たのしいということ

文字数 3,347文字

 芥子(ケシ)粉末を酒精に溶かした薬の効果で、まだ眠りから覚めないアルテミシアを見守りながら、ジーグは深々とレヴィアに頭を下げた。
「レヴィアほどの腕を持った医薬師には会ったことがない。本当に、感謝する」
 (すみ)やかに、細やかに縫合(ほうごう)するレヴィアの手技を思い返して、ジーグは改めて感嘆のため息をつく。
「薬、効いてよかった。山猫にしか、使ったことなかったから。体重に合わせて計算するの、ちょっとドキドキした」
「レヴィア、学校には行っていないんだよな?お前に読み書きや計算を教えたのは、家庭教師か?」
「ううん、園丁、だよ。家庭教師は殴るから、逃げ……。なんでもない」
「……」
 黙り込んだレヴィアに、ジーグもそれ以上は問おうとはしなかった。

(この立派な小屋を建てたことといい、ただの園丁にしては……。しかし、家庭教師が殴るとはどういうことだ)

 レヴィアの置かれた状況を案じながら、驚かせないようにそっと。
 ジーグは小さな頭に大きな手を置いた。


 畑の資材置き場を整地したこじんまりとした広場に、夏を告げる風が心地よく吹き抜けていく。
「よし、基本からやるぞ。ダメ教師に言われたことなんか、一切忘れろ」
 抜糸も済んで、順調に回復したアルテミシアがニヤリと笑う。
 
 約束どおりに始まったアルテミシアの稽古(けいこ)だが、それはレヴィアが想像していたものとは違っていた。
 何しろ容赦がない。
 無茶な要求はしないが、できそうだと彼女が判断すれば、諦めることなど許されなかった。
 だが、稽古(けいこ)が終われば一転。
 鬼教官の顔が嘘だったかのように、レヴィアを甘やかしてくるアルテミシアだ。

「最初からできる人間などいないぞ」
 落ち込む様子を少しでも見せれば、アルテミシアは必ずレヴィアの頭をなでてくれた。
「レヴィならできる。昨日よりもずっといい。例えば……」
 的確な指導をしつつ、レヴィアの(ほほ)を猫を可愛がるようにくすぐってくる。
 それはとても嬉しいのに、同時に悔しくもあって。
 レヴィアはいつも、筋肉痛と複雑な思いに悩まされていた。

 夏が盛りになっていくにつれて、アルテミシアの表情はますます明るくなっていった。
 どこか儚げな笑顔を浮かべることもなくなり、熱心にレヴィアの鍛錬につき合ってくれた。
 ……というよりも、暇があればつまみ出されて、鍛錬

、のほうが正確かもしれないが。

「ほら、もっと踏み込め!」
 まるで体の一部のように扱う短剣も彼女のもので、アルテミシアは本来二刀流なのだという。
 ほんの少し目尻の上がった若草色の瞳がきらきらと輝き、その姿は身の軽い猫のようだ。
「……参り、ました」
 動きを封じられて、思わず尻もちをついたレヴィアは、荒い息をつきながら降参を伝える。
「ずいぶんと上達したな」
 手を差し出しレヴィアを引き起こしながら、アルテミシアが笑う。
「よい手合わせだった。楽しいな!」
「……たのしい?……面倒じゃ、ない?」
「面倒?なぜ。レヴィは筋がいい。久しぶりに本気で剣を合わせた。本当に楽しい」

(たのしい。……楽しい)

 大輪の花が開くような笑顔から目を離すこともできないまま。
 レヴィアはアルテミシアの言葉を何度も胸に繰り返した。
「……うん、楽しい。僕も」
 戸惑いながらも微笑むレヴィアの頭に、審判役をしていたジーグの手がそっと乗せられる。
「背も伸びたな。近々リズィエを追い抜かしそうだ」
「筋力もついただろう」
「これだけリズィエが振り回していれば、それは」
「文句があるのか」
「私にはありません」
 むっとしたアルテミシアがレヴィアに向き直った。
「私は無茶を言っているか?正直に言っていいんだぞ」
「ないよ!……あるわけない、よ」
 レヴィアは慌てて手を振って、伸ばした腕にはっとなる。
 そこには(きた)えられて、しっかりと筋肉がついた腕があった。
 家庭教師から逃げ回った森で眺めた、あのときの細い手首は今や影もない。
「髪も伸びたな」
 手合せをするときに(かぶ)っていた布をジーグが取ると、漆黒の前髪が、レヴィアの顔を半分ほども覆い隠してしまう。
「整えてやりたいが……」
「大丈夫、ありがとう。……そろそろ、行くね」
 小さく笑い返したレヴィアだが、その顔はすぐに伏せられてしまった。

