惨劇の夜
文字数 5,591文字
初の皇帝外遊警護を命ぜられた赤竜軍第三部隊は、その栄誉に沸き立ったのも束の間。準備に追われ、隊長のアルテミシアを筆頭に、慌ただしい毎日を過ごしていた。
「失礼いたします!」
古参の女性竜騎士が、颯爽と隊長室に入ってくる。
その手のなかにある書類を目にしたアルテミシアは、密かにため息をついた。
ここ二、三日、竜に乗る暇もなく、事務官に転職したのかと思うほどの書類仕事に追われている。
「お疲れさま」
笑顔を作るアルテミシアに、女性騎士は美し敬礼を返した。
「編成の最終確認ですか?隊の新設一年目にして素晴らしい栄誉ですね、隊長!」
「栄誉などではないわ」
きびきびと書類を渡してくる女性騎士に比べて、アルテミシアの顔色は冴えない。
どんな任務でも、前向きに取り組んできたアルテミシアらしくないその様子に、女性騎士は首を傾 げた。
「何かありましたか?気にかかることでも?」
「いえ、特にないわ。ごめんなさい、余計な心配をかけて。ただ、初の外遊警護でしょう?相手国から侮 られてはいけないと思って。評議員たちのなかにも、『娘っ子部隊』と呼ぶ人がいるらしいじゃない?」
「そんな戯言 !耳を貸す必要はありませんっ」
アルテミシアが呆気に取られるほど、女性騎士は血相 を変えて憤慨している。
「隊長の騎竜 する勇姿を見たこともないくせに!」
「……ありがとう」
手練れの竜騎士が向けてくれる敬意に、アルテミシアは心からの笑顔を向けた。
「書類は目を通しておくわね。急ぎ?」
「はい。緊急ではないが、なるべく早く回答が欲しいと。グイド・ドルカ副隊長代理からのご伝言です」
「ドルカ副隊長代理から?ブルム隊長代理ではなく?」
現在、第二部隊は隊長が不在のため、副隊長のカイ・ブルムが隊長代理、一等騎士グイド・ドルカが副隊長代理を務めているのだが。
「連絡業務などは、ほとんどドルカ副隊長代理が押しつけられているらしいですよ」
「”皇帝執務室なんか行ってられっか”が、口癖の方ですものね」
「本当に。いい加減にしていただきたいです。騎竜の腕は確かですが」
カイ・ブルムと同じ隊にいたこともある女性騎士が、大げさなため息をつく。
「少しはドルカ代理を見習っていただきたいものです。彼はすぐに”俺は赤竜の末家だから”とご謙遜なさいますが……。実力に、竜家の序列など関係ないでしょう」
「そのとおりよ」
アルテミシアは女性騎士を感心して見上げた。
「赤竜族はサラマリス、アモリエ、ドルカの三家しかないのだもの。上下の区別などないと、言っているのだけれど」
「赤竜族の方は、ご謙遜ぞろいですね。……サラマリス家は別格でしょう。
意味ありげな女性騎士の笑顔に、アルテミシアの表情が曇る。
「……貴女 も、私がサラマリスだから、この年で隊長になれたと思う?」
「まさか!誤解を与えてしまったのなら謝罪いたします」
「戦果は挙げていないけれど」
「挙げさせてもらえなかった、の間違いでしょう」
(これ以上言わせてしまったらいけない。誰かに聞かれでもしたら責任問題になりかねないわ)
「業務終了時間を過ぎているわね。引き留めて申し訳なかったわ」
あからさまに話題を変えたアルテミシアの意図を察して、女性騎士が姿勢を正した。
「ご配慮ありがとうございます。隊長はまだ残られますか?」
「なるべく早くという依頼なら、それなりに緊急性があると思うの」
「かしこまりました。では、お先に」
軽く会釈をした女性竜騎士が隊長室を出ていくのを確認してから、アルテミシアは書類の表書きをじっくりと眺める。
書類上とはいえ、グイドと直接やり取りをするのは久し振りだ。
四つ年上のグイドは、幼いころから赤竜一族の集まりで、顔を合わせては遊んだ幼馴染でもある。
しかし、今年に入ってからは、ぱったりと会う機会がなくなった。
自分が第三部隊長に任じられたり、グイドが国境紛争地に派遣されたりしたこともあるだろうが、多分、一番の原因は。
(ドルカ家のごり押しにも、困ったものだわ)
先ぶれも寄こさずに、いきなりサラマリス邸を訪れたドルカ家当主を思い出すと、いまだに苦いものが胸に込み上げてくる。
