黒竜のリズィエ

文字数 3,525文字

 滝が落ちる音に(まぎ)れ、時おり小鳥の鳴き声が聞こえるほかは静かだった。
 秋が往き過ぎようとしている。
「泳ぐには遅いかな?」
 小さな滝が流れ落ちる泉を眺めながら、レヴィアの腕の中でアルテミシアはつぶやく。
 水面にきらめく陽射しが、「こちらにおいで」と呼んでいるようだ。
「今日は少し暖かいけど、いくらなんでも。あと半月もすれば、本格的な冬になるよ」
 しゃがみこんだ足の間に座るアルテミシアを、レヴィアがぎゅっと抱き込む。

(”よし、やっぱり泳ごう!”とか言い出したら、どうやって説得しようかな。……一緒に泳ぐしかないかなぁ……)

「そんなにしがみつかなくたって、大丈夫だよ」
 くすくすと笑って振り返るアルテミシアに、レヴィアは疑いの目を向ける。
「ミーシャの大丈夫くらい、大丈夫じゃない大丈夫ってないと思う」
 唇を尖らせたレヴィアは、そのままアルテミシアの額に、まぶたに、そして唇に軽い口付けを落としていった。
「ずいぶんと複雑なことを言うな。……こら、くすぐったいったら」
 身をよじりながら、アルテミシアはレヴィアの口を手で押さえる。
「……あの人には、させてたくせに……」
「あの人?」
「あの、派手な顔の、きれいな……」
 不満そうなレヴィアの声が、小さくなって消えていく。
「ベルネッタ様?」
「……」
 レヴィアは無言のまま、アルテミシアの首に顔を埋めた。


 ノアリエ合議のため帝国から派遣されてきた一団には、黒竜軍の一隊が同行していた。
 知らされていいなかったスバクル領主国側は、大変驚き慌てたが。
 それ以上にアルテミシアが驚いたのは、帝国側を率いてきたディデリスの苦い表情だった。

(あれほど隠しきれてないということは……。出発直前に、有無を言わさず通達されたのね、きっと)

 もしかしたら、そこにもまた、ディデリスが断れない圧力が加わったのかもしれない。

(今回、どこまで

が関わっているのかしら)

 帝国として、合議への参加の了承は、当然出しただろうが。

(裏で何を考えているやら……)

「竜舎が足りるか?」
 ノアリエ執務室の椅子(いす)にギクシャクと座るラシオンが、心配そうにアルテミシアを見上げている。
「ん?ああ、大丈夫。厩舎(きゅうしゃ)を簡単に改装させている。それほど時間はかからない。それより、賓客(ひんきゃく)用の宿舎はどうだ?」
 ぼんやりとした不安を払って笑ってみせれば、ラシオンはほっとした様子で、肩の力を抜いた。
「そっちは大丈夫だ。ヴァーリ陛下とテムラン大公に用意した宿が、まるっと空いてっからな。余裕、余裕。それより、何しに来たんだって?」
 
 確かに、イハウ連合国と通じていたスチェパ・ニェベスは、黒竜家の者だったが、その件は補償済み。
 処罰の報告があるとしても、赤竜隊長で事足りるのではと思うのだが。

「あれか?竜族の流儀ってやつか?」 
「いや?」
「お嬢にもわかんねぇか」
「まったく。合議には出席しても、口は挟まないらしい。まだちゃんと話をしていないんだ。今から顔を出してくるよ」
「誘拐には気をつけろよ、お嬢。お菓子をあげるって言われても、ついて行くんじゃねぇぞ、いてぇっ!」
「お菓子程度で行くわけないだろう!アスタ、その悪たれ領主を頼むな」
 ラシオンの肩を小突いて、(かたわ)らに付き添う妹弟子には、花のような笑顔を見せて、アルテミシアは執務室を出ていった。

「……大丈夫かねぇ」
 紅色(べにいろ)の巻き髪を揺らす背中が、扉の向こうへ消えた直後。
 ラシオンは大きなため息をついた。
「お菓子程度って、何だったら行っちまう気なんだよ、危なっかしいなぁ。……あの彫像騎士は、おっかねぇからな」
「大丈夫でしょう」
 心配顔のラシオンとは反対に、痛み止めの薬茶を茶碗に注ぎながら、アスタは軽く笑っている。
「合議のお仕事から外れた、

トーラ国王子が、常に付き従っていますから。最近ではすっかり立場が逆転していて、王子というより、姫を守る騎士のようです」
「そっか、そりゃ目に浮かぶわ。恋した男なんてそんなもんだけどな。ははは!いてっ、あははは!」
 思い切り笑ったため、腹の打ち身に響いたラシオンが顔を(ゆが)めながら、それでもその笑い声は止まなかった。

