幕開けの日
文字数 3,675文字
合戦の舞台となったスバクル北西地方も、夏の盛りを迎えていた。
強い陽射しの下、新しい街の完成に先駆けて開業させた市場は、活気ある声で満ちている。
その人込みのなかには、一足早く商業協約を結んだ、アガラム王国とチェンタ族長国から来た者の姿も少なくない。
「よしよし、商売繁盛、繁盛。……にしても、まぁ、立派なもんだな」
完成間近の街を見渡しながら、独り言 ちるラシオンの視線の先には、スバクルでは類を見ない高層の建物が、夏空にそびえ立っていた。
豪奢 さはないが、各国の技術の粋 を集めたその建物は、この街を訪れる者すべての目を引かずにはいられない。
特に、トーラ王国の職人が携 わった、玻璃 や金属加工技術などは目を見張るものがある。
(これが療養所だなんて、初めて見たヤツは思わねぇよなぁ)
なんなら賓客をもてなす建物だと言っても、多くの人間は信じるだろう。
(帝国サマサマってか)
帝国特使が運んできた、「赤の惨劇」にまつわる不始末への補償金は、スバクル領主たちの度肝を抜くもので。
帝国を敵に回すことがいかに無謀なことか、牽制 の意味もあるのかと、勘ぐってしまったほどだ。
(ずいぶんと紐付 きの金だったけどな)
赤竜軍隊長が帰国後早々に送って寄越した、もう何度も読み返した親書を、ラシオンは懐 から出して眺める。
――取り急ぎ、外交特使に補償金を届けさせる――
そんな一文から始まる流麗な文字の向こうに、ディデリス・サラマリスの姿が透けて見えるようだ。
(字まできれいって、スキがなさすぎだろ。……また来るっつってたけど、”異形の竜”の事後処理で、それどころじゃないんだろうな)
――ぜひとも、多くの国が交流する都市に相応 しい、最新設備の整った療養所のために使ってほしい――
「いやいや、お嬢のためだろぉ?この美形野郎」
彫像騎士の要請は読むたびに、声に出して野次 らずにはいられない。
実際、アルテミシアはこの療養所でも一番環境の良い部屋で治療を続け、今では順調に回復をしている。
――帝国が協約を結ぶ際、または、それ以後スバクルを訪問する騎竜隊のためになれば――
「いやいや、ロシュとスィーニのためだろう」
ラシオンの独り言の野次は止まらない。
スバクル共和国への賠償としながらも、その使い方の指定には、すべてアルテミシアが関わっている。
(ほんとに。お嬢が味方でよかったよ)
「ラシオン・カーヤイ公。少しお時間をよろしいでしょうか」
ラシオンが手紙を懐 にしまい直すのと同時に、背後からきりっとした声がかけられた。
振り返れば声と同じく、涼しげな淡墨 色の瞳がラシオンを見上げている。
「よぅ、アスタ」
まぶしそうに目をすがめて、ラシオンはアスタの肩をポンと叩いた。
理由もなく申し訳なさそうに目を伏せ、いつもおどおどしていたアスタは、今はもう、どこにもいない。
リズワンの指導に、泣き言も漏らさず食らいついていったその少女は、軍服も粋 に着こなす、ひとかどの戦士になっていた。
「どうしたよ。スバクル語じゃなくてもいいんだぜ?」
「いえ、お世話になっている国に敬意を表すことは必要かと。……それほどトーラ語と変わりませんし、不自由はありません」
「だな。ヴァイノだって、すぐに話せるようになったくらいだしな。で?」
小首を傾げて、ラシオンは笑って見せる。
「なんでそんなに畏 まってんのよ。カーヤイ公、なんて水くせぇじゃねぇか」
「ですが、貴方 はすでにスバクルの……」
「んなの関係ねぇだろ。もちろん、無礼を勧めるつもりはねぇけど」
ラシオンは腰に手を当て、多く国の人々が生き生きと行き交う街を見渡す。
「国だとか家だとか。どんな地位にあるとか、血筋がどうとか。中身を見る前に、外側で人の価値を決めることは間違ってる。だろ?」
伸びてしまったラシオンの髪に風が吹きつけて、結び目に挿された髪飾りの金鎖が、ともに揺れた。
「イグナル・レゲシュのやったことは、デタラメな復讐だ。許すつもりはねぇ。あいつのせいで死ななくていい人が死んで、流さなくていい涙が流れた」
トレキバで出会ったときの、軽薄に見せていた表情はすでに過去のもの。
アスタはその精悍 な横顔に、人知れずため息をついた。
