過去との決別 -2-
文字数 2,599文字
ぎゅっと固くまぶたを閉じたアルテミシアとディデリスの鼻先が触れ合い、こすり合わされる。
震えるアルテミシアの指先が、ようやく短剣の柄に掛かった。
剣を抜かなければ。
そう思うのに、指が震えて思うように動かない。
ディデリスの唇が、紅い巻き髪がかかる額に押し付けられたとき。
ゴツっ!……カツン……。
何かがディデリスの側頭部に当たり、落ちて床に転がった。
壁についた肘はそのままに、ディデリスが首を捻 ると、背後に人が立っている。
(いつからいた?……俺が出し抜かれたというのか)
不審に思いながら向き直るディデリスに、会談が始まる前に茶を持ってきた、年若い使用人が頭を下げた。
「失礼いたしました。薬茶がご入り用かと思ってお持ちしたのですが、つまずいて手が滑りました」
「薬茶だと?」
濡れた朱色の髪をかき上げ、ディデリスは足元に転がっている茶碗に目を落として、納得する。
髪からほのかに芳ばしい匂いがしているのは、茶を浴びたせいらしい。
「そんなものは頼んでいない」
「ですが、……!」
目を見張ったかと思うと、使用人はするりと、ディデリスとアルテミシアの間に体を滑り込ませた。
その動きは素早く鮮やかで、ディデリスが止める間もない。
「お連れ様は、ご気分が優れないご様子です。この場所にいることが、おつらいのでは?」
責めるような使用人の口調に、一歩下がったディデリスは、秀麗な顔を厳しくする。
「下働きの立場で出過ぎたまねを。旧交を温めているだけだ。放っておいてくれるか」
「申し訳ございません。温めているようには、お見受けできません」
「親密な者同士の戯 れだ。子供には理解できないだろうが」
「ボジェイク老が申すには、テムラン殿はごまかしや嘘のない、潔いリズィエ。戯 れにこのようなことをなさる方ではありません」
からかうような笑顔を向けるディデリスに、使用人の語気が強まった。
「ほぅ。俺たちの何を知っていると?俺とアルテミシアは
使用人と目を合わせて、麗しい笑顔を作ったディデリスは、同時に左手で両手剣の柄をつかむ。
「この場所が咎 められるというのならば、ディアムド側の寝所へ引き上げる。アルテミシア、行こう。まだ話がある。聞きたいことがある」
「私には、もう話はないわ」
声だけしか返ってこないことに焦れたディデリスが、隠されているアルテミシアへ手を伸ばそうとして、その動きを止めた。
目の前にいる使用人が片腕を広げ、ディデリスを牽制 している。
「どうぞ、ご無体をなさいませんよう」
進言にしては、穏やかではない使用人の声が廊下に反響した。
「リズィエのお気持ちを、蔑 ろにすることのなきよう。お願いいたします」
「……ありがとう……」
使用人の背後から、アルテミシアの震え声が聞こえてくる。
「部屋に下がるわ。ディデリスも休んで。赤竜のことは、くれぐれも気をつけてね。あなたほどの人を欺 き続けているのだから、相当の裏があると思うの。決して無理はしないで」
「……アルテミシア……」
苛立ちを押し殺しながら、ディデリスは長く深いため息を吐いた。
「心配してくれるのか、俺を」
「心配はするわよ」
「それだけでも嬉しいよ。それで?何か判明したり、行き詰ったりでもしたら、会ってもらえるのか」
「今回のように、第三者を間にした場を設けてくれるのならば」
「わかった、それでいい。二度と会わないと言われるよりはましだ。チェンタのご厚意に免じて、今は下がろう。お前」
アルテミシアを隠し続ける使用人に、ディデリスの殺気立った視線が突き刺さる。
「老長に伝えてくれ。老いの身で、若者の仲に口出しするものではありませんよ、とな。アルテミシア」
その名を呼ぶ声は甘く、柔らかい。
「次はもっとゆっくり話そう。再会に、らしくもなくふざけ過ぎた。悪かった。今度は真面目に詫びも入れる。では、またな」
