隠れ人-1-
文字数 3,627文字
「このぉっ!
怒鳴 り声を背に全力で走った。
息を切らしながら、木々の間を駆け抜ける。
荒い呼吸をするたび、芽吹き始めた森の香りが胸に染込んでいくようだ。
走る。まだ走る。
憎々しげに吼 える声が間遠くなり、消えたと気づいたころには、森の深くまで入り込んでいた。
「……ふぅ」
太い木の幹に身を隠すようにしてもたれれば、耳に届くのは鳥の声と、風が木々の間を通り抜けていく音だけ。
(今日は、結構しつこかった)
荒い息を整えながら、汗で額に張り付いたボサボサの真っ黒な前髪を片手でなで上げる。
明瞭になった視界で辺りを見回すと、鬱蒼 とした森にわずかに差し込んでいる陽は薄く、日没が近いことを告げていた。
今のうちに、何か食べられるものを
(食糧庫、忍び込めなかったな……。今からじゃ、狩りはムリだし)
目を落とすと、そこにあるのは北に位置するこの国では珍しい、母譲りの褐色を帯びた手。
不安な気持ちで小さな手を握りしめれば、母の笑顔がよみがえってくる。
五つになる前に死んでしまったから、それはとても朧 げな思い出でしかないけれど。
(山菜はまだ早いから……。ワナに魚がかかってるといいけれど)
ひとつため息をついてから、水の音がするほうへと歩きだす。
薄暗い森から川岸を見下ろす崖の上に出たとき、甲高 い笛のような鳴き声が耳に飛び込んできた。
「……わぁ」
顔を上げれば、悠々と空を渡っている、一羽の鷹 の姿が目に飛び込んでくる。
威厳あるその姿は、自由に世界を渡る翼を持つ、空の王のようだ。
(……なんてステキなんだろう)
みるみる小さくなって、鷹 は山々の向こうへと姿を消してしまったけれど。
もう一度だけ姿を見たいという願いが消えず、しばらくその場から足が動かなかった。
(……あ、いけない)
首に痛みを感じて気づけば、空がだいぶ暗い。
早くしないと、川にしかけたワナを確認するどころではなくなってしまう。
木の枝につかまりながら斜面をおりようとして、目の端 をかすめたものに違和感を覚えた。
(動物?……じゃない)
目を凝 らすと、大きな岩が重なり合う洞 のなかに人影が見える。
慎重に斜面を下って、河原に転がる大きな岩の上に飛び乗った。
そして、洞 近くまで移動すると身を伏せ、そっと顔をのぞかせてみると。
(男の人?)
わずかに差し込む光が、膝 に何かを抱えた、大きな背中を浮かび上がらせていた。
(あれは……、手かな?)
男の背の陰 から見えている指の、不自然なほどの白さに思わず身震いしたのと同時に。
「っ!」
洞のなかにいる男が、傍 らに置いていた大振りの剣を片手に振り返る。
寸分の隙 もないその動きに息を飲んだが、琥珀 の瞳と目が合っても恐ろしいとは思えなかった。
「死んじゃった、の?」
剣の切っ先はこちらに向けられていたが、男のとても、とても悲しそうなその目に疑問をそのまま口にする。
「※※※※※※」
返された響きは大陸共用語であるディアムド語らしいが、意味まではわからなかった。
「ゴメ、ナサイ。ディアムド、ナイ」
片言 のディアムド語で首を横に振ると、男の瞳がふっと和らぐ。
「ここはトーラ国だったな。……死んではいない」
「そう、なの」
剣は離さないまま、流暢 にこの国、トーラの言葉を話す男をまじまじと見つめてしまった。
男の顔には汚れが目立ち、乱れた栗色の髪が額に張り付いている。
身にまとう黒い装束はあちこち破け、お世辞にもきれいとは言いがたい姿だが、話す声には深い知性がうかがえた。
「だが、あまりよくもない」
「ケガ、してるの?病気?傷薬 、いる?」
腰袋 から軟膏 の入った容器と晒 を出して掲げ見せたが、男は何も言わない。
「いらない?」
「……」
男の目に浮かんだ迷いに、岩を滑り降りて洞 へと近づいた。