「良縁」と繰り返していたあのドルカ家の当主は、本当にグイドの了解を得ていたのだろうか。
あのときの疑念を思い出しながらも、書類に並ぶ繊細なグイドの文字を目にすれば、思わず独 り笑いが漏れた。
「ふふ。書類はグイドのほうがいいわ。読みやすい」
「カイ副隊長は字が汚いからね。デキる男だけど」
許可を求める合図と同時に扉が開く。
目を上げれば、肩口でひとつに束ねられた赤土色の髪を、さらりと揺らした好男子が部屋に入ってきた。
「グイド!久しぶりね。無事のご帰還、慶祝いたしますわ。でも、扉は返事を待ってから開けて」
「ごめん。早く顔が見たくて」
いつもどおりの気安い態度に、アルテミシアは違和感しかない。
「ねえ、グイド。この前の話って、」
「ああ!いいんだ!」
大げさに手を横に振ると、グイドは屈託ない笑顔を浮かべた。
「家同士の話だ。それに」
隊長席の机の端に浅く腰を掛けて、グイドはじっとアルテミシアを見つめる。
「
「またって……。だって、貴方 だって、私との縁談など」
「ところでそれ。読んでくれた?」
グイドはアルテミシアの言葉をさえぎり、その手の中の書類を指さした。
「え?ああ、読もうと思っていたところよ。急ぎなのね。……ん?グイド、これ仕事?」
不信を露わにして、アルテミシアは『今夜にでも食事を一緒にどうかな』と書かれている書類を机に広げる。
「緊急じゃないけど、急ぎ。今夜は都合悪い?」
いつになく押しの強いグイドに、アルテミシアは内心首をひねった。
「ごめんなさい。出立 まで時間はないわ。第一部隊長と、道中警護の打ち合わせもしたいし」
「そんなの、いつだって君の屋敷で、できるじゃないか。バシリウス隊長は君の父上だもの」
「そう、だけど」
「俺だって陛下警護の話はできるし、一隊員の経験も貴重だよ?俺はディデ兄 と違って、隊長同士の話はできないけどさ」
「グイド、また”ディデ兄 ”になってるわよ」
自分の所属部隊長を、幼いころの愛称で呼ぶ癖 が抜けないグイドに、アルテミシアは微笑んだ。
「あー、つい、君の前だとね」
「ええ、気にしないでちょうだい」
「子供っぽい癖 だって、わかってるんだけど」
「誰にでも癖 のひとつやふたつ、あるもの」
「君は嗤 わないんだな」
「卑 しめるようなことではないわ」
「君だけだよ、そう言ってくれるのは。……ありがたくて泣けてくる」
グイドの手が伸ばされて、紅色の髪をひと房、その手に握りしめる。
「グイド、……?!」
そのまま髪に口付けを落とされて、アルテミシアは短く息を詰めた。
(なぜこんなことを……)
「食事が無理なら、お茶くらいは?城下通りに洒落 た店ができたって、うちの隊の女性陣が言っていたよ。ね、行こう!奢 るからさ!」
巻き毛から手を離して、グイドはいきなりアルテミシアの手を握る。
(こんなことをする人ではなかったのに)
アルテミシアは困惑して、握られた手に目を落とした。
先ほどの縁談話の言い様も含め、グイドの意図が読めない。
ただの世間話や、仕事の助言をしたいわけではないだろう。
縁談を蒸し返すこともあり得ない。
グイドがそれを、望んでいるはずはないのだから。
頼りのジーグは随伴路 の確認のため、昨日から出かけていて、まだ戻ってきていない。
「……それなら、一刻 だけね」
アルテミシアがうなずくと、グイドのとび色の瞳がゆっくりと、深い笑みを湛 えていく。
「いいよ。一刻 もらえれば、満足だよ」
預言者のようなグイドのまなざしに、アルテミシアの不安は募るばかりだった。
◇
アルテミシアの話を聞くジーグの眉間 には、いつしか深い溝が刻まれていた。
「グイドがどうしてお茶なんかに誘ったのか、……結局わからなかった」
目を伏せたまま、アルテミシアがため息をつく。
「連れて行ってくれた店から帰る途中、街の皆が騒いでいた。『サラマリス邸が燃えている』って。……そんなはずはないって思ったけれど、遠くに黒い煙が……」
言葉を失ったように、しばらくアルテミシアは黙り込んだ。
静まり返った部屋に薪 が爆ぜる音が響き、それを合図にしたかのようにアルテミシアの顔が上がる。