「でも、あいつをそこまで追い詰めちまったのは、垢 のこびりついたスバクルの体制だった。あいつの一族を縛り苦しめたのは、カビ臭せぇ価値観だった」
一気に言葉を吐き出してから、ラシオンは大きな笑顔を見せる。
「けど、それはもう過去のものにしたい。だからさ、アスタもカーヤイ公とかなしなし!」
「でも」
ラシオンの視線から逃げるように、アスタは顔を伏せた。
「貴方 は知らないんです。私はヴァイノたちとも違う。本当に……」
うつむいてしまったアスタの声が、細く消えていく。
「私は捨て子だったんです。服も着せてもらえず、布にも包 まれず。市場のゴミ捨て場に、本当にゴミのように、ただ放置されていた赤ん坊。それが私です」
アスタの告白に、ラシオンが短く息を詰めた。
「何の事情があったのかはわからない。ただひとつ、はっきりしていることは」
あの自信のなさそうな、申し訳なさそうなアスタの瞳がラシオンを見上げた。
「私は誰にも望まれない、疎まれた子供だったということです。後ろ暗い血を引くのかもしれない。本当は、こんな高貴な方々と、」
「馬鹿!」
「ラシオンっ。あ、あの……」
力いっぱいアスタの肩を引き寄せたラシオンが、ぎゅっとその手に力を込める。
「俺が今言ったこと聞いてなかったのか?生まれなんて関係ねぇって言ったろ!」
こげ茶の瞳が淡墨 を間近でのぞき込んで、その不安を砕いた。
「ヴァイノがコソ泥以上のバカやらなかったのは、アスタが要所で締めてたからだろ。あいつ言ってたぜ?”無茶やるとアスタが怒るんだ。鬼みたいだった”ってな。だいたい、お前の言う”高貴な方々”は、そんなことを気にする連中か?そんな奴らじゃねぇことは、お前が一番よくわかってるだろ」
ラシオンの指がアスタの額をちょんと弾く。
「それと。お前の師匠は、いつも何て言っている?」
「……生まれ落ちた場所などに、こだわるな……。頭と体を使って、誇れる場所を探せ、作れ……」
声を震わせるアスタの背中をなだめるように叩いて、ラシオンはトーラの礼をとって身を屈 めた。
「稀代の弓兵リズワンの弟子であり、竜騎士アルテミシアの妹弟子である、トーラ国戦士アスタ。貴女 の弓が、我が国の幾多の危機を救ってくれました」
そして、その手をすくい取ると、甲にそっと唇を寄せる。
「スバクルの盟友である貴女 に、永久 の敬愛を」
頬を赤くして、手を震わせているアスタに片目をつむってみせてから、ラシオンはその手を離した。
「おーおー、真っ赤だなぁ。おこちゃまには刺激が強かったか。悪かったな」
「おこちゃまなんかじゃありません!」
「そーかぁ?文化の違いもあるんだろうけどさ。お嬢は、このくらいじゃ動じないぜ」
「それは」
アスタが冷たい目でラシオンをにらみ上げる。
「アルテミシア様が大人だからではありません。むしろ逆だからです。ラシオン」
「お、おぅ」
一歩踏み出したアスタの迫力に、思わずラシオンは体を反らせた。
「お願いしていたものは、届いていますか?」
「あー、あれね、うん。届いてる。でもさ、ほんとーにお嬢に着せるの?」
「はい」
事も無げにアスタはうなずく。
「いやー、あれはちょっと、どーなの?」
「どう、とは?」
「いや、だってさぁ……」
ラシオンが口ごもったとき。
「アスタ!ラシオン!」
遠くから春告げ鳥の声が聞こえてくる。
「よーぅ!たてがみちゃんと、おじょ……」
手を上げて合図を送りながら、ラシオンが固まった。
「……アスタ……」
市場向こうから歩いてくるアルテミシアを遠目に見ながら、ラシオンが声を落とす。
「はい」
「あれ、誰の趣味?」
「アルテミシア様のお召し物ですか?趣味、というわけではありませんが、私の見立てです。とても素敵でしょう?」
「あの髪は?」
「私が結いました」
「器用だな」
軍服を着たメイリと並んでこちらに来るアルテミシアを、道行く者たちが振り返り、目で追っている。
朧月 のような淡い黄色の地に、薔薇 模様の薄紗 を合わせたスバクル衣装が、アルテミシアの深紅の髪によく映えていた。
大きく開いた襟 には緩く編み込まれた紅色の髪が一房かかり、肌のきめ細やかさを際立 たせている。
「ちょっと待て。お嬢って、俺の隊の騎馬兵指導に行ってたんじゃ?」
「はい」
動揺をにじませるラシオンに、それがどうしましたかとアスタはうなずく。
「あの恰好で?」
(訓練になったのか……?)
