黒竜のリズィエ

エピソード文字数 3,252文字

 滝が落ちる音に(まぎ)れ、時おり小鳥の鳴き声が聞こえるほかは静かだった。
 秋が往き過ぎようとしている。
「泳ぐには遅いかな?」
 小さな滝が流れ落ちる泉を眺めながら、アルテミシアはつぶやいた。
 水面に、陽光がきらめいて揺れている。
「今日は少し暖かいけど、いくらなんでも。あと半月もすれば、雪が降るよ」
 その体を胸の中に抱え込んでいるレヴィアが、抱きしめる腕に力を込めた。
 アルテミシアのことだ。「よし、泳ごう!」などと言い出しかねない。
「そんなにしがみつかなくたって、泳がないよ」
 可笑しそうに笑う、若草色の瞳が振り返った。
「本当かなぁ」
 疑いを目いっぱい浮かべながら、レヴィアはアルテミシアの額に、まぶたに、そして唇に軽い口付けを落とした。
「くすぐったいったら」
 笑いながら、アルテミシアの顔がそらされる。
「…あの人には、させてたじゃない…」
「あの人?」
「あの、派手な顔の、きれいな…」
 不満そうなレヴィアの声が消えていく。
「ベルネッタ様?」
「…うん…」
 レヴィアは小さくうなずいた。

 ノアリエ合議のため帝国から派遣されてきた一団には、黒竜軍の一隊が同行していた。
 知らされていなかったスバクル側は大変驚き慌てたが、それ以上にアルテミシアが驚いたのは、帝国側を率いてきたディデリスの苦い表情だった。
 十分納得する暇もなかったようだ。彼自身、出発直前になって知らされたのかもしれない。
「竜舎が足りるか?」
 ノアリエ執務室の椅子(いす)に、ぎこちない姿勢で座るラシオンが、心配そうにアルテミシアを見上げていた。
「大丈夫。厩舎(きゅうしゃ)を簡単に改装させている。それほど時間はかからない。そこは任せて欲しい。賓客(ひんきゃく)用の宿舎はどうだ?」
 自信に満ちたトーラ竜騎士の態度にほっとしながら、ラシオンはうなずいた。
「そっちは大丈夫だ。ヴァーリ陛下とテムラン大公に用意した宿が空いている。余裕、余裕。それより、何しに来たんだって?」
 確かにスチェパ・ニェベスは黒竜家の者だったが、その謝罪は済んでいる。合議の際、処罰の報告があるだろうが、直接黒竜家の人間が訪問してきた理由とは…?
 アルテミシアも軽く首を(ひね)っている。
「合議には出席しないらしい。まだちゃんと話をしていないんだ。今から顔を出してくるよ」
「誘拐には気をつけろよ、お嬢。お菓子をあげるって言われても、ついて行くんじゃねぇぞ、いてぇっ!」
「お菓子程度で行くわけないだろう!アスタ、その悪たれ領主を頼むな」
 からかうラシオンの肩を小突いて叫び声を上げさせ、(かたわ)らに付き添う妹弟子に花のような笑顔を見せて、アルテミシアは執務室を出ていった。
「大丈夫かねぇ」
 紅色(べにいろ)の巻き髪を揺らす背中が扉の向こうへ消えた直後、ラシオンの顔に憂いが浮かぶ。
「お菓子程度って、何だったら行っちまう気なんだよ。危なっかしいなぁ。…あの彫像騎士は、おっかねぇからな」
「大丈夫でしょう」
 痛み止めの薬茶を茶碗に注ぎながら、アスタは軽く請け負う。
「合議のお仕事から外れたトーラ国王子がお一人、常に付き従っていますから。最近ではすっかり立場が逆転していて、王子というより、姫を守る騎士のようです」
「そっか、そりゃ目に浮かぶわ!恋した男なんて、そんなもんだけどな!ははは!いてっ!あははは!」
 思い切り笑ったため、腹の打ち身に響いたラシオンが顔を(ゆが)めながら、それでもその笑い声は止まなかった。
  