「やっと帰ってみたら、屋敷は全部、燃えていて……。入った瞬間、全身がしびれるように感じたけれど、客間まではたどり着いた。でも、そこに両親が、倒れて、いて……、ラキスかフェティが、泣いていた。あの子たちだけでも助けたかった……!」
拳 を震わせながら、強く唇を噛 むアルテミシアを見て、レヴィアは静かに席を立った。
湯が沸騰する音に紛れて、時おりアルテミシアの息遣いが聞こえてくる。
激情を無理やり抑え込むように強く吸い込み、そのまましばらく止めては、ゆっくりと吐き出す吐息が震えていた。
レヴィアはひとり分だけお茶を淹 れると、そこに蜂蜜を一匙 垂らす。
「よかったら、飲んでみて」
机に置かれた茶碗から立ち上る湯気が、アルテミシアに香草と蜜の香りを運んだ。
「……ありがとう」
囁 くように礼を言うと、アルテミシアはゆっくりと茶を口に含む。
切れた唇に熱い茶がしみて、蜂蜜の甘さとレヴィアの心遣いが身にしみていった。
「竜を見た、と思うんだ。玄関広間から客間へ続く、薄く開いた扉の向こう。ふたつの動く影を見た。一頭は、何か不思議な姿だった。でも、すぐに意識が飛んでしまったから、確証はないんだがな」
「私が戻ったときには、すでに屋敷は火の海だった」
ジーグの瞳に、熾火 のような怒りが揺れている。
「ご当主夫妻はもう……。リズィエは刃を受けた直後で、煙もそう多く吸ってはいなかった。だから、助かった。私は竜を見ていないが、あの火の勢いは、屋敷全体が一気に燃え上がったようだった。そんなことをやってのけるには、赤竜を使う以外思いつかない」
「そんな炎を噴ける竜は、バシリウス舎にしかいなかったはずだ」
瞳を曇らせるアルテミシアに、ジーグはゆっくりと頭 を振った。
「ですが、その関与は考えられません。当時のバシリウス竜の
「隠れて育成された赤竜がいたというのか?だが、そんなことが可能だろうか。もしそうならば、誰が、どうやって竜化法を知ったのだろう。なぜ、サラマリス当主家を襲ったのか」
「……わかりません」
「そうだな。……わからないな」
チラリと目を見交わして、主従は同時に息を吐きだす。
「リズィエを抱えて一晩中馬を飛ばしてサラマリス領に入り、そこからチェンタ国へ抜けた」
自分の記憶にない話を、アルテミシアはじっと聞いていた。
「老長のおかげでリズィエは命を取り留めたが、チェンタはサラマリス領から、帝国から近すぎる。だから、間を置かずにトーラまで落ち延びることを選んだ。襲われた理由がわからない以上、リズィエの生存を知られれば、追手がかかる心配があったからな」
「誰が、何のためにっ……。私は許さない、絶対に」
握ったアルテミシアの拳が震えている。
「あの子たちまで無残 に殺した者を。隠れて竜を生み出し、卑劣な殺戮 の道具として利用した者をっ。……レヴィア、お願いがあるんだ」
「うん、いいよ。もちろん」
アルテミシアの瞳が見開かれ、一瞬ののちに笑み崩れていった。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「ミーシャのお願いを、僕が聞かないはずがないよ。それに、僕にできないことは、願わないでしょう?」
まっすぐに返されたレヴィアの瞳は、アルテミシアの憂いをすべて包み込んでくれるようで。
「レヴィ……」
背はとうに追い越されてしまった。
雨だろうと雪だろうと、たゆまずジーグに鍛 えられている体は、出会ったころの心許 なさなど面影もない。
顏もすっかり少年のものだし、声もいつの間にか低くなっている。
けれど、出会ったころから変わらず、手を差し伸べることをためらわない、レヴィアの心根が嬉しかった。
「ありがとう、レヴィ。私は帝国には戻らない。ここで貴方 を守る騎士として生きる。だから、私に新しい名と、ジークとふたり分のトーラ国民籍をいただけるよう、国王陛下に口添えしてもらえないだろうか」
「新しい、名前?」
「ジーグも言っただろう。理由がわからない以上、あの惨劇 の生き残りである私は、追われる可能性がある。私がここにいることを、なるべく隠しておきたい。今、この国に危機を呼び込むわけにはいかないんだ。竜の卵も育てているし。サラマリスの名は捨てる」
