過去との決別 -1-
文字数 3,863文字
アルテミシアたちが廊下に出ると、ふたりの使用人が角灯を掲げて膝を曲げた。
「寝所までご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
帝国側に用意された部屋は賓客棟にはなく、城主用の部屋を急きょ整えたため、使用人たちはそれぞれ左右に別れた廊下を先導していく。
「小さい城だから、三人休めるような部屋はひとつっきゃないんだ。……まあ、広くなったぶん、寛いでくれ」
宴会の席でニヤリと笑うボジェイク老に、クラディウスを「反逆罪の疑い」で山城の地下牢に預けたディデリスは、ごく薄い笑みを返していた。
(ああ、やっと終わった……)
帝国側に背を向け、アルテミシアが肩の力を抜こうとしたとき。
「テムラン殿!」
ディデリスの声が追いかけてきた。
主従ふたりが振り返ると、別れた場所から一歩も動いていないディデリスが、手を振り上げている。
「お忘れ物ではありませんか」
ディデリスが持つ刃物が、廊下に据え置かれた松明 を反射して鈍く光っていた。
驚いたアルテミシアが腰帯に手を伸ばすと、サラマリス家紋章入りの小刀が消えている。
「……いつの間に」
ため息をつきつつ、アルテミシアはジーグを見上げた。
「ディデリスは腕利きのスリになれるわね。……行ってくるわ。先に部屋に下がっていて」
「しかしリズィエ」
廊下の向こうには、案内人と副隊長の姿はすでにない。
ひとり立つディデリスの影だけが、松明 の下で頼りなく揺れている。
「お世話になった友好国で無体はしないでしょう。先ほどはお酒も飲んでいなかったし」
「……
「でも、私の生存を知られてしまったのだから、いつか話をしなければならない。今日は良い機会なのかも」
ジロリとディデリスに目をやってから、ジーグはアルテミシアの手を取り、短剣の柄まで導いた。
「くれぐれもお気をつけください。何かされそうになったら、ためらわずに。あとの処理など、如何様 にでもいたします」
その真剣な目を見れば、冗談を言っているわけではないとわかる。
「ええ、そのときはお願いね」
軽い口調で返してから、アルテミシアはぎこちなく笑い返した。
「竜泥棒を疑う国の方が盗みを働くとは」
アルテミシアはディデリスが待つ場所まで戻ると、十分距離を取って右手を差し出す。
「疑っていない。盗んでもいない。借りただけだ」
手にしていた小刀を、ディデリスは素直にアルテミシアに返した。
「貸してって言った?」
「もちろん」
「嘘」
「心の中で」
会談中は決して見せなかった、温かな笑顔がアルテミシアに向けられる。
「相変わらずね。元気そうで何よりだわ」
「元気でなどあるものか」
小刀を腰帯に戻したアルテミシアが思わず目を上げると、翡翠 色の瞳が松明 に潤んでいた。
「許してもらえるとは思わなかったが、それでも謝りたかった。なのに、謝る前にお前は消えた。あの日から……、どう過ごしてきたか、あまり記憶がない。本当に、すべてが、どうでもよかったからな」
一歩、ディデリスが近づき、一歩、アルテミシアが後ろに下がる。
「北国の竜の話に耳を疑った。お前の関与が考えられる噂話 に胸が躍った。そこからまた、俺の時間は動き出したんだ」
ディデリスが一歩、もう一歩とアルテミシアに近づいていく。
薄暗闇でも目を引く美貌 が間近に迫ったとき、やっとアルテミシアは気がついた。
背後には壁。
もう下がることができない。
(いつの間に!)