そして、必要以上に近づかないように、洞 の入り口付近に手にしていた物を置く。
「無防備だな。攻撃されるとは思わないのか」
剣の切っ先を向けたまま、男はすっと目を細める。
「思わない。だって、何かを、守ってる、でしょ。獣 の親は、仔 が安全なら、襲ってはこない、よ」
「私は人間だ。動物とは違う。欲に駆られてお前からすべてを奪い、口を封じるために殺すかもしれない」
「殺してまで、奪われるもの、持ってない。薬も、今はこれだけ。全部、あげる。封じるほどの、口もない。話す人なんて、いない」
「……」
表情も変えずに、男はただ目の前にいる子供をじっと観察し続けた。
前髪は目を覆い隠すほど伸び、上着と下衣は体に合うように手直しした跡がある。
体に合わない大きな革製の靴は、どうやら詰め物をして履 いているらしい。
頭のてっぺんから足の先まで視線を巡らせたのち、男の首がわずかに傾いた。
「ならば、その薬はどうした」
「自分で、作った。植物油と、蜜蝋 。それから、薬草で」
「自作したのか。……ならば、ありがたくもらっておこう。しかし、今は何の礼も返せないのだが」
「持っている者が持ってない者と分け合うことは当たり前だって、母さまが、言ってた」
「その肌、母親は南方の出身か?『持つ者は持たざる者と分け合うべし』という格言を持つ文化は、アガラム砂漠周辺の国だろう」
「知らない。母さまのことは、よく覚えていない。聞ける人も、いない」
「それは……、※※※※※?!」
「……※※……」
かすれ声のディアムド語を聞いた男は大剣を投げ置き、身に下げていた容器を傾ける。
だが、そこからは何も出てはこなかった。
「水って、言った?水筒、空なの?汲んでくる、よ」
小さな手を伸ばすと、男はためらいながらも容器を渡してくる。
「……すまない。感謝する」
「ちょっと、待ってて」
駆け出した小さな背中に、男は深く頭を下げた。
たっぷりの水で満たした水筒を渡してそのまま見ていると、男の抱 えている人物は、「よくない」どころではなさそうだった。
血が滲 む布で、全身どころか顔のほとんどまでをも覆われたその人物は、ほんの一口水を飲んでから、またぐったりと動かなくなってしまう。
「ここは、夜、冷えるよ?」
「わかっている」
「火は、おこさない、の?」
「ああ」
「なら、ほかの場所……」
「いや」
洞 からの移動を勧めても、男は断るばかり。
だが、なぜか諦める気持ちになれなかった。
その理由は自分にもわからないけれど、去りがたい思いに足は動かない。
「封じる口はないと言ったな。話す者などいないと。しかし、お前が身に着けているものは、おいそれとは買えない上等品だ。それなりの家の者であるお前が、いつまでもこんなところにいるんじゃない。幼いが、お前はずいぶんと賢いようだ。こんな場所にいるほかはない、私たちが持つ事情を察してくれ。さあ、もう帰れ」
「幼いって言うけれど、いくつだと、思ってるの?僕、春が来たら、十四歳になる、はず」
「は?」
鉄仮面のように表情を動かさなかった男の顏に、怪訝 と驚愕の色が浮かんだ。
「十四だとっ?!……そうか、すまない。十にまだなっていないのかと。ん?僕っ?!……男児だったのか……」
「うん」
年齢より幼く見られることにも、女児に間違われることにも慣れている。
小柄で細く、声も高い。
しかも、家令や使用人たちによると、この顔は母に似ているという。
――父君様を騙 した、忌々しい虫に瓜二つだ。資産にたかってきた虫けらに――
自分を見下ろす家令の言葉や目つきを思い出せば、胸がキュゥと締めつけられるようだ。
「僕はね、資産家の隠し子、なんだって。父上は、滅多にいらっしゃらないし、使用人たちも、僕に興味はない。屋敷は無理だけど、奥庭に、僕だけが使う、作業小屋が、あるんだ」