「竜の、卵……?」
衝撃的な単語に、レヴィアはぽかんと口を開ける。
(竜同士って、繁殖できないんじゃ……)
困惑するレヴィアの前で、アルテミシアが横髪をかき上げる。
「え……?」
アルテミシアの耳の半分ほどを隠している、大ぶりの耳飾りにレヴィアは息を飲んだ。
装飾品にしては大きすぎるし、何より、ツルリヌルリとした見た目ときたら。
「この仔たちがそう。ディアムズの卵だけれど、私の血で育てているから、すでに竜仔 なんだ」
アルテミシアにひとなでされた
「……?!」
それは鳥の卵というよりも、爬虫類の卵に近い柔らかさを持つようだ。
「えと、ディアムズって、鳥じゃないの?」
「ん?鳥だぞ」
「だって、その卵、ぶにょぶにょしてる」
「人の血で育てると、硬膜が薄くなるんだ。親鳥が抱卵しなくなる代わりに、人の体温で孵化 させるためだと聞いたがな」
「へぇ……」
レヴィアは言葉もなく、アルテミシアの耳につけられた、「竜の卵」だというそれを見つめ続けた。
「失礼いたします!」
古参の女性竜騎士が、颯爽と隊長室に入ってくる。
その手のなかにある書類を目にしたアルテミシアは、密かにため息をついた。
ここ二、三日、竜に乗る暇もなく、事務官に転職したのかと思うほどの書類仕事に追われている。
「お疲れさま」
笑顔を作るアルテミシアに、女性騎士は美し敬礼を返した。
「編成の最終確認ですか?隊の新設一年目にして素晴らしい栄誉ですね、隊長!」
「栄誉などではないわ」
きびきびと書類を渡してくる女性騎士に比べて、アルテミシアの顔色は冴えない。
どんな任務でも、前向きに取り組んできたアルテミシアらしくないその様子に、女性騎士は首を
「何かありましたか?気にかかることでも?」
「いえ、特にないわ。ごめんなさい、余計な心配をかけて。ただ、初の外遊警護でしょう?相手国から
「そんな
アルテミシアが呆気に取られるほど、女性騎士は
「隊長の
「……ありがとう」
手練れの竜騎士が向けてくれる敬意に、アルテミシアは心からの笑顔を向けた。
「書類は目を通しておくわね。急ぎ?」
「はい。緊急ではないが、なるべく早く回答が欲しいと。グイド・ドルカ副隊長代理からのご伝言です」
「ドルカ副隊長代理から?ブルム隊長代理ではなく?」
現在、第二部隊は隊長が不在のため、副隊長のカイ・ブルムが隊長代理、一等騎士グイド・ドルカが副隊長代理を務めているのだが。
「連絡業務などは、ほとんどドルカ副隊長代理が押しつけられているらしいですよ」
「”皇帝執務室なんか行ってられっか”が、口癖の方ですものね」
「本当に。いい加減にしていただきたいです。騎竜の腕は確かですが」
カイ・ブルムと同じ隊にいたこともある女性騎士が、大げさなため息をつく。
「少しはドルカ代理を見習っていただきたいものです。彼はすぐに”俺は赤竜の末家だから”とご謙遜なさいますが……。実力に、竜家の序列など関係ないでしょう」
「そのとおりよ」
アルテミシアは女性騎士を感心して見上げた。
「赤竜族はサラマリス、アモリエ、ドルカの三家しかないのだもの。上下の区別などないと、言っているのだけれど」
「赤竜族の方は、ご謙遜ぞろいですね。……サラマリス家は別格でしょう。
すべての
竜族のなかで」意味ありげな女性騎士の笑顔に、アルテミシアの表情が曇る。
「……
「まさか!誤解を与えてしまったのなら謝罪いたします」
「戦果は挙げていないけれど」
「挙げさせてもらえなかった、の間違いでしょう」
(これ以上言わせてしまったらいけない。誰かに聞かれでもしたら責任問題になりかねないわ)
「業務終了時間を過ぎているわね。引き留めて申し訳なかったわ」
あからさまに話題を変えたアルテミシアの意図を察して、女性騎士が姿勢を正した。
「ご配慮ありがとうございます。隊長はまだ残られますか?」
「なるべく早くという依頼なら、それなりに緊急性があると思うの」
「かしこまりました。では、お先に」
軽く会釈をした女性竜騎士が隊長室を出ていくのを確認してから、アルテミシアは書類の表書きをじっくりと眺める。
書類上とはいえ、グイドと直接やり取りをするのは久し振りだ。
