たのしいということ
文字数 3,347文字
「レヴィアほどの腕を持った医薬師には会ったことがない。本当に、感謝する」
「薬、効いてよかった。山猫にしか、使ったことなかったから。体重に合わせて計算するの、ちょっとドキドキした」
「レヴィア、学校には行っていないんだよな?お前に読み書きや計算を教えたのは、家庭教師か?」
「ううん、園丁、だよ。家庭教師は殴るから、逃げ……。なんでもない」
「……」
黙り込んだレヴィアに、ジーグもそれ以上は問おうとはしなかった。
(この立派な小屋を建てたことといい、ただの園丁にしては……。しかし、家庭教師が殴るとはどういうことだ)
レヴィアの置かれた状況を案じながら、驚かせないようにそっと。
ジーグは小さな頭に大きな手を置いた。
◇
畑の資材置き場を整地したこじんまりとした広場に、夏を告げる風が心地よく吹き抜けていく。
「よし、基本からやるぞ。ダメ教師に言われたことなんか、一切忘れろ」
抜糸も済んで、順調に回復したアルテミシアがニヤリと笑う。
約束どおりに始まったアルテミシアの
何しろ容赦がない。
無茶な要求はしないが、できそうだと彼女が判断すれば、諦めることなど許されなかった。
だが、
鬼教官の顔が嘘だったかのように、レヴィアを甘やかしてくるアルテミシアだ。
「最初からできる人間などいないぞ」
落ち込む様子を少しでも見せれば、アルテミシアは必ずレヴィアの頭をなでてくれた。
「レヴィならできる。昨日よりもずっといい。例えば……」
的確な指導をしつつ、レヴィアの
それはとても嬉しいのに、同時に悔しくもあって。
レヴィアはいつも、筋肉痛と複雑な思いに悩まされていた。
夏が盛りになっていくにつれて、アルテミシアの表情はますます明るくなっていった。
どこか儚げな笑顔を浮かべることもなくなり、熱心にレヴィアの鍛錬につき合ってくれた。
……というよりも、暇があればつまみ出されて、鍛錬
させられる
、のほうが正確かもしれないが。「ほら、もっと踏み込め!」
まるで体の一部のように扱う短剣も彼女のもので、アルテミシアは本来二刀流なのだという。
ほんの少し目尻の上がった若草色の瞳がきらきらと輝き、その姿は身の軽い猫のようだ。
「……参り、ました」
動きを封じられて、思わず尻もちをついたレヴィアは、荒い息をつきながら降参を伝える。
「ずいぶんと上達したな」
手を差し出しレヴィアを引き起こしながら、アルテミシアが笑う。
「よい手合わせだった。楽しいな!」
「……たのしい?……面倒じゃ、ない?」
「面倒?なぜ。レヴィは筋がいい。久しぶりに本気で剣を合わせた。本当に楽しい」
(たのしい。……楽しい)
大輪の花が開くような笑顔から目を離すこともできないまま。
レヴィアはアルテミシアの言葉を何度も胸に繰り返した。
「……うん、楽しい。僕も」
戸惑いながらも微笑むレヴィアの頭に、審判役をしていたジーグの手がそっと乗せられる。
「背も伸びたな。近々リズィエを追い抜かしそうだ」
「筋力もついただろう」
「これだけリズィエが振り回していれば、それは」
「文句があるのか」
「私にはありません」
むっとしたアルテミシアがレヴィアに向き直った。
「私は無茶を言っているか?正直に言っていいんだぞ」
「ないよ!……あるわけない、よ」
レヴィアは慌てて手を振って、伸ばした腕にはっとなる。
そこには
家庭教師から逃げ回った森で眺めた、あのときの細い手首は今や影もない。
「髪も伸びたな」
手合せをするときに
「整えてやりたいが……」
「大丈夫、ありがとう。……そろそろ、行くね」
小さく笑い返したレヴィアだが、その顔はすぐに伏せられてしまった。
――これ以上、逃げ隠れするならば考えがあります――
備品庫に忍び込んだときに、壁に貼ってあったのは家令からの最後通牒。
無理やり探されれば、アルテミシアたちが見つかってしまうかもしれない。
家令の”考え”に恐れをなしたレヴィアは、家庭教師が来る時間だけは、屋敷に戻ることにした。
今のところ、授業が終われば、逃げることに成功しているけれど。
捕獲のための使用人も増えているようで、レヴィアは憂鬱でならない。
元気なく畑をあとにするレヴィアを見送りながら、アルテミシアは声を落とした。
「”今日の授業は、ディアムド語だと言っていたわね。隠し子だというのに、ずいぶん教育熱心だこと、ここの当主は。……ねえ、ジーグ”」
上品なディアムド語で、アルテミシアは続ける。
「”トーラは異国の民に対して、こうまで
「”そう、ですね”」
レヴィアが無事に逃げられるように、影で使用人たちを追い払ってきたジーグが、表情を険しくした。
「”この国が他国と盛んに親交を持ち始めたのは、ここ十数年のことです。特に、最近になって休戦が結ばれた、南西の隣国スバクルとは長年の
「”……そう。それにしても、ご当主の考えがわからないわ。教育などの
「”当主がどのような立場の人間なのか、わからないことにはなんとも。しかし、単なる偏見で済ませる範囲を超えています”」
ジーグの目に静かな怒りが浮かぶ。
「”この間など、うっかりぶつかった振りを装って、調理してすぐの油を浴びせていました。……あの料理人は、
「”なんてこと……!レヴィアは
「”
「”レヴィアは何も言わなかったわね……。我慢強いのにもほどがあるわ”」
「”我慢、ではなく、それがレヴィアの
日常
なのです。……それ以外を知らないのです”」アルテミシアの
「”その
「”その調理だけは、賛成いたします”」
「”目玉もつぶさなければならないし、忙しくなるわね。それで、レヴィアがあれほど人の手を怖がっていた原因は?やはり使用人たち?”」
「”いえ。見ている限り、さすがに使用人が、レヴィアに暴力を振るっている様子はありませんでした。しかし、あの防御反応は……”」
ジーグが意味深なまなざしをアルテミシアに送る。
「”レヴィアは家令の気配のする場所には、なるべく近寄らないようにしているようです”」
「”現場は見た?”」
「”残念ながら”」
「”ジーグの目すら欺くような人物なの?”」
「”あの家令は、ただの使用人ではないような気がいたします”」
「”お前がそう言うのなら、そうなんでしょう。引き続き、もう少し調べてもらえる?”」
「"
ジーグが
ザザァ!
強い風が畑を囲む木々を揺らし、生い茂る葉の
トーラの夏特有の乾いた風に、アルテミシアの
「”夏なのに、風がさらさらしている。ここはアマルドとは違うのね。ねえ、ジグワルド。私は生き延びたわ。でも、あまりにも多くのものを失ってしまった”」
「ジグワルド」と呼びかけられたジーグは姿勢を正すと、ゆっくりと片膝をついて
「”失った私が、持っていないレヴィアに命をつないでもらった。この縁を得て、これからどうしたらいいのかしら”」
澄んだ空の色を溶け込ませた瞳で、アルテミシアは風を追う。
主従ふたりは無言のまま、しばらくその場に留まり続けた。