あなたのために -秘め事-
文字数 3,695文字
アルテミシアを振り返ったレヴィアは息を飲んだ。
「ミーシャっ?」
幾筋もの涙が、アルテミシアの頬を濡らしている。
ディデリスの陰で、涙をこぼしていたアルテミシアに驚いて、とっさに間に入ったレヴィアだったが。
あれからずっと、アルテミシアは声も立てずに、涙を流し続けていたようだ。
「大丈夫だよ。あの人、もう行っちゃったよ」
レヴィアのトーラ語を聞いたとたんに、アルテミシアの呼吸が荒く乱れ、間隔が短くなっていく。
吸っても吸っても足りないというように、アルテミシアの肩が上下している。
「それじゃ、逆に苦しくなっちゃうよ。呼吸を、ゆっくりにできる?……ミーシャ!」
胸に手を当てて、前のめりになったアルテミシアの膝が、崩れ落ちていく。
「部屋に、行こうね」
急いでアルテミシアを抱き上げると、レヴィアは大切な壊れ物を運ぶようにそっと、だが、できるだけ早足で寝所へと向かった。
蹴破る勢いの合図にジーグが扉を開けると、目の前にはアルテミシアを
「リズィエ?!」
いつにない大声を出すジーグを素通りしたレヴィアは、寝台にアルテミシアを横たえ、床に膝をついた。
「ミーシャ、深呼吸をして。もっとゆっくり。吸って……、吐いて……」
体を丸め、浅い呼吸を繰り返すアルテミシアの背中を、レヴィアは
「大丈夫だから。大丈夫、……大丈夫だよ」
ゆったりとした波のように。
レヴィアはその背をなで続けた。
半刻ほどして。
アルテミシアが体を起こしたのを見て、ジーグが寝台の
「大事はないのか?」
立ち上がりながらレヴィアはうなずく。
「うん。息の吸い過ぎ、だと思う。……どこか、つらいところはある?」
枕に背を預けたアルテミシアは、無言で首を横に振る。
「何があった」
「えっと……。ミーシャ、僕が話しても、いい?」
やはり無言で、アルテミシアはコクリとうなずいた。
事の次第を聞きながら寄せられていくジーグの
仁王立ちになって見下ろすその瞳は、気遣いつつも厳しい。
『気をつけてくださいとあれほど』
『気をつけてはいたのよ。でも』
『あの男はリズィエのことは知り尽くしています。あの若さで、皇帝陛下からの信頼も厚い、百戦錬磨の知恵者。リズィエの何枚も上手です。しかも、もう自分の欲望を隠すことをやめている』
『欲なんて言わないで。
アルテミシアは戸惑う顔をうつむけた。
幼いころより、誰より
あんなこと
があっても、アルテミシアにとってのディデリスは、「慕わしい兄」であり続けている。竜族では唯一、心許せる存在として。
アルテミシアの内心を察したのか、ジーグが苦々しい顔になった。
『あの男は、リズィエを妹として見たことなど、一度もないと思いますよ。……親しくなった、九つのころからずっと』
『まさか!……そんな、ことは……』
『とにかく、あの男の前に立つときには、”そういう存在として求められている”ということを、深く肝に銘じてください』
同様を隠せないアルテミシアから視線を外して、ジーグはため息をつく。
『帝国連中を密かに見せるためではあったが、レヴィアを呼んでおいてよかった。出て行ったのが私なら、あの男は強硬手段に出たかもしれない。だが、これでレヴィアの顔を覚えられてしまったな』
『ミーシャを責めないで』
レヴィアはふたりと同じように、ディアムド語を使った。
『直接出て行かなくても、ほかの人を呼んでもよかった。そのくらいの時間はあったんだ。でも、僕が』
しょんぼりと、困った子猫のような目を上げたアルテミシアに、レヴィアはにっこりと笑ってみせる。
『僕が我慢できなくて、思わず茶碗を投げつけてしまった』
『剣は抜かれなかったのですか?いつもの勢いはどうしました』
『……だって、でも……』
口ごもるアルテミシアのまなざしは定まらない。
「ジーグ。ミーシャと、少し話をしてもいい?」