四つ年上のグイドは、幼いころから赤竜一族の集まりで、顔を合わせては遊んだ幼馴染でもある。
しかし、今年に入ってからは、ぱったりと会う機会がなくなった。
自分が第三部隊長に任じられたり、グイドが国境紛争地に派遣されたりしたこともあるだろうが、多分、一番の原因は。
(ドルカ家のごり押しにも、困ったものだわ)
先ぶれも寄こさずに、いきなりサラマリス邸を訪れたドルカ家当主を思い出すと、いまだに苦いものが胸に込み上げてくる。
「良縁」と繰り返していたあのドルカ家の当主は、本当にグイドの了解を得ていたのだろうか。
あのときの疑念を思い出しながらも、書類に並ぶ繊細なグイドの文字を目にすれば、思わず
「ふふ。書類はグイドのほうがいいわ。読みやすい」
「カイ副隊長は字が汚いからね。デキる男だけど」
許可を求める合図と同時に扉が開く。
目を上げれば、肩口でひとつに束ねられた赤土色の髪を、さらりと揺らした好男子が部屋に入ってきた。
「グイド!久しぶりね。無事のご帰還、慶祝いたしますわ。でも、扉は返事を待ってから開けて」
「ごめん。早く顔が見たくて」
いつもどおりの気安い態度に、アルテミシアは違和感しかない。
「ねえ、グイド。この前の話って、」
「ああ!いいんだ!」
大げさに手を横に振ると、グイドは屈託ない笑顔を浮かべた。
「家同士の話だ。それに」
隊長席の机の端に浅く腰を掛けて、グイドはじっとアルテミシアを見つめる。
「
今は
考えられないなら、また考えてくれたらいいし。……待つのは慣れてる」「またって……。だって、
「ところでそれ。読んでくれた?」
グイドはアルテミシアの言葉をさえぎり、その手の中の書類を指さした。
「え?ああ、読もうと思っていたところよ。急ぎなのね。……ん?グイド、これ仕事?」
不信を露わにして、アルテミシアは『今夜にでも食事を一緒にどうかな』と書かれている書類を机に広げる。
「緊急じゃないけど、急ぎ。今夜は都合悪い?」
いつになく押しの強いグイドに、アルテミシアは内心首をひねった。
「ごめんなさい。
「そんなの、いつだって君の屋敷で、できるじゃないか。バシリウス隊長は君の父上だもの」
「そう、だけど」
「俺だって陛下警護の話はできるし、一隊員の経験も貴重だよ?俺はディデ
「グイド、また”ディデ
自分の所属部隊長を、幼いころの愛称で呼ぶ
「あー、つい、君の前だとね」
「ええ、気にしないでちょうだい」
「子供っぽい
「誰にでも
「君は
「
「君だけだよ、そう言ってくれるのは。……ありがたくて泣けてくる」
グイドの手が伸ばされて、紅色の髪をひと房、その手に握りしめる。
「グイド、……?!」
そのまま髪に口付けを落とされて、アルテミシアは短く息を詰めた。
(なぜこんなことを……)
「食事が無理なら、お茶くらいは?城下通りに
巻き毛から手を離して、グイドはいきなりアルテミシアの手を握る。
(こんなことをする人ではなかったのに)
アルテミシアは困惑して、握られた手に目を落とした。
先ほどの縁談話の言い様も含め、グイドの意図が読めない。
ただの世間話や、仕事の助言をしたいわけではないだろう。
縁談を蒸し返すこともあり得ない。
グイドがそれを、望んでいるはずはないのだから。
頼りのジーグは
「……それなら、
アルテミシアがうなずくと、グイドのとび色の瞳がゆっくりと、深い笑みを
「いいよ。
預言者のようなグイドのまなざしに、アルテミシアの不安は募るばかりだった。
◇
アルテミシアの話を聞くジーグの
「グイドがどうしてお茶なんかに誘ったのか、……結局わからなかった」
目を伏せたまま、アルテミシアがため息をつく。
「連れて行ってくれた店から帰る途中、街の皆が騒いでいた。『サラマリス邸が燃えている』って。……そんなはずはないって思ったけれど、遠くに黒い煙が……」
言葉を失ったように、しばらくアルテミシアは黙り込んだ。
静まり返った部屋に
「やっと帰ってみたら、屋敷は全部、燃えていて……。入った瞬間、全身がしびれるように感じたけれど、客間まではたどり着いた。でも、そこに両親が、倒れて、いて……、ラキスかフェティが、泣いていた。あの子たちだけでも助けたかった……!」
