惹かれ合う魂

文字数 3,795文字

 さっきから、ずっと霧の中を歩いている。

(ここはどこかしら)
 
 場所を確認しようと辺りを見回しても、霧に沈む薄暗い風景からは、何の手掛かりも得られなかった。

(早く行かなければ)
 
 気は焦るが、何かが絡みついているかのように、足は進まない。

(フェティとラキスのお墓を作ってあげたいし、グイドは……)
 
 そういえば、グイドはどうしたのだったか。
 

になったことは覚えている。
 だが、いつ解除されたのだろう。
 
 手を伸ばして、名を呼んでくれたレヴィア。
 カーフ、異形の竜。
 断片的な幻が、目の前に現れては消えていく。

(レヴィに会いたい)
 
 だが、もう会えないかもしれないと、どこかでわかっていた。

(情を(かか)えたまま戦ったから……。でも、(おきて)破りの結末としては、悪くないわね。こんな罪深い私が、可愛いレヴィアを守れたのならば)
 
 まっすぐに向けられる黒い瞳。
 はにかむ可愛い笑顔。
 孤独を生き抜いて、誰にも頼らずに生きる力がある。
 でも、誰よりも人の温もりを喜ぶ小さな……。

(ああ、もう小さくはなかったんだわ)
 
 くすくすと笑いながら、アルテミシアは歩き続ける。

 背丈はジーグにも追いつきそうなほど伸びた。
 剣の腕も立つし、スィーニも乗りこなす。
 料理も上手。
 優秀な医薬師で、その技術を惜しみなく、誰にでも与える。
 自分が王子と知ってからも、その優しさは変わることがない。
 
(フロラが慕うのも当たり前ね)
 
 きらきらした青空の瞳でレヴィアを見上げる、ふわふわした金髪の可愛らしい少女。
 あのふたりが一緒に菓子作りをしている様子は、本当に微笑ましかった。

「できるなら、私もレヴィと一緒にまた料理を」
 自分の声が耳に入って、アルテミシアは思わず足を止める。
 
(料理は禁止されてるのに……。でも、レヴィと一緒ならば失敗しないもの。……レヴィと一緒……。一緒にまた遠乗りするなら、スィーニとロシュ、どちらと行こうかしら)
 
 スィーニに乗るとロシュが()ねるし、ロシュと出かけるとスィーニが怒るけれど。

(一緒に乗らないと、レヴィが寂しがるから。……ううん、レヴィアはもう寂しくない。大丈夫。だって、仲間がたくさん……)
 
 ひとつのことを考え続けることができずに、頭がぼんやりとしてくる。
 霧はますます深くなってきたようで、気がつけば、首元まで白く沈んでしまっていた。
 
(これでは行き先が……。そういえば、私はどこへ行くのだったかしら)
 
 足が止まりそうになった、そのとき。

 サラサラサラサラ……。

 どこからか、せせらぎの音が聞こえてきた。

――水のある方向は間違いありませんよ――
 
 ジーグの教えを思い出して、アルテミシアは水音が聞こえるほうへと足を向ける。

(ジーグは怒っているわね。”リズィエは考えが足りません!”って、また言われてしまうわ)
 
 確かに、考える前に体が動いていた。
 だって、守りたかったから。

「守りたかったんだ。レヴィは世界で一番……、可愛いから」
 アルテミシアの独り言がこぼれ落ちた瞬間、霧が晴れて視界が開けた。
「っ!」
 まぶしくて、アルテミシアは思わず目をつぶる。
 そして、ゆっくりと目を開ければ、視界一杯に水の景色が広がっていた。
 海か湖かとも思ったが、小石だらけの岸に打ち寄せる波はなく、水は一定方向に流れている。
「川?……こんな大きな川、見たことないな」
 アルテミシアが水辺に近づいてみると、群生する美しい川藻(かわも)に目が釘付けになった。
 
 重なる濃緑の葉の間から、白い可憐な花々がいくつものぞいている。
 澄んだ川の流れの中、その小さな花たちが、招くように揺らめいていた。
 
 その珍しさに惹かれて、アルテミシアは一歩、また一歩と砂利(じゃり)岸を進む。
「サイーダ」
「え?」
 背後からの突然の声に、アルテミシアは驚いて振り返った。
「その水は、まだあなたには冷たいと思うの。あなたには、温かい腕が待っているのだから」
 艶やかな長い黒髪の女性が、柔らかくアルテミシアに微笑みかけている。
 その(うるわ)しい女性(ひと)が話しているのは、アガラム語だ。
 だが、不思議とすべてを理解できるし、星を浮かべる漆黒の瞳に、見覚えがあるような気がする。
「温かい、腕?」
「そう」
 トーラ語での返答にも、その女性(ひと)は優しくうなずいてくれた。
「あなたが望んでくれるのなら、いつでも手に入るのよ」
 内側から輝くようなその女性(ひと)が、首を(かし)げて笑う。

(ああ、この表情は……)