ディデリスは鷹揚 な態度で踵 を返し、背中を向けて歩き去っていく。
その姿が完全に見えなくなるまで、チェンタ使用人姿のレヴィアは、アルテミシアの前に立ち続けた。
◇
(……あの小僧……)
山城の廊下に灯 された松明 が、ディデリスの横顔に深い陰影を作り出している。
去り際は余裕を見せたが、今その表情は、忌々しそうに歪 められていた。
習練された身のこなしで、自分とアルテミシアの間にするりと割り込んできた、あの少年。
アルテミシアをその背に隠し続けていた、隙 のない立ち姿。
剣の柄に手を添えても何の動揺もなく、物怖 じもしていなかった瞳。
ギリリとディデリスは奥歯を噛 みしめる。
会談前に茶を持ってきたときには、その可憐な容姿に、男装の美少女かと思ったほどだ。
(あの風貌 。生粋のチェンタ人ではないな)
ボジェイクが自分の代わりに差し向けたのならば、それなりの理由があるのだろう。
武芸が盛んなチェンタは剛の者が多く、弟子入り志願者が引きも切らない。
各国の要人がその子弟を預けることも多く、異国の人間が城で働いていることには、何の不思議もない国ではある。
(老長の秘蔵っ子、だろうか)
成人前の子供に過ぎないが、あれは敵に回すと、厄介な類 の人間だ。
(俺の
乱暴に息を吐き出して、忌々しい少年の姿を頭から追い出す。
そうしてみれば、胸を占めるのはアルテミシアのことだけ。
口癖。
熟れ始めた果物のような香り。
額の滑らかさ。
もう手が届かないと諦め、絶望していたのに。
この腕の中で温かく息づいていたアルテミシア。
ついさっき別れたばかりだというのに、もう会いたくてたまらない。
奪い去ってしまいたかったが、あの態度を見る限り、無理を通すことは得策ではないだろう。
(まずは”隠された竜”か。失敗は許されないな)
アルテミシアが示唆した事実は赤竜一族、ひいては帝国を揺るがす厄災にもなりかねないし、何より今は、それが彼女と自分をつなぐ唯一の架け橋だ。
竜の話を聞き出せなかったことが心残りだが、それは次の機会を待てばよい。
次があるのだ。
アルテミシアは、生きていたのだから。
柔らかな笑みを浮かべたディデリスの歩みは、いつの間にかゆったりとしたものになっていた。
震えるアルテミシアの指先が、ようやく短剣の柄に掛かった。
剣を抜かなければ。
そう思うのに、指が震えて思うように動かない。
ディデリスの唇が、紅い巻き髪がかかる額に押し付けられたとき。
ゴツっ!……カツン……。
何かがディデリスの側頭部に当たり、落ちて床に転がった。
壁についた肘はそのままに、ディデリスが首を
(いつからいた?……俺が出し抜かれたというのか)
不審に思いながら向き直るディデリスに、会談が始まる前に茶を持ってきた、年若い使用人が頭を下げた。
「失礼いたしました。薬茶がご入り用かと思ってお持ちしたのですが、つまずいて手が滑りました」
「薬茶だと?」
濡れた朱色の髪をかき上げ、ディデリスは足元に転がっている茶碗に目を落として、納得する。
髪からほのかに芳ばしい匂いがしているのは、茶を浴びたせいらしい。
「そんなものは頼んでいない」
「ですが、……!」
目を見張ったかと思うと、使用人はするりと、ディデリスとアルテミシアの間に体を滑り込ませた。
その動きは素早く鮮やかで、ディデリスが止める間もない。
「お連れ様は、ご気分が優れないご様子です。この場所にいることが、おつらいのでは?」
責めるような使用人の口調に、一歩下がったディデリスは、秀麗な顔を厳しくする。
「下働きの立場で出過ぎたまねを。旧交を温めているだけだ。放っておいてくれるか」
「申し訳ございません。温めているようには、お見受けできません」
「親密な者同士の
「ボジェイク老が申すには、テムラン殿はごまかしや嘘のない、潔いリズィエ。