湯が沸騰する音に紛れて、時おりアルテミシアの息遣いが聞こえてくる。
激情を無理やり抑え込むように強く吸い込み、そのまましばらく止めては、ゆっくりと吐き出す吐息が震えていた。
レヴィアはひとり分だけお茶を
「よかったら、飲んでみて」
机に置かれた茶碗から立ち上る湯気が、アルテミシアに香草と蜜の香りを運んだ。
「……ありがとう」
切れた唇に熱い茶がしみて、蜂蜜の甘さとレヴィアの心遣いが身にしみていった。
「竜を見た、と思うんだ。玄関広間から客間へ続く、薄く開いた扉の向こう。ふたつの動く影を見た。一頭は、何か不思議な姿だった。でも、すぐに意識が飛んでしまったから、確証はないんだがな」
「私が戻ったときには、すでに屋敷は火の海だった」
ジーグの瞳に、
「ご当主夫妻はもう……。リズィエは刃を受けた直後で、煙もそう多く吸ってはいなかった。だから、助かった。私は竜を見ていないが、あの火の勢いは、屋敷全体が一気に燃え上がったようだった。そんなことをやってのけるには、赤竜を使う以外思いつかない」
「そんな炎を噴ける竜は、バシリウス舎にしかいなかったはずだ」
瞳を曇らせるアルテミシアに、ジーグはゆっくりと
「ですが、その関与は考えられません。当時のバシリウス竜の
契約者
は、当主と警護役のうちのひとりのみ。私が屋敷に入ったときには、彼もすでに……」「隠れて育成された赤竜がいたというのか?だが、そんなことが可能だろうか。もしそうならば、誰が、どうやって竜化法を知ったのだろう。なぜ、サラマリス当主家を襲ったのか」
「……わかりません」
「そうだな。……わからないな」
チラリと目を見交わして、主従は同時に息を吐きだす。
「リズィエを抱えて一晩中馬を飛ばしてサラマリス領に入り、そこからチェンタ国へ抜けた」
自分の記憶にない話を、アルテミシアはじっと聞いていた。
「老長のおかげでリズィエは命を取り留めたが、チェンタはサラマリス領から、帝国から近すぎる。だから、間を置かずにトーラまで落ち延びることを選んだ。襲われた理由がわからない以上、リズィエの生存を知られれば、追手がかかる心配があったからな」
「誰が、何のためにっ……。私は許さない、絶対に」
握ったアルテミシアの拳が震えている。
「あの子たちまで
「うん、いいよ。もちろん」
アルテミシアの瞳が見開かれ、一瞬ののちに笑み崩れていった。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「ミーシャのお願いを、僕が聞かないはずがないよ。それに、僕にできないことは、願わないでしょう?」
まっすぐに返されたレヴィアの瞳は、アルテミシアの憂いをすべて包み込んでくれるようで。
「レヴィ……」
背はとうに追い越されてしまった。
雨だろうと雪だろうと、たゆまずジーグに
顏もすっかり少年のものだし、声もいつの間にか低くなっている。
けれど、出会ったころから変わらず、手を差し伸べることをためらわない、レヴィアの心根が嬉しかった。
「ありがとう、レヴィ。私は帝国には戻らない。ここで
「新しい、名前?」
「ジーグも言っただろう。理由がわからない以上、あの
「竜の、卵……?」
衝撃的な単語に、レヴィアはぽかんと口を開ける。
(竜同士って、繁殖できないんじゃ……)
困惑するレヴィアの前で、アルテミシアが横髪をかき上げる。
「え……?」
アルテミシアの耳の半分ほどを隠している、大ぶりの耳飾りにレヴィアは息を飲んだ。
装飾品にしては大きすぎるし、何より、ツルリヌルリとした見た目ときたら。
「この仔たちがそう。ディアムズの卵だけれど、私の血で育てているから、すでに
アルテミシアにひとなでされた
耳飾り
が、レヴィアの目の前でにゅるんと動く。「……?!」
それは鳥の卵というよりも、爬虫類の卵に近い柔らかさを持つようだ。
「えと、ディアムズって、鳥じゃないの?」
「ん?鳥だぞ」
「だって、その卵、ぶにょぶにょしてる」
「人の血で育てると、硬膜が薄くなるんだ。親鳥が抱卵しなくなる代わりに、人の体温で
「へぇ……」
レヴィアは言葉もなく、アルテミシアの耳につけられた、「竜の卵」だというそれを見つめ続けた。