――これ以上、逃げ隠れするならば考えがあります――
 備品庫に忍び込んだときに、壁に貼ってあったのは家令からの最後通牒。
 無理やり探されれば、アルテミシアたちが見つかってしまうかもしれない。
 家令の”考え”に恐れをなしたレヴィアは、家庭教師が来る時間だけは、屋敷に戻ることにした。
 今のところ、授業が終われば、逃げることに成功しているけれど。
 捕獲のための使用人も増えているようで、レヴィアは憂鬱でならない。

 元気なく畑をあとにするレヴィアを見送りながら、アルテミシアは声を落とした。
「”今日の授業は、ディアムド語だと言っていたわね。隠し子だというのに、ずいぶん教育熱心だこと、ここの当主は。……ねえ、ジーグ”」
 上品なディアムド語で、アルテミシアは続ける。
「”トーラは異国の民に対して、こうまで偏狭(へんきょう)な考えを残す国なの?レヴィアを追い詰める使用人の罵詈雑言は、聞き捨てならないわ”」
「”そう、ですね”」
 レヴィアが無事に逃げられるように、影で使用人たちを追い払ってきたジーグが、表情を険しくした。
「”この国が他国と盛んに親交を持ち始めたのは、ここ十数年のことです。特に、最近になって休戦が結ばれた、南西の隣国スバクルとは長年の軋轢(あつれき)があり、南方諸国に対する偏見、排斥感がいまだ根強いのでしょう”」
「”……そう。それにしても、ご当主の考えがわからないわ。教育などの体裁(ていさい)は整えているようだけれど、レヴィアの置かれている境遇はとても厳しい。大切にしたいのか、(ないがしろ)にしたいのか”」
「”当主がどのような立場の人間なのか、わからないことにはなんとも。しかし、単なる偏見で済ませる範囲を超えています”」
 ジーグの目に静かな怒りが浮かぶ。
「”この間など、うっかりぶつかった振りを装って、調理してすぐの油を浴びせていました。……あの料理人は、芒果(マンゴー)のときと同じ(やから)と推察します”」
「”なんてこと……!レヴィアは火傷(やけど)をしたのではなくて?”」
「”(かろ)うじてかわしていたので、肩と腕の一部に浴びただけで済みました。すぐに冷水を浴び、油薬を塗っていたようです”」
「”レヴィアは何も言わなかったわね……。我慢強いのにもほどがあるわ”」
「”我慢、ではなく、それがレヴィアの

なのです。……それ以外を知らないのです”」
 アルテミシアの柳眉(りゅうび)が逆立った。
「”その(やから)、直接会う機会があれば、私が調理するわ”」
「”その調理だけは、賛成いたします”」
「”目玉もつぶさなければならないし、忙しくなるわね。それで、レヴィアがあれほど人の手を怖がっていた原因は?やはり使用人たち?”」
「”いえ。見ている限り、さすがに使用人が、レヴィアに暴力を振るっている様子はありませんでした。しかし、あの防御反応は……”」
 ジーグが意味深なまなざしをアルテミシアに送る。
「”レヴィアは家令の気配のする場所には、なるべく近寄らないようにしているようです”」
「”現場は見た?”」
「”残念ながら”」
「”ジーグの目すら欺くような人物なの?”」
「”あの家令は、ただの使用人ではないような気がいたします”」
「”お前がそう言うのなら、そうなんでしょう。引き続き、もう少し調べてもらえる?”」
「"(かしこ)まりました”」
 ジーグが(うやうや)しく一礼をした。

 ザザァ!

 強い風が畑を囲む木々を揺らし、生い茂る葉の風鳴(かざな)りが辺りを包む。
 トーラの夏特有の乾いた風に、アルテミシアの(あか)い髪が空に舞い上がった。
「”夏なのに、風がさらさらしている。ここはアマルドとは違うのね。ねえ、ジグワルド。私は生き延びたわ。でも、あまりにも多くのものを失ってしまった”」
 「ジグワルド」と呼びかけられたジーグは姿勢を正すと、ゆっくりと片膝をついて(こうべ)を垂れる。
「”失った私が、持っていないレヴィアに命をつないでもらった。この縁を得て、これからどうしたらいいのかしら”」
 澄んだ空の色を溶け込ませた瞳で、アルテミシアは風を追う。
 
 主従ふたりは無言のまま、しばらくその場に留まり続けた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み