過去との決別 -2-

エピソード文字数 2,943文字

 アルテミシアはぎゅっと固くまぶたを閉じた。ディデリスが鼻先をこすり合わせてくる。
 震えで思うままにならないアルテミシアの指先が、ようやく短剣の柄に掛かった。
 剣を抜かなければ。
 そう思っても体が動かない。
 ディデリスの唇が紅い巻き髪がかかる額に触れたとき、ごつっという硬く鈍い音が間近で聞こえた。
 何かがディデリスの側頭部に当たり、落ちて床に転る。
 朱色の髪からほんのりと温かい雫が(したた)り落ちて、アルテミシアの(ほほ)を濡らした。
 その感触にアルテミシアは目を開ける。
「申し訳ありません」
 ディデリスが首だけを(ひね)って目を遣ると、会談が始まる前に茶を振舞った、年若い使用人が(たたず)んでいた。
 体を起こして(そで)で顔を(ぬぐ)いながら、ディデリスは使用人をにらみつける。
「薬茶がご入り用かと思いお持ちしたのですが、つまずいて手が滑りました」
 若い使用人が静かに頭を下げた。
「薬茶だと?」
 濡れた朱色の髪をかき上げ使用人に向き直りながら、ディデリスは怒りのこもった目で使用人を見据(みす)える。
 なるほど。自分の頭に当ったのは茶碗か。
「そんなものは頼んでいない」
「ですが、!」
 使用人が言葉を飲み込む。
 壁に張りついて身動きもしないアルテミシアの瞳から、涙が一筋流れ落ちていた。
 使用人はするりとディデリスとアルテミシアの間に体を滑り込ませる。
 アルテミシアの姿が使用人の背に隠れた。
 その動きは素早く鮮やかで、ディデリスが止める間もなかった。
「お連れ様はご気分が優れないご様子でしたので。この場所はお辛いのでは?」
 アルテミシアを背でかばう使用人は、ディデリスに強いまなざしを送る。
 翡翠(ひすい)の瞳が不快を浮かべた。
 使用人から一歩距離を置き、ディデリスは秀麗な顔を厳しくする。
「下働きの立場で出過ぎたまねだろう。旧交を温めているだけだ。放っておいてくれるか」
「申し訳ございません。温めているようにはお見受けできません」
 年若い使用人をからかうような笑顔をディデリスは浮かべた。
(たわむ)れだ。他人には理解できないだろうが」
「ボジェイク老が申すには、テムラン殿はそのような方ではありません」
 あくまで穏やかな態度ながら、使用人は面と向かって言い返してくる。
「嫌であれば嫌と、良ければ良いとおっしゃいます。嘘のつけない、潔いリズィエです」
 ディデリスはわずかに目を見張り、すぐに美しい笑顔を作って使用人と目を合わせた。
「ほぅ。俺たちの何を知っていると?俺はアルテミシアが『九つのころからともに過ごしている特別の仲』だ。久しぶりに会うことができた。『邪魔をするな』」
 ディデリスの左手が両手剣の柄をつかんだ。
「この場所が(とが)められるというのならば、ディアムド側の客間へ引き上げる。アルテミシア、行こう。まだ話がある。聞きたいことがある」
 使用人の背後に向かって、ディデリスは声を掛ける。
「私には、もう話はないわ」
 アルテミシアの声だけが返ってきた。
 使用人を無視して、隠されているアルテミシアへ手を伸ばそうとしたディデリスの動きが止まった。
 使用人が片腕を広げ、ディデリスを牽制(けんせい)している。
「どうぞ、ご無体をなさいませんよう」
 進言にしては強い使用人の声が廊下に響く。
「リズィエのお気持ちを(ないがし)ろにすることのなきよう。お願いいたします」
 その背中をつかんでいるアルテミシアの指は細かく震えていた。
「…ありがとう」
 アルテミシアが使用人に(ささや)く。
「部屋に下がるわ。ディデリスも休んで。赤竜のことは、くれぐれも気をつけてね。あなたほどの人を(あざむ)き続けているのだから、相当の裏があると思うの。決して無理はしないで」
 苛立ちを押し殺しながら、ディデリスは長く深いため息を吐いた。
「俺を心配してくれるのか」
「心配はするわよ」
「嬉しいよ。それで?何か判明したり、行き詰ったりでもしたら、会ってもらえるのか」
「今回のように、第三者を間にした場を設けてくれるのならば」
「わかった。それでいい」
 不本意が(ぬぐ)えない声で、それでもディデリスは了承を伝える。
「二度と会わないと言われるよりはましだ。チェンタのご厚意に免じて今は下がる。お前」
 アルテミシアをその背に隠し続ける使用人に、ディデリスのきつい視線が投げつけられた。
「老長に伝えてくれ。老いの身で、若者の仲に口出しするものではありませんよ、とな」
 使用人は静かにうなずく。
「アルテミシア」
 甘くさえ感じる低音の美声が、松明(たいまつ)にぼんやりと照らされている廊下に流れた。
「次はもっとゆっくり話そう。再会にらしくもなくはしゃぎ過ぎた。悪かった。今度は真面目に詫びも入れる。では、またな」
 ディデリスは鷹揚(おうよう)な態度で(きびす)を返し、背中を向けて歩き去っていった。
 その姿が完全に見えなくなるまで、使用人姿のレヴィアはアルテミシアの前に立ち続けた。

(…あの小僧…)
 ディデリスの足音が暗い廊下にこだまする。
 去り際は余裕を見せたが、今その表情は忌々しそうに(ゆが)められていた。
 習練された身のこなしで、自分とアルテミシアの間にするりと割り込んできたあの少年。
 アルテミシアをその背に隠し続けていた、(すき)のない立ち姿。
 剣の柄に手を添えても、何の動揺もしていなかった。物怖(ものお)じしない漆黒の瞳に、松明(たいまつ)の炎が揺らめいていた。
 ぎりり、とディデリスは奥歯を()みしめる。
 会談前に茶を持って入ってきたときには、その可憐な容姿に美少女かと思ったほどだ。
(あの風貌(ふうぼう)。チェンタの人間ではないな)
 ボジェイクが自分の代わりに差し向けたのならば、それなりの理由があるはず。
 武芸が盛んなチェンタは剛の者が多く、弟子入り志願者が引きも切らない。各国の要人がその子弟を預けることも多く、異国の人間が城で働いていることには、何の不思議もない国だ。
(何者だろうか)
 まだ十代の子どもにすぎない。
 だがあれは、敵に回すと厄介な(たぐい)の人間だ。
(俺の

を聞いて、なお邪魔立てできた。半人前のくせに大した自制力だ。…だが、もう会うこともない、か…。それより)
 ディデリスは腹立たしい小僧のことは忘れ、アルテミシアが言っていた、秘密裏(ひみつり)に所有されている赤竜のことを考える。
(慎重にいこう。失敗は許されない)
 赤竜一族、ひいては帝国を揺るがす大問題でもあるが、今はそれが彼女と自分をつなぐ唯一の、重要な架け橋だ。
(なぜトーラで竜を育てようと思ったのかを、聞けなかったな)
 邪魔をしたあの小僧を思い出すと腹が煮える。だがアルテミシアと話す機会は、これからいくらでも作ることができるのだ。
 生きて再会できたのだから。
 自分の未来に、アルテミシアがいるのだから。
 歩みが穏やかになったディデリスの横顔には、いつの間にか柔らかな笑みが浮かんでいた。
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