 とたんに、(いとけな)くなったその女性(ひと)に、アルテミシアの胸が切なく痛んだ。

「望んであげてちょうだいな。あなたのために在りたいと願う心ごと、命ごと。あなたが守りたいと思ってくれるように、あの子もあなたを守りたいの。さあ、戻って」
「でも」
 遠く(かす)んで見えない向こう岸に、アルテミシアは目を投げる。
「ラキスとフェティが待っているから。遊ぶ約束をしてるんだ」
 悲し気に眉を曇らせた女性(ひと)にも気づかず、アルテミシアは再び一歩、川へと足を踏み出した。
「サイーダ……」
 アルテミシアの肩に触れようとしていた褐色の腕が、ゆっくりと下ろされていく。

――ミーシャっ――
 
 必死に呼ぶ声が聞こえた気がして、辺りを見回して振り返ったアルテミシアの目が見開かれた。
 今いる川岸はこんなにも明るいのに。
 すぐ後ろには、白い霧に満たされた暗い空間が広がっていた。

――貴女(あなた)は、僕の世界そのものだよ――
 
 とてもとても慕わしい声が、その霧の向こうから聞こえてくる。

――僕のすべてをあげる。だから、戻ってきて――

「……泣いてる……」
 聞いていると胸が(つぶ)れそうな涙声が、切々と訴えていた。

――貴女(あなた)がいなくなってしまったら、僕も消えてしまいたい――

「結局泣かせてしまったのか。……もお、泣き虫だな」
 水辺から一歩、体を戻したアルテミシアに、(うるわ)しい女性(ひと)が嬉しそうに微笑む。
「そう、もっとこちらへ来て。サイーダの意思で戻って。……わたくしの可愛い泣き虫さんをよろしくね。あの子が初めてわたくしに祈った願いを、叶えさせてちょうだい」
「願い?」
 いつの間にかすぐそばにいた女性(ひと)の両手が、アルテミシアの頬を包み込んだ。
「愛しい魂たちが、ともにありますように」
 聖歌のようなアガラム語が紡がれたのと同時に。
 (たお)やかな腕が、思い切りアルテミシアを突き飛ばした。
「え?!」
 何が起こったのかわからないまま、明るい川岸は瞬時に消えて、アルテミシアは再び濃い霧に包まれていく。
 そして、何かに引っ張り込まれるように、体が重く落ちていった。
 
 重い。
 痛い。
 苦しい。

「……はぁっ……」
 アルテミシアはひとつ大きく息を吐いて、まぶたをこじ開けた。
「アルテミシア様っ?!」
 輪郭のはっきりしない光景を不思議に思う耳に、メイリの声が届く。

(ああ、そうか……)

 帰ってきたんだなと、アルテミシアは覚る。
「お目覚めになりましたか?!レヴィア様っ、レヴィア様!」
 体は熱い(かたまり)のようで、慌てるメイリに声をかけることもできない。
 呼吸の仕方さえ忘れてしまったようで、浅い息を何度も繰り返した。
「ミーシャ!!」
 懐かしい声が、懐かしい名前を呼びながら近づいてくる。
 そちらへ首を向けようとするが、痺れるような激痛に襲われた。
 だが、やり過ごしながら、だましながら、少しずつ体を動かしていく。
 レヴィアは急いで駆け寄り、アルテミシアの枕元に膝をつくと、ぎこちなく身じろぎする体にそっと手を添えた。
「動かないで。無理、しないで」
 首だけ回したアルテミシアの瞳に、大粒の涙を浮かべたレヴィアが映る。
「……ミーシャ……」
 震える声で名を呼んでくれる、そのいじらしい人の涙を(ぬぐ)いたくて、アルテミシアは手を伸ばそうとした。
 なのに、腕はぬかるみにはまったように動かず、指先が痙攣(けいれん)を繰り返すばかり。
 気づいたレヴィアが急いでアルテミシアの右手をつかんで、唇に当てた。
「わかる?僕がわかる?」

(もちろん)

 声は出なかったので、唇の形だけで「レヴィ」と応える。
「……アルテミシア……」
 ぽろりと涙をこぼしたレヴィアは、かすれる声で大切な名前を呼び返した。

 飛び込んでくるような足音に、朦朧(もうろう)とした目を上げると、そこには真っ赤な目をしたジーグがいる。

(クマがあんなに。……寝ていないの?)

 物問いたげなアルテミシアの頬をひとなでして、ジーグはレヴィアを振り返った。
「……峠は越えたということか?」 
「うん。まだ油断はできないけれど、意識が戻ったからね。。ミーシャ、飲める?」
 レヴィアから薬湯を差し出されたアルテミシアは、薄く口を開く。
 横になっていても飲みやすいように工夫されている吸い口が、慎重にアルテミシアの唇に乗せられた。
「ゆっくりね」
 喉を湿らせる程度で吸い口を戻して、レヴィアはアルテミシアの口元を、清潔な布で(ぬぐ)う。
「少しずつ、様子を見よう。そばにいるから、安心して休んで」
 レヴィアの穏やかな声を聞いていると、痛みが遠くなるようで。
 アルテミシアは小さくうなずいて、目を閉じる。
「……レヴィ……」
 急速に眠気に襲われるなか、アルテミシアは吐息でレヴィアを呼んだ。
 どうしても、伝えておかなければならないと思ったから。
「おかあ、さまに、……あった。きれいな、くろ、かみの……。もどれって……」
 まだ何かを言いたそうに唇は動いたが、アルテミシアはそのまま眠りに落ちていった。
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