アルテミシアが目を上げると、互いの体温が感じられるほどの距離で、ディデリスが微笑みかけている。
端正な顔に余裕をにじませながら、壁に左肘をついたディデリスは、アルテミシアを抱 くように体を寄せた。
「それで?”ここで話せないこと”とは何だ」
耳元の囁 き声に、アルテミシアの眉の根が寄る。
確かに他人に聞かれたくない話ではあるが、それにしても距離が近い。
「ディデリス、少し離れて」
「嫌だと言ったら?」
「ジーグに斬り殺していいと言われているわ」
「まだ何も。しようともしていないぞ?」
「……もお」
この賢い従兄 は、ジーグがアルテミシアに言い渡した内容など、お見通しなのだろう。
従妹 の懐かしい口癖を聞いたディデリスは、アルテミシアの耳に息を吹き込むようにして笑った。
「ははっ!ああ、本物のアルテミシアだ!夢ではないのだな。夢の中では何度もお前に会った。けれど、触れようとするとお前は消えてしまう。会いたかった。本当に会いたかったんだっ。怪我はもういいのか?後遺症などはなのか?ないのなら、抱きしめてもいいか」
「だめ」
アルテミシアは警告を込めてにらむが、それすら愛おしいとディデリスの目が語っている。
(すぐにでも本題に入ったほうがいいわね)
「ディデリス、赤竜の数は確認できている?」
「……どういう意味だ?」
ディデリスは少し体を離して、首を傾けた。
「他国の竜の話が入ってきて、すぐに赤も黒も入念に確認をした。契約の済んでいない竜、育成中の竜を含め、すべて台帳のとおりだった」
「台帳にあるほうはいいの。載っていない竜がいる、と思うの」
「台帳に、載っていない?」
「赤の惨劇には竜が使われたはずよ。台帳にない、正式に育てられていない仔が。……ただ、確証はないわ。私も背を斬られて、すぐに意識が飛んでしまったから」
「竜族に裏切り者が……」
ディデリスの眉間にシワが刻まれる。
その可能性は、常に頭にあった。
あれほどの惨禍 を、わずかな痕跡も残さずにやってのけるなど、尋常ではない。
主犯ではなくとも、何らかの関与をした者が、竜族にいたのではないかと。
だが、そんなことも何もかも、今まではどうでもよかった。
それを暴いたところで、アルテミシアも叔父一家も、戻ってはこないと思っていたから。
だが、そいつのせいでアルテミシアが奪われたのなら。
翡翠 色の瞳が不穏に細くなる。
「可能性は高いと思うの。でも……。ディデリスはどう思う?サラマリスの協力無くして、隠れて赤竜を育成することは可能なのかしら」
「俺や、俺の家族は疑わないのか」
「あなたは意味なく、無駄なことはしないでしょう。ルドヴィク伯父様は、サラマリス家と竜に対して、人一倍思い入れが強くていらっしゃる。あなたの弟、ベネディスは留学中。疑う余地もないわ。……今日一緒だった、クラディウス伯父上」
「あんな奴、伯父でもなんでもない」
「連れてきたくせに」
「グイドを同行させろと言ってきたんだ。断ったら、代わりにあの死にぞこないがついてきた。……もうすぐ死ぬがな」
「もお。……クラディウス・ドルカ」
「そうだな。あの態度は違和感がある。わかった、殺さない。耄碌 した頭の中身を全部、洗いざらいぶちまけてから逝ってもらおう」
言葉を重ねなくても、ディデリスはアルテミシアが言いたいことをすべて理解していた。
「任せろ。上手くやってみせるから。それで……」
ディデリスが再び、アルテミシアの耳元に唇を寄せる。
「首謀者がわかったら、トーラに会いにいく」
「書状で十分」
アルテミシアはディデリスの胸を押し返したが、びくともしない。
「書状は漏えいの危険性もある。直接伝える」
「本当に離れて、ディデリス!私、まだ謝ってもらっていないし、許してもいないわ」
「悪かった。許せ」
「反省していないじゃない!」
あまりにも軽い謝罪に、アルテミシアは声を荒らげた。
「反省はしている。ほかに何が必要だ。どうすれば、お前は俺のものになってくれるんだ」
「ディデリス、サラマリス同士は、」
「言うな」
強い声でさえぎり、その大きな手でゆっくりと、ディデリスはアルテミシアの体をなで下ろしていく。
「この軍服は気に入らない」
「トーラ王国の正式なものよ」
「体の線が出過ぎてる」
「文句があるなら触らないでっ」
「触らずにいられないだろう?こんなに可愛くてきれいなお前を。くそっ、トーラなんぞにいさせたくないっ」
「私のどこがきれいなの?!竜族の特徴が強いから、ディデリスにはそう見えるだけだわ!」
