはトーラ語に戻り、晴れ晴れと笑う。
「”とんだ淑女もあったもんだ。あんなに美しいくせに、鼻っ柱が滅法強い。怒っているときは話も聞いてくれない。頑固で、はねっ返りで”」
「”ミーシャにそっくりだね”」
「”えぇっ?!”」
 顔を見合わせて、ふたりは同時に笑い出した。
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