 ディアムド使節団を迎え礼を取りながら、クローヴァは隣に立つジーグに(ささや)いた。
「帝国の人は、表情を動かさない訓練でもするの?」
 彫像騎士ディデリスのすぐ後ろ。
 目鼻立ちのくっきりとした、妖艶な女性が立っている。
 隊服は着ていない。竜騎士ではないようだが、見事に色艶の良い黒竜を、巧みに乗りこなしながらノアリエへと入ってきた。
「急きょ増えて申し訳ない。こちらは」
 アルテミシアは「相当不満そうな顔をしている」と言っていたが、クローヴァには相変わらずの芸術作品に見えるディデリスが、後ろに控えている女性を紹介した。
「黒竜デリオン家当主、ベルネッタ・デリオン公」
 来ているものは簡素な旅装束であり、髪も簡単に束ねているだけだというのに。
 全身匂い立つような女性が、一歩前に進み出た。
「突然の(おとな)いをお許し下さい」
 低めの柔らかい声で謝罪をしながら、ベルネッタは笑顔を作る。ディデリスとはまた違う、迫力のある笑顔だ。
 ベルネッタがさらに挨拶をしようと口を開いたとき、クローヴァの背後から、にぎやかな声が聞こえてきた。
「オレ、初めてロシュ触った!」
「結構、我慢してたよ、あれ。すごい半目(はんめ)で震えてたもん。アルテミシア様がいなかったら、かじられてる」
「ヴァイノはまずそうだから食べないと言っていたから、大丈夫だろう」
「メイリもふくちょもひでぇ。…ん?」
 近づいてくる迫力美人に気がついたヴァイノが、足を止めた。
「あれって…」
「ベルネッタ様!」
 アルテミシアが驚いた声で、その名を口にする。
 早足だったベルネッタが駆け足になり、いきなりアルテミシアに抱きついた。
「サラマリスのリズィエ!本当に生きていたのね!よく無事だった」
「ご、ご無沙汰しております」
 あっけにとられて、声もなく見守る愚連隊には目もくれず、ベルネッタはアルテミシアの(ほほ)を両手で包む。そして、その顔中に口付けを落とし始めた。
「帝国の宝。竜族の小鳥。貴女(あなた)(あだ)なした者たちは、私が成敗したいくらい。なのにゴルージャだけしか許可が出なかった。それすら…。いえ、そんなこと今はどうでもいいわ。もっとその可愛い顔を見せてちょうだい」
 アルテミシアが当惑するほど(ほお)ずりを繰り返すベルネッタの動きが、突然止まる。
「…サラマリス公」
 不満そうなベルネッタの声にアルテミシアが目を上げると、いつの間に来ていたのか、ディデリスがベルネッタの肩をつかんでいた。
「何の御用?」
 アルテミシアの(ほほ)からは手を放さず、首だけディデリスに向けたベルネッタが冷たく言い放った。
「役立たずは向こうで待っていて下さらない?」
「デリオン公こそ、無理やりついてきたお荷物でしょう。控えて下さい」
「あら」
 アルテミシアから手を放し、その体を隠すようにしながら、ベルネッタは赤竜隊長に向き直る。
「黒竜の頭数制限の提案に、味方してあげた恩をお忘れ?」
「貴公の協力がなくても、協約を成立させることには何の問題もなかった。思ったよりも速やかだったことは、否めませんが」
「あの評議が長引けば、貴公はここへは来られなかったはず。感謝して欲しいものだわ」
「感謝はしております」
「ならば邪魔はしないで」
「邪魔などしていない。嫌がっているアルテミシアを救いにきただけだ」
 ディデリスの口調がぞんざいになった。
「救う?」
 ベルネッタがディデリスに笑いかけた。
 二人のやり取りを見守っていた愚連隊が震え上がる。
 美しい鬼が笑うとしたら、こんな顔だろう。
 壮絶な笑顔で、ベルネッタはディデリスをにらんでいる。
「竜族の小鳥が飛んで行ってしまった原因のひとつは、貴公ではなかったかと踏んでいるのだけれど」
 ディデリスは口を閉じ結んだ。
「何に気を取られていたのかは知らないけれど、ドルカ家の暴走を許すなど、愚鈍にもほどがある。貴方(あなた)はいつもそう」
 同窓生の顔で、ベルネッタはディデリスに詰め寄った。
「肝心なところで詰めが甘い。リズィエを守り切れない」
「赤の惨劇には、黒竜家も一枚噛んでいただろう。第一、かつてアルテミシアを襲わせたお前が何を言う」
 ディデリスの凍てつくまなざしが、ベルネッタに向けられた。
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