「竜族の特徴?そんなものは関係ない。髪や瞳が何色だろうとお前は可愛い。レヴィア殿下とやらは、どんな奴だ。なぜお前は主 と仰ぐ。そいつのために竜を育てたのか。そいつさえいなければ、お前は帝国へ戻るのか」
ディデリスはアルテミシアのあごに指をかけ、強引に上を向かせた。
捕食するようなまなざしを注ぐディデリスの口元が、優しげに綻 んだ。
「お前は戦う必要なんてないだろう?俺が守ってやるんだから。戻ってこい。お前のいるべき場所へ」
揺れる新緑の瞳から目をそらさずに、ディデリスはゆっくりと顔を傾け近づけていく。
「口付けをしてもいいか」
アルテミシアの唇に、ディデリスの吐息がかかった。
「いいわけないでしょうっ」
あまりの距離の近さに、アルテミシアの抗う声は囁 きになってしまう。
「何度もしたじゃないか」
「そのあとジーグに”ぼっこぼこ”にされているじゃない!」
「”ぼっこぼこ”?」
「トーラ語よっ。さんざん痛めつけられたでしょうって意味よっ」
泣きぼくろを持つ艶麗な瞳がゆっくりと瞬 きをすると、さらにアルテミシアとの距離を狭 めた。
「トーラ語なんて使うな。本当にするぞ」
ふたりの唇が微かに触れ合い、アルテミシアの背に冷たいものが走る。
「今度こそ許さないわっ」
「今は許してくれているのだな」
「ディデリス!」
震える声でアルテミシアは咎 めるが、体は金縛りにあったかのように動かない。
ディデリスの大きな両手がアルテミシアの頬を優しく包みこみ、そのまま唇を重ねる素振りをみせた。
「寝所までご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
帝国側に用意された部屋は賓客棟にはなく、城主用の部屋を急きょ整えたため、使用人たちはそれぞれ左右に別れた廊下を先導していく。
「小さい城だから、三人休めるような部屋はひとつっきゃないんだ。……まあ、広くなったぶん、寛いでくれ」
宴会の席でニヤリと笑うボジェイク老に、クラディウスを「反逆罪の疑い」で山城の地下牢に預けたディデリスは、ごく薄い笑みを返していた。
(ああ、やっと終わった……)
帝国側に背を向け、アルテミシアが肩の力を抜こうとしたとき。
「テムラン殿!」
ディデリスの声が追いかけてきた。
主従ふたりが振り返ると、別れた場所から一歩も動いていないディデリスが、手を振り上げている。
「お忘れ物ではありませんか」
ディデリスが持つ刃物が、廊下に据え置かれた
驚いたアルテミシアが腰帯に手を伸ばすと、サラマリス家紋章入りの小刀が消えている。
「……いつの間に」
ため息をつきつつ、アルテミシアはジーグを見上げた。
「ディデリスは腕利きのスリになれるわね。……行ってくるわ。先に部屋に下がっていて」
「しかしリズィエ」
廊下の向こうには、案内人と副隊長の姿はすでにない。
ひとり立つディデリスの影だけが、
「お世話になった友好国で無体はしないでしょう。先ほどはお酒も飲んでいなかったし」
「……
あれ
は、そんな甘い男ではないですよ」「でも、私の生存を知られてしまったのだから、いつか話をしなければならない。今日は良い機会なのかも」
ジロリとディデリスに目をやってから、ジーグはアルテミシアの手を取り、短剣の柄まで導いた。
「くれぐれもお気をつけください。何かされそうになったら、ためらわずに。あとの処理など、
その真剣な目を見れば、冗談を言っているわけではないとわかる。
「ええ、そのときはお願いね」
軽い口調で返してから、アルテミシアはぎこちなく笑い返した。
「竜泥棒を疑う国の方が盗みを働くとは」
アルテミシアはディデリスが待つ場所まで戻ると、十分距離を取って右手を差し出す。
「疑っていない。盗んでもいない。借りただけだ」
手にしていた小刀を、ディデリスは素直にアルテミシアに返した。
「貸してって言った?」
「もちろん」
「嘘」
「心の中で」
会談中は決して見せなかった、温かな笑顔がアルテミシアに向けられる。
「相変わらずね。元気そうで何よりだわ」
「元気でなどあるものか」
小刀を腰帯に戻したアルテミシアが思わず目を上げると、
「許してもらえるとは思わなかったが、それでも謝りたかった。なのに、謝る前にお前は消えた。あの日から……、どう過ごしてきたか、あまり記憶がない。本当に、すべてが、どうでもよかったからな」
一歩、ディデリスが近づき、一歩、アルテミシアが後ろに下がる。
「北国の竜の話に耳を疑った。お前の関与が考えられる
ディデリスが一歩、もう一歩とアルテミシアに近づいていく。
薄暗闇でも目を引く
背後には壁。
もう下がることができない。
(いつの間に!)