「怪我人が出なかったかな」
「アルテミシア様のご体調の急変に備えて、スヴァンがお供しています。実際の騎乗指導はヴァイノが。馬の管理についてはメイリの担当です。アルテミシア様は地上からのご指導ですから、お体には障らないかと」
「いやいや、問題はそこじゃねぇって。わかってるクセに」
(にしても、愚連隊総出の守りだな)
ラシオンに柔らかな笑みが浮かんだ。
強い陽射しの下、新しい街の完成に先駆けて開業させた市場は、活気ある声で満ちている。
その人込みのなかには、一足早く商業協約を結んだ、アガラム王国とチェンタ族長国から来た者の姿も少なくない。
「よしよし、商売繁盛、繁盛。……にしても、まぁ、立派なもんだな」
完成間近の街を見渡しながら、独り
特に、トーラ王国の職人が
(これが療養所だなんて、初めて見たヤツは思わねぇよなぁ)
なんなら賓客をもてなす建物だと言っても、多くの人間は信じるだろう。
(帝国サマサマってか)
帝国特使が運んできた、「赤の惨劇」にまつわる不始末への補償金は、スバクル領主たちの度肝を抜くもので。
帝国を敵に回すことがいかに無謀なことか、
(ずいぶんと
赤竜軍隊長が帰国後早々に送って寄越した、もう何度も読み返した親書を、ラシオンは
――取り急ぎ、外交特使に補償金を届けさせる――
そんな一文から始まる流麗な文字の向こうに、ディデリス・サラマリスの姿が透けて見えるようだ。
(字まできれいって、スキがなさすぎだろ。……また来るっつってたけど、”異形の竜”の事後処理で、それどころじゃないんだろうな)
――ぜひとも、多くの国が交流する都市に
「いやいや、お嬢のためだろぉ?この美形野郎」
彫像騎士の要請は読むたびに、声に出して
実際、アルテミシアはこの療養所でも一番環境の良い部屋で治療を続け、今では順調に回復をしている。
――帝国が協約を結ぶ際、または、それ以後スバクルを訪問する騎竜隊のためになれば――
「いやいや、ロシュとスィーニのためだろう」
ラシオンの独り言の野次は止まらない。
スバクル共和国への賠償としながらも、その使い方の指定には、すべてアルテミシアが関わっている。
(ほんとに。お嬢が味方でよかったよ)
「ラシオン・カーヤイ公。少しお時間をよろしいでしょうか」
ラシオンが手紙を
振り返れば声と同じく、涼しげな
「よぅ、アスタ」
まぶしそうに目をすがめて、ラシオンはアスタの肩をポンと叩いた。
理由もなく申し訳なさそうに目を伏せ、いつもおどおどしていたアスタは、今はもう、どこにもいない。
リズワンの指導に、泣き言も漏らさず食らいついていったその少女は、軍服も
「どうしたよ。スバクル語じゃなくてもいいんだぜ?」
「いえ、お世話になっている国に敬意を表すことは必要かと。……それほどトーラ語と変わりませんし、不自由はありません」
「だな。ヴァイノだって、すぐに話せるようになったくらいだしな。で?」
小首を傾げて、ラシオンは笑って見せる。
「なんでそんなに
「ですが、
「んなの関係ねぇだろ。もちろん、無礼を勧めるつもりはねぇけど」
ラシオンは腰に手を当て、多く国の人々が生き生きと行き交う街を見渡す。
「国だとか家だとか。どんな地位にあるとか、血筋がどうとか。中身を見る前に、外側で人の価値を決めることは間違ってる。だろ?」
伸びてしまったラシオンの髪に風が吹きつけて、結び目に挿された髪飾りの金鎖が、ともに揺れた。
「イグナル・レゲシュのやったことは、デタラメな復讐だ。許すつもりはねぇ。あいつのせいで死ななくていい人が死んで、流さなくていい涙が流れた」
トレキバで出会ったときの、軽薄に見せていた表情はすでに過去のもの。
アスタはその
「でも、あいつをそこまで追い詰めちまったのは、
一気に言葉を吐き出してから、ラシオンは大きな笑顔を見せる。
「けど、それはもう過去のものにしたい。だからさ、アスタもカーヤイ公とかなしなし!」