「……そうだな。私の説教では聞き飽きて、頭に入らないのかもしれない。トーラ土産の酒でも持って、少しボジェイク老と昔話でもしてこよう。……リズィエを頼んだぞ」
使用人姿のレヴィアの肩を力強く叩くと、ジーグは部屋を出ていった。
レヴィアは部屋に用意されていた茶器を手に取ると、アルテミシアを振り返る。
「お茶を
「……両方」
アルテミシアは寝台から下りて、丸卓横の
「うーん……。それは味の保証ができない、かも」
「美味しいほうがいいな」
「それなら、僕に任せてくれる?」
「もちろん」
やっと笑顔を見せたアルテミシアが、頭頂部で結っていた
「少し甘くしてくれるか?」
「うん、いいよ。もちろん」
幾種類もの香草を選びながら、レヴィアはアルテミシアに笑い返した。
丁寧に
「美味しい」
「そう?よかった」
もう一脚あった
『それで、あの人。赤竜隊長がミーシャの
レヴィアの瞳が不安に揺れながら、アルテミシアをうかがい見る。
――幼いころから、ともに過ごしてきた特別な仲――
ディデリスの声が耳にこびりついて離れない。
今にも口付けしそうだったふたりと、それを
そんなふたりを思い出すと、心が焼け付くように痛い。
しばらくの間、アルテミシアは口を開こうとしてはやめて、また茶碗に口をつける、そんなことを繰り返していた。
長い長い
『ディデリスは』
茶碗を卓上に置いて、アルテミシアは
長いまつ毛が伏せられ、まだ薄く湯気の上がる茶碗を、見るともなしに見遣っている。
『父親同士が兄弟なの。七つ年上で、とても賢くて。竜の扱いも剣術も、誰よりも秀でていた。”サラマリスの誇りだ”って、おじい様もバシリウスもよく言っていたわ。私にとっても自慢の
懐かしそうなアルテミシアの声色に、レヴィアの心が騒ぐ。
『私が本当に幼かったころは、いつ会っても気難しい顔ばかりしている、とても近寄り難い人だったの。でも、ディデリスの十六才のお誕生日から仲良くなれたのよ。おじい様と用意した贈り物を喜んでくれて、それから』
『何を贈ったの?』
『竜の腕輪。今日もしていたわ。おじい様はディデリスの一番の理解者だったし、大切にしているみたい』
ああ、
いつもの
アルテミシアだとレヴィアは思う。自分ですら察せられるのに。
だが、それはアルテミシアへの気持ちを自覚した今だからこそ、わかるのかもしれないけれど。
『ミーシャからの贈り物だからじゃない?』
伏し目がちに問いかけるレヴィアに、アルテミシアが小首を傾げた。
『でも、ディデリスはおじい様の
『……そう、なんだ』
とりあえず、赤竜隊長は素直な人間ではなさそうだ、とレヴィアは理解する。
『ディデリスの竜は”ルベル”というの。大きくなるのが遅くて、竜にはならないとまで言われていてね。危うく処分される寸前で、まだ士官生のディデリスが世話を引き受けて、赤竜にない足の速さを持った仔になったのよ。黒竜の疾走力と、赤竜の攻撃力を持つ特別な竜。それを育てて、契約前に懐かせたのがディデリスなの』
『……そう、なんだ……』
『国境紛争をいくつも収める戦績を残して、誰からも認められている人。私も一時期、ディデリスの部隊に所属していたときもあったのだけれど』
アルテミシアの声が少しずつ沈んでいく。
『私は……、竜騎士になど、ならなければよかったのかもしれない。私がいけなかったんだわ』
組んだ両手に深く顔を
『ディデリスは、私を戦場に出そうとしなかった。戦術の一環だと言われたけれど、でも……』
しばらく無言の時が流れて。
息が詰まる思いでレヴィアが見つめるなか、やっとアルテミシアの顔が上がる。
『ディデリスとの関係が崩れたのは、私が自分の隊を持ってから。彼もお祝いの言葉をくれたけれど、心から認めていたわけではなかったと、今ならわかるの。あの日……』
再び黙り込んだアルテミシアの目は、ぼんやりと遠くを見つめているようだった。