アルテミシアが目を上げると、互いの体温が感じられるほどの距離で、ディデリスが微笑みかけている。
端正な顔に余裕をにじませながら、壁に左肘をついたディデリスは、アルテミシアを
「それで?”ここで話せないこと”とは何だ」
耳元の
確かに他人に聞かれたくない話ではあるが、それにしても距離が近い。
「ディデリス、少し離れて」
「嫌だと言ったら?」
「ジーグに斬り殺していいと言われているわ」
「まだ何も。しようともしていないぞ?」
「……もお」
この賢い
「ははっ!ああ、本物のアルテミシアだ!夢ではないのだな。夢の中では何度もお前に会った。けれど、触れようとするとお前は消えてしまう。会いたかった。本当に会いたかったんだっ。怪我はもういいのか?後遺症などはなのか?ないのなら、抱きしめてもいいか」
「だめ」
アルテミシアは警告を込めてにらむが、それすら愛おしいとディデリスの目が語っている。
(すぐにでも本題に入ったほうがいいわね)
「ディデリス、赤竜の数は確認できている?」
「……どういう意味だ?」
ディデリスは少し体を離して、首を傾けた。
「他国の竜の話が入ってきて、すぐに赤も黒も入念に確認をした。契約の済んでいない竜、育成中の竜を含め、すべて台帳のとおりだった」
「台帳にあるほうはいいの。載っていない竜がいる、と思うの」
「台帳に、載っていない?」
「赤の惨劇には竜が使われたはずよ。台帳にない、正式に育てられていない仔が。……ただ、確証はないわ。私も背を斬られて、すぐに意識が飛んでしまったから」
「竜族に裏切り者が……」
ディデリスの眉間にシワが刻まれる。
その可能性は、常に頭にあった。
あれほどの
主犯ではなくとも、何らかの関与をした者が、竜族にいたのではないかと。
だが、そんなことも何もかも、今まではどうでもよかった。
それを暴いたところで、アルテミシアも叔父一家も、戻ってはこないと思っていたから。
だが、そいつのせいでアルテミシアが奪われたのなら。
「可能性は高いと思うの。でも……。ディデリスはどう思う?サラマリスの協力無くして、隠れて赤竜を育成することは可能なのかしら」
「俺や、俺の家族は疑わないのか」
「あなたは意味なく、無駄なことはしないでしょう。ルドヴィク伯父様は、サラマリス家と竜に対して、人一倍思い入れが強くていらっしゃる。あなたの弟、ベネディスは留学中。疑う余地もないわ。……今日一緒だった、クラディウス伯父上」
「あんな奴、伯父でもなんでもない」
「連れてきたくせに」
「グイドを同行させろと言ってきたんだ。断ったら、代わりにあの死にぞこないがついてきた。……もうすぐ死ぬがな」
「もお。……クラディウス・ドルカ」
「そうだな。あの態度は違和感がある。わかった、殺さない。
言葉を重ねなくても、ディデリスはアルテミシアが言いたいことをすべて理解していた。
「任せろ。上手くやってみせるから。それで……」
ディデリスが再び、アルテミシアの耳元に唇を寄せる。
「首謀者がわかったら、トーラに会いにいく」
「書状で十分」
アルテミシアはディデリスの胸を押し返したが、びくともしない。
「書状は漏えいの危険性もある。直接伝える」
「本当に離れて、ディデリス!私、まだ謝ってもらっていないし、許してもいないわ」
「悪かった。許せ」
「反省していないじゃない!」
あまりにも軽い謝罪に、アルテミシアは声を荒らげた。
「反省はしている。ほかに何が必要だ。どうすれば、お前は俺のものになってくれるんだ」
「ディデリス、サラマリス同士は、」
「言うな」
強い声でさえぎり、その大きな手でゆっくりと、ディデリスはアルテミシアの体をなで下ろしていく。
「この軍服は気に入らない」
「トーラ王国の正式なものよ」
「体の線が出過ぎてる」
「文句があるなら触らないでっ」
「触らずにいられないだろう?こんなに可愛くてきれいなお前を。くそっ、トーラなんぞにいさせたくないっ」
「私のどこがきれいなの?!竜族の特徴が強いから、ディデリスにはそう見えるだけだわ!」
「竜族の特徴?そんなものは関係ない。髪や瞳が何色だろうとお前は可愛い。レヴィア殿下とやらは、どんな奴だ。なぜお前は
ディデリスはアルテミシアのあごに指をかけ、強引に上を向かせた。
捕食するようなまなざしを注ぐディデリスの口元が、優しげに
「お前は戦う必要なんてないだろう?俺が守ってやるんだから。戻ってこい。お前のいるべき場所へ」
揺れる新緑の瞳から目をそらさずに、ディデリスはゆっくりと顔を傾け近づけていく。
「口付けをしてもいいか」
アルテミシアの唇に、ディデリスの吐息がかかった。
「いいわけないでしょうっ」
あまりの距離の近さに、アルテミシアの抗う声は
「何度もしたじゃないか」
「そのあとジーグに”ぼっこぼこ”にされているじゃない!」
「”ぼっこぼこ”?」
「トーラ語よっ。さんざん痛めつけられたでしょうって意味よっ」
泣きぼくろを持つ艶麗な瞳がゆっくりと
「トーラ語なんて使うな。本当にするぞ」
ふたりの唇が微かに触れ合い、アルテミシアの背に冷たいものが走る。
「今度こそ許さないわっ」
「今は許してくれているのだな」
「ディデリス!」
震える声でアルテミシアは
ディデリスの大きな両手がアルテミシアの頬を優しく包みこみ、そのまま唇を重ねる素振りをみせた。