「でも」
ラシオンの視線から逃げるように、アスタは顔を伏せた。
「
うつむいてしまったアスタの声が、細く消えていく。
「私は捨て子だったんです。服も着せてもらえず、布にも
アスタの告白に、ラシオンが短く息を詰めた。
「何の事情があったのかはわからない。ただひとつ、はっきりしていることは」
あの自信のなさそうな、申し訳なさそうなアスタの瞳がラシオンを見上げた。
「私は誰にも望まれない、疎まれた子供だったということです。後ろ暗い血を引くのかもしれない。本当は、こんな高貴な方々と、」
「馬鹿!」
「ラシオンっ。あ、あの……」
力いっぱいアスタの肩を引き寄せたラシオンが、ぎゅっとその手に力を込める。
「俺が今言ったこと聞いてなかったのか?生まれなんて関係ねぇって言ったろ!」
こげ茶の瞳が
「ヴァイノがコソ泥以上のバカやらなかったのは、アスタが要所で締めてたからだろ。あいつ言ってたぜ?”無茶やるとアスタが怒るんだ。鬼みたいだった”ってな。だいたい、お前の言う”高貴な方々”は、そんなことを気にする連中か?そんな奴らじゃねぇことは、お前が一番よくわかってるだろ」
ラシオンの指がアスタの額をちょんと弾く。
「それと。お前の師匠は、いつも何て言っている?」
「……生まれ落ちた場所などに、こだわるな……。頭と体を使って、誇れる場所を探せ、作れ……」
声を震わせるアスタの背中をなだめるように叩いて、ラシオンはトーラの礼をとって身を
「稀代の弓兵リズワンの弟子であり、竜騎士アルテミシアの妹弟子である、トーラ国戦士アスタ。
そして、その手をすくい取ると、甲にそっと唇を寄せる。
「スバクルの盟友である
頬を赤くして、手を震わせているアスタに片目をつむってみせてから、ラシオンはその手を離した。
「おーおー、真っ赤だなぁ。おこちゃまには刺激が強かったか。悪かったな」
「おこちゃまなんかじゃありません!」
「そーかぁ?文化の違いもあるんだろうけどさ。お嬢は、このくらいじゃ動じないぜ」
「それは」
アスタが冷たい目でラシオンをにらみ上げる。
「アルテミシア様が大人だからではありません。むしろ逆だからです。ラシオン」
「お、おぅ」
一歩踏み出したアスタの迫力に、思わずラシオンは体を反らせた。
「お願いしていたものは、届いていますか?」
「あー、あれね、うん。届いてる。でもさ、ほんとーにお嬢に着せるの?」
「はい」
事も無げにアスタはうなずく。
「いやー、あれはちょっと、どーなの?」
「どう、とは?」
「いや、だってさぁ……」
ラシオンが口ごもったとき。
「アスタ!ラシオン!」
遠くから春告げ鳥の声が聞こえてくる。
「よーぅ!たてがみちゃんと、おじょ……」
手を上げて合図を送りながら、ラシオンが固まった。
「……アスタ……」
市場向こうから歩いてくるアルテミシアを遠目に見ながら、ラシオンが声を落とす。
「はい」
「あれ、誰の趣味?」
「アルテミシア様のお召し物ですか?趣味、というわけではありませんが、私の見立てです。とても素敵でしょう?」
「あの髪は?」
「私が結いました」
「器用だな」
軍服を着たメイリと並んでこちらに来るアルテミシアを、道行く者たちが振り返り、目で追っている。
大きく開いた
「ちょっと待て。お嬢って、俺の隊の騎馬兵指導に行ってたんじゃ?」
「はい」
動揺をにじませるラシオンに、それがどうしましたかとアスタはうなずく。
「あの恰好で?」
(訓練になったのか……?)
「怪我人が出なかったかな」
「アルテミシア様のご体調の急変に備えて、スヴァンがお供しています。実際の騎乗指導はヴァイノが。馬の管理についてはメイリの担当です。アルテミシア様は地上からのご指導ですから、お体には障らないかと」
「いやいや、問題はそこじゃねぇって。わかってるクセに」
(にしても、愚連隊総出の守りだな)
ラシオンに柔らかな笑みが浮かんだ。