 ディアムド使節団を前に礼をとりながら、クローヴァは隣に立つジーグに(ささや)いた。
「帝国の人は、表情を動かさない訓練でもするの?」
「……いや」
 苦笑いを腹の奥に隠したジーグの正面に立つ、彫像騎士ディデリスのすぐ後ろには。
 目鼻立ちのくっきりとした、妖艶な女性が立っている。
 隊服は着ていないので、竜騎士ではないとわかるが、見事に色艶の良い黒竜を乗りこなしながら、ノアリエへと入ってきた。
 ディデリスと並んでも、遜色ない美貌の女性。
 一度見たら忘れられない目力を持つものの、その内心はまったく伝わってこない。
『急きょ増えて申し訳ない。こちらは』
 アルテミシアは「相当不満そうな顔をしている」と言っていたが、クローヴァには、相変わらずの芸術作品に見える。
 そのディデリスが一歩横にずれて、控えている女性に場所を譲った。
『黒竜デリオン家当主、ベルネッタ・デリオン公』
 簡素な旅姿で、髪も簡単に束ねているだけだというのに。
 全身匂い立つような女性が、優雅に頭を下げた。
『突然の(おとな)いをお許しください』
 低めの柔らかい声で謝罪をしながら、ベルネッタは笑顔を作る。
『今回、私ども黒竜家は』
「オレ、初めてロシュ触った!」
 ベルネッタの口上を止めたのは、クローヴァの背後から聞こえてきた、にぎやかな声だった。
「結構、我慢してたよ、あれ。すんごい半目(はんめ)で震えてたもん。アルテミシア様がいなかったら、かじられてる」
「ヴァイノはまずそうだと言っていたから、大丈夫だろう」
「メイリもふくちょもひでぇ。……ん?」
 近づいてくる迫力美人に気づいたヴァイノが、足を止める。
「……だれ?」
『ベルネッタ様!』
 アルテミシアが驚き、その名を口にすると。
 早足だった美女が駆け足になり、いきなりアルテミシアに抱きついた。
『サラマリスのリズィエ!本当に生きていたのね!よく無事だった』
『ご、ご無沙汰しております』
 声もなく見守る愚連隊には目もくれず、ベルネッタはアルテミシアの頬を両手で包む。
 かと思えば次の瞬間には、その顔中に口付けを落とし始めた。
『帝国の宝。竜族の小鳥。貴女(あなた)(あだ)なした者たちは、私が成敗したいくらいだったのよ。なのに、ゴルージャだけしか許可が出なかった。それすら……。いえ、そんなこと今はどうでもいいわ。もっとその可愛い顔を見せてちょうだい』
 アルテミシアに頬ずりをするベルネッタの動きが、突然止まる。
『……サラマリス公』
 不満そうなベルネッタの声に、アルテミシアが目を上げると、いつの間に来ていたのか。
 ディデリスがベルネッタの肩をつかんでいた。
『何の御用?』
 アルテミシアの頬からは手を放さずに、首だけディデリスに向けたベルネッタが冷たく言い放つ。
『役立たずは、向こうで待っていてくださらない?』
『デリオン公こそ、無理やりついてきたお荷物でしょう。控えてください』
『あら』
 アルテミシアから手を放し、その背に隠すようにしながら、ベルネッタは赤竜隊長に向き直った。
『黒竜の頭数制限の提案に、賛成してあげた恩をお忘れ?』
『貴公の協力がなくても、協約を成立させることには、何の問題もなかった。思ったよりも速やかだったことは、否めませんが』
『あの評議が長引けば、貴公はここへは来られなかったはず。感謝してほしいものだわ』
『感謝はしております』
『ならば、邪魔はしないで』
『邪魔などしていない。嫌がっているアルテミシアを救いにきただけだ』
『救う?』
 あごを上げてディデリスに向けたベルネッタの笑顔に、ヴァイノの背がブルリと震える。

「鬼女ってさあ、美人だって言うじゃん」
「なによ、いきなり。黙んなさいよ」
 こそこそ耳打ちされたメイリが、ヴァイノの脇腹を小突く。
「いや、あんな感じで笑うんじゃねーかなって。鬼女」
「黙れ」
「んぐっ」
 ディアムド帝国のふたりが、トーラ語を理解しているかどうかは、わからないが。
 とりあえず、メイリは片手でヴァイノの口を塞いだ。 

『竜族の小鳥が飛び去った原因のひとつは、貴公ではなかったかと、踏んでいるのだけれど』
『!』
『何に気を取られていたのかは知らないけれど、ドルカ家の暴走を許すなど、愚鈍にもほどがある。貴方(あなた)はいつもそう』
 同窓生の顔で、ベルネッタはディデリスに詰め寄る。
『肝心なところで詰めが甘い。リズィエを守り切れない』
『赤の惨劇には、黒竜家も一枚噛んでいただろう。第一、かつてアルテミシアを襲わせたお前が何を言う』
 ディデリスの凍てつくまなざしが、ベルネッタに向けられた。
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