「そこにだって使用人は来るだろう」
「来ない。畑があって、いろんなワナが、作ってあって、ね。引っかかった使用人が、酷い怪我をしてからは、誰も」
少年の言葉を黙って聞いていた男が、しばらくの沈黙ののち、ひとつため息をついた。
「世話になるからには名を聞こう。何と呼べばいい?」
「レヴィア」
「良い名だな。この国の神一族、泉の神の名をもらったのか」
「あなたは、トーラの人、なの?」
ぼさぼさの前髪からのぞいている、レヴィアの黒い瞳が大きく見開かれる。
古い神話のなかでわずかに語られるだけの神の名を、ディアムド語を話すこの男が知っているとは思わなかった。
――端 くれ神の名などつけられて。よっぽど要 らぬ子だ――
まだ母が生きていたころ、年配の使用人から聞こえよがしに言われたこともあるのに。
そのとき、「端 くれ」の意味はわからなかったけれど。
その顔に浮かぶ、小馬鹿にした冷笑で充分だった。
「いや、大陸中央の出身だ。私の名はジーグ。レヴィア、ありがとう。身を寄せさせてもらおう」
深く首 を垂れてから、ジーグが顔を上げれば。
そこにはモジモジとした様子でいながら、嬉しそうに微笑むレヴィアがいた。
マジリモノ
めっ!」息を切らしながら、木々の間を駆け抜ける。
荒い呼吸をするたび、芽吹き始めた森の香りが胸に染込んでいくようだ。
走る。まだ走る。
憎々しげに
「……ふぅ」
太い木の幹に身を隠すようにしてもたれれば、耳に届くのは鳥の声と、風が木々の間を通り抜けていく音だけ。
(今日は、結構しつこかった)
荒い息を整えながら、汗で額に張り付いたボサボサの真っ黒な前髪を片手でなで上げる。
明瞭になった視界で辺りを見回すと、
今のうちに、何か食べられるものを
ここで
調達しないといけない。(食糧庫、忍び込めなかったな……。今からじゃ、狩りはムリだし)
目を落とすと、そこにあるのは北に位置するこの国では珍しい、母譲りの褐色を帯びた手。
不安な気持ちで小さな手を握りしめれば、母の笑顔がよみがえってくる。
五つになる前に死んでしまったから、それはとても
(山菜はまだ早いから……。ワナに魚がかかってるといいけれど)
ひとつため息をついてから、水の音がするほうへと歩きだす。
薄暗い森から川岸を見下ろす崖の上に出たとき、
「……わぁ」
顔を上げれば、悠々と空を渡っている、一羽の
威厳あるその姿は、自由に世界を渡る翼を持つ、空の王のようだ。
(……なんてステキなんだろう)
みるみる小さくなって、
もう一度だけ姿を見たいという願いが消えず、しばらくその場から足が動かなかった。
(……あ、いけない)
首に痛みを感じて気づけば、空がだいぶ暗い。
早くしないと、川にしかけたワナを確認するどころではなくなってしまう。
木の枝につかまりながら斜面をおりようとして、目の
(動物?……じゃない)
目を
慎重に斜面を下って、河原に転がる大きな岩の上に飛び乗った。
そして、
(男の人?)
わずかに差し込む光が、
(あれは……、手かな?)
男の背の
「っ!」
洞のなかにいる男が、
寸分の
「死んじゃった、の?」
剣の切っ先はこちらに向けられていたが、男のとても、とても悲しそうなその目に疑問をそのまま口にする。
「※※※※※※」
返された響きは大陸共用語であるディアムド語らしいが、意味まではわからなかった。
「ゴメ、ナサイ。ディアムド、ナイ」
「ここはトーラ国だったな。……死んではいない」
「そう、なの」
剣は離さないまま、
男の顔には汚れが目立ち、乱れた栗色の髪が額に張り付いている。
身にまとう黒い装束はあちこち破け、お世辞にもきれいとは言いがたい姿だが、話す声には深い知性がうかがえた。
「だが、あまりよくもない」
「ケガ、してるの?病気?