からかうような笑顔を向けるディデリスに、使用人の語気が強まった。
「ほぅ。俺たちの何を知っていると?俺とアルテミシアは
、幼いころからともに過ごしてきた特別な仲
だ。久しぶりに会うことができた。邪魔をするな
」使用人と目を合わせて、麗しい笑顔を作ったディデリスは、同時に左手で両手剣の柄をつかむ。
「この場所が
「私には、もう話はないわ」
声だけしか返ってこないことに焦れたディデリスが、隠されているアルテミシアへ手を伸ばそうとして、その動きを止めた。
目の前にいる使用人が片腕を広げ、ディデリスを
「どうぞ、ご無体をなさいませんよう」
進言にしては、穏やかではない使用人の声が廊下に反響した。
「リズィエのお気持ちを、
「……ありがとう……」
使用人の背後から、アルテミシアの震え声が聞こえてくる。
「部屋に下がるわ。ディデリスも休んで。赤竜のことは、くれぐれも気をつけてね。あなたほどの人を
「……アルテミシア……」
苛立ちを押し殺しながら、ディデリスは長く深いため息を吐いた。
「心配してくれるのか、俺を」
「心配はするわよ」
「それだけでも嬉しいよ。それで?何か判明したり、行き詰ったりでもしたら、会ってもらえるのか」
「今回のように、第三者を間にした場を設けてくれるのならば」
「わかった、それでいい。二度と会わないと言われるよりはましだ。チェンタのご厚意に免じて、今は下がろう。お前」
アルテミシアを隠し続ける使用人に、ディデリスの殺気立った視線が突き刺さる。
「老長に伝えてくれ。老いの身で、若者の仲に口出しするものではありませんよ、とな。アルテミシア」
その名を呼ぶ声は甘く、柔らかい。
「次はもっとゆっくり話そう。再会に、らしくもなくふざけ過ぎた。悪かった。今度は真面目に詫びも入れる。では、またな」
ディデリスは
その姿が完全に見えなくなるまで、チェンタ使用人姿のレヴィアは、アルテミシアの前に立ち続けた。
◇
(……あの小僧……)
山城の廊下に
去り際は余裕を見せたが、今その表情は、忌々しそうに
習練された身のこなしで、自分とアルテミシアの間にするりと割り込んできた、あの少年。
アルテミシアをその背に隠し続けていた、
剣の柄に手を添えても何の動揺もなく、
ギリリとディデリスは奥歯を
会談前に茶を持ってきたときには、その可憐な容姿に、男装の美少女かと思ったほどだ。
(あの
ボジェイクが自分の代わりに差し向けたのならば、それなりの理由があるのだろう。
武芸が盛んなチェンタは剛の者が多く、弟子入り志願者が引きも切らない。
各国の要人がその子弟を預けることも多く、異国の人間が城で働いていることには、何の不思議もない国ではある。
(老長の秘蔵っ子、だろうか)
成人前の子供に過ぎないが、あれは敵に回すと、厄介な
(俺の
言葉
を聞いて、なお邪魔立てしてきた。半人前のくせに、大した自制力だ。……だが、もう会うこともないだろう)乱暴に息を吐き出して、忌々しい少年の姿を頭から追い出す。
そうしてみれば、胸を占めるのはアルテミシアのことだけ。
口癖。
熟れ始めた果物のような香り。
額の滑らかさ。
もう手が届かないと諦め、絶望していたのに。
この腕の中で温かく息づいていたアルテミシア。
ついさっき別れたばかりだというのに、もう会いたくてたまらない。
奪い去ってしまいたかったが、あの態度を見る限り、無理を通すことは得策ではないだろう。
(まずは”隠された竜”か。失敗は許されないな)
アルテミシアが示唆した事実は赤竜一族、ひいては帝国を揺るがす厄災にもなりかねないし、何より今は、それが彼女と自分をつなぐ唯一の架け橋だ。
竜の話を聞き出せなかったことが心残りだが、それは次の機会を待てばよい。
次があるのだ。
アルテミシアは、生きていたのだから。
柔らかな笑みを浮かべたディデリスの歩みは、いつの間にかゆったりとしたものになっていた。