茨を焦がす慕情 -1-

文字数 2,300文字

 「おやすみなさい」と告げたメイリが灯を落とせば、辺りは闇に包まれた。
 しとしと降り続く雨音に耳を傾けながら、アルテミシアは眠れずに、じっと天井を見上げている。

――気持ちの区別はつく?――
 
 繰り返し胸によみがえるのは、クローヴァの言葉。
 
(気持ちの、区別……?)

「好きと、恋しいと、愛して……いる」
 ぽつりとこぼしたアルテミシアの声が、夜に溶けて消えた。

(愛して……)

 突然。
 ぽっかりと穴が開いてしまったような瞳をしていたディデリスが、アルテミシアの目の前に現れた。

――愛している――
 
 聞こえるはずのない声が体を縛る。
 自分の寝巻を乱暴に()ぎ取り、舐めるように体を()っていった熱い手。
 闇のように優しく、毒のように甘く(ささや)かれた、「愛」という言葉。
 
 アルテミシアの心臓が不規則な鼓動を刻みだした。
「はっ、はぁ……」
 動悸は次第に早くなり、息が浅くなる。
 吸っても吸っても苦しい。
 体が強張(こわば)っていく。
 手足がしびれ、世界が回る。

(苦しい……。くる、しいっ)
 
 逃げるように寝台から降り立つが、足に力が入らなかった。
 ぐらりとよろけた拍子に、膝が方卓にぶつかる。

 ガチャン!

 派手な音とともに床に倒れこむと、傷のある横腹が強く床に打ちつけられた。
 全身を貫くような痛みに息が止まる。
 気ばかり焦るが、体は動かない。
 
(逃げなきゃ。早く、早くっ)

 思うように動かない手足を引きずり、はいずるアルテミシアの目に涙が浮かんだ。

――お前が欲しいんだ――
 
 幻のディデリスが体にのしかかってくる。

――竜も一族も捨てて、俺を選べ――
 
 重い美声が耳を(ねぶ)った。
 
(だめ、もう逃げられない……)

 アルテミシアは横たわったまま、両手で耳を(ふさ)ぎ手足を縮めて丸くなる。
「嫌、いや……。イヤぁ!」
 どんなに固く目を(つむ)っても、ディデリスの(くら)いまなざしが脳裏にこびりついて消えなかった。

「……ミーシャ?どうしたのっ」
 聞き慣れた声がして、小走りの足音が近づいてくる。
「大丈夫?!」
「……レヴィ……?」
 床に置かれた小さな角灯の灯りを映して、大きな黒い瞳がキラキラと光っていた。
 抱き起したレヴィアが心配そうにアルテミシアをのぞき込んでいる。
「レヴィ、……レヴィっ……」
 力の入らない指で、それでもアルテミシアはレヴィアにしがみついた。

(ああ、また来てくれた……!)

 帝国を逃れてから、ずっと。
 つらいとき。苦しいとき。
 いつもレヴィアは来てくれる。
 そばにいてくれる。

「ミーシャ、深呼吸できる?……息、ゆっくりにして」
 体を強張らせているアルテミシアを膝に(かか)え、レヴィアはゆったりとその背中を(さす)った。
「ゆっくり、ゆっくり。そう、上手。……もう大丈夫だから」
 
 震える背中をなでながらレヴィアが天幕内を見回すと、方卓が横倒しになっていて、乗せられていた水差しが倒れて床を濡らしている。

(転んじゃったのかな)

「夕飯、ほとんど食べなかったでしょう?兄さまも、ミーシャはちょっと元気がなかったって言ってたから。”春の野原”を()れようと思って、来てみたんだ」
 内心の不安を悟られないようにしながら、レヴィアは穏やかな声で話し続けた。
「大きな音がしてたね。どこかぶつけてない?痛いのはどこ?」
 アルテミシアは息を整えながら、暖かなレヴィアの胸に頬を寄せる。
「大したことはないよ。……もう大丈夫」 
「本当に?」
 レヴィアはそっとアルテミシアの脇腹に触れるが、濡れているような感触はない。

(傷は開いてないな。……よかった)

「痛みが引かなかったり、酷くなったらすぐ言ってね。……怖い夢、見たの?」
 傷口の上に当てられたレヴィアの手から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
 アルテミシアは深く息を吸いながら、力なく首を振った。
「さっき、クローヴァ殿下が……」
「え、兄さまが?!」
 
 あの聡明な兄が何かしたとは思えないが、彼も男であることには変わりはない。

「どうしたの?何か、された?言われた?」
 アルテミシアが顔を上げると真剣そのもののレヴィアと目が合い、思わず微笑んでしまう。
「何もされてない。ただ……」
 「好き」の種類の話を、気持ちの区別の話を。
 レヴィアは複雑そうな顔で聞いていた。
「……そう、だったの」

――ふくちょはオレの手には負えねーな。重症すぎる。ラシオンでも呼んでくっか――

 ヴァイノの意見には同意である。
 けれども。
 
(ラシオンなんか、絶対だめ!)
 
 顔をしかめるレヴィアに気づかず、アルテミシアはため息をつく。
「思い、出して……。ディデリスは”愛している”って言った。でも、そうなの?愛するということは、人をあんなふうに変えてしまうの?」
 アルテミシアは額をレヴィアの肩に強く押しつけた。
「怖いんだ。すごく怖い。誰かを傷つけることが『愛する』ということならば、愛などいらない」
 くぐもったアルテミシアの声が湿っていく。
「……いらない、愛なんて。……怖い……」

は、こんなにもミーシャを傷つけてる。……今でも)

 アルテミシアを(かか)える腕に、レヴィアは優しく強い力を込めた。

(そんな記憶なんて、消えちゃえばいいのに。こんなにミーシャを苦しませて。……心を縛って)
 
 レヴィアの胸に広がる感情は怒りなのか、悲しみなのか、同情なのか。
 それとも、そのすべてなのか。

(わからない。でも……)
 
 確かなことは、アルテミシアを苦しめるものから守りたいという思い。
 誰より愛しい人の(おび)えを、(ぬぐ)い去りたいという願い。
 
(そのためならば、僕は何にでもなる)

 二度とあんな目に遭わせたりしないと決意して、レヴィアはアルテミシアの頭に頬を寄せた。
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