「いらない?」
「……」
男の目に浮かんだ迷いに、岩を滑り降りて
そして、必要以上に近づかないように、
「無防備だな。攻撃されるとは思わないのか」
剣の切っ先を向けたまま、男はすっと目を細める。
「思わない。だって、何かを、守ってる、でしょ。
「私は人間だ。動物とは違う。欲に駆られてお前からすべてを奪い、口を封じるために殺すかもしれない」
「殺してまで、奪われるもの、持ってない。薬も、今はこれだけ。全部、あげる。封じるほどの、口もない。話す人なんて、いない」
「……」
表情も変えずに、男はただ目の前にいる子供をじっと観察し続けた。
前髪は目を覆い隠すほど伸び、上着と下衣は体に合うように手直しした跡がある。
体に合わない大きな革製の靴は、どうやら詰め物をして
頭のてっぺんから足の先まで視線を巡らせたのち、男の首がわずかに傾いた。
「ならば、その薬はどうした」
「自分で、作った。植物油と、
「自作したのか。……ならば、ありがたくもらっておこう。しかし、今は何の礼も返せないのだが」
「持っている者が持ってない者と分け合うことは当たり前だって、母さまが、言ってた」
「その肌、母親は南方の出身か?『持つ者は持たざる者と分け合うべし』という格言を持つ文化は、アガラム砂漠周辺の国だろう」
「知らない。母さまのことは、よく覚えていない。聞ける人も、いない」
「それは……、※※※※※?!」
「……※※……」
かすれ声のディアムド語を聞いた男は大剣を投げ置き、身に下げていた容器を傾ける。
だが、そこからは何も出てはこなかった。
「水って、言った?水筒、空なの?汲んでくる、よ」
小さな手を伸ばすと、男はためらいながらも容器を渡してくる。
「……すまない。感謝する」
「ちょっと、待ってて」
駆け出した小さな背中に、男は深く頭を下げた。
たっぷりの水で満たした水筒を渡してそのまま見ていると、男の
血が
「ここは、夜、冷えるよ?」
「わかっている」
「火は、おこさない、の?」
「ああ」
「なら、ほかの場所……」
「いや」
だが、なぜか諦める気持ちになれなかった。
その理由は自分にもわからないけれど、去りがたい思いに足は動かない。
「封じる口はないと言ったな。話す者などいないと。しかし、お前が身に着けているものは、おいそれとは買えない上等品だ。それなりの家の者であるお前が、いつまでもこんなところにいるんじゃない。幼いが、お前はずいぶんと賢いようだ。こんな場所にいるほかはない、私たちが持つ事情を察してくれ。さあ、もう帰れ」
「幼いって言うけれど、いくつだと、思ってるの?僕、春が来たら、十四歳になる、はず」
「は?」
鉄仮面のように表情を動かさなかった男の顏に、
「十四だとっ?!……そうか、すまない。十にまだなっていないのかと。ん?僕っ?!……男児だったのか……」
「うん」
年齢より幼く見られることにも、女児に間違われることにも慣れている。
小柄で細く、声も高い。
しかも、家令や使用人たちによると、この顔は母に似ているという。
――父君様を
自分を見下ろす家令の言葉や目つきを思い出せば、胸がキュゥと締めつけられるようだ。
「僕はね、資産家の隠し子、なんだって。父上は、滅多にいらっしゃらないし、使用人たちも、僕に興味はない。屋敷は無理だけど、奥庭に、僕だけが使う、作業小屋が、あるんだ」
「そこにだって使用人は来るだろう」
「来ない。畑があって、いろんなワナが、作ってあって、ね。引っかかった使用人が、酷い怪我をしてからは、誰も」
少年の言葉を黙って聞いていた男が、しばらくの沈黙ののち、ひとつため息をついた。
「世話になるからには名を聞こう。何と呼べばいい?」
「レヴィア」
「良い名だな。この国の神一族、泉の神の名をもらったのか」
「あなたは、トーラの人、なの?」
ぼさぼさの前髪からのぞいている、レヴィアの黒い瞳が大きく見開かれる。
古い神話のなかでわずかに語られるだけの神の名を、ディアムド語を話すこの男が知っているとは思わなかった。
――
まだ母が生きていたころ、年配の使用人から聞こえよがしに言われたこともあるのに。
そのとき、「
その顔に浮かぶ、小馬鹿にした冷笑で充分だった。
「いや、大陸中央の出身だ。私の名はジーグ。レヴィア、ありがとう。身を寄せさせてもらおう」
深く
そこにはモジモジとした様子でいながら、嬉しそうに微笑むレヴィアがいた。