愛しいあなたへ
文字数 3,234文字
マハディ大公の滞在のために、スバクル領主国側は最高級の宿を用意したが、大公はその宿を一目見ることもなかった。
「孫の顔が見られる場所で過ごしたいのだ。せっかくの用意を無駄にすると思えば、心苦しいばかりだが……」
白長衣の袖で目頭を押さえるマハディに、出迎えたラシオンは目を見張る。
「やっと会えるようになった、愛娘の忘れ形見なのだ」
「大公……」
(さすがの”風雲猛虎”もお年か)
国境戦での勇姿が嘘だったかのようなその姿に、ラシオンの胸が詰まった。
「では、療養所の一室を整えましょう。まだ開所前で、落ち着かないとは思いますが」
「感謝する」
肩を震わせるマハディを見て、絆 されていたラシオンだが。
「では、私もそうしてもらおうか。あの療養所建設には、トーラの技術者も協力したことだし」
「ヴァーリ陛下!」
背後からポンと肩を叩かれて、ラシオンはぎょっとして振り返る。
「ですが、」
「大公の望みは聞いたのに、つれないではないか」
「しかし、一国の王をもてなすのに、さすがに療養所では」
「後ろ」
「はい?」
ヴァーリの目配せに、そっと首を戻せばそこには。
「!」
してやったりと笑うマハディがいる。
(まさか、ウソ泣き?!)
「平気で芝居を打つ虎だからな。監視役が必要だろう」
「ふん、鷹ごときが何を言うか」
(……離しておいたほうが、いい気がすっけど)
ラシオンの心配をよそに、二国の豪傑たちは、隣り合う部屋に滞在することに決まった。
◇
「マウラ・サイーダは”魂の岸辺”でリーラに会ったと、そう言っていたそうだな」
高級宿のように整えられた一室で、マハディとヴァーリは隣り合う椅子 に腰かけている。
「そう、聞いております」
吐息のようなヴァーリの返事に、唸 るようなため息をつきながら、マハディは天井を仰ぎ見た。
「しかも二度もか。良くないな。若い娘が、なんということだ」
生者が「魂の岸辺」で巫女に会うことが、いかに危険で、また不憫 なことか。
「それほどつらいのか……」
白眉 が切なげに寄せられ、虎の目が静かに閉じられた。
部屋の扉が小さな音を立てる。
「入りなさい」
マハディが許可を出すと、白のアガラム衣装を着たアルテミシアが、スライに導かれて部屋に入ってきた。
紅い巻毛を緩く編んで背中に垂らした、その優美な姿を見た鷹と虎は、同時に息を飲む。
アルテミシアはふたりの前に進み出ると片膝をつき、手のひらを上に向けて両腕を伸ばした。
「”たいせつな、おとうさま”」
春告げ鳥が紡ぎ出した、片言 のアガラム語を聞いた瞬間、マハディの瞳が潤む。
「”ハリディ・ヴァーリ”」
たどたどしく呼ばれた冷徹の鷹が、震える息を吸い込み、そのまま息を止めた。
「なんだ、お前は”ハリディ ”などと呼ばれていたのか」
大粒の涙をあふれさせながら、マハディはヴァーリをからかう。
「そうですよ。うらやましいでしょう」
いつもどおりのやり取りをしながら、ふたりには痛いほど伝わっていた。
アルテミシアは確かに、リーラから託されたのだと。
片膝をつき、両手を捧げるのは巫女 の誓いの仕草。
その手はテムラン家に代々伝わる、祈りの印 を結んでいた。
覚束 ないアガラム語で、それでも春告げ鳥は懸命に、ふたりに語りかける。
「”もう一度おふたりに会うために、クレーネを守るために、わたくしは戦いました。わたくしの宝物たちのために。けれど、戻ることは叶わず、おふたりには悔いと涙を残してしまった。ですが、わたくしは幸せでした。ともにいられた時間は短かったけれど、愛に満ちた生涯でした。おとうさまに、心からの感謝を”」
マハディは目頭を押さえながら、今や滂沱 の涙を流していた。
その肩が震え、唇からは嗚咽 が漏れている。
アルテミシアは腕を下げ、スライを振り返ってトーラ語に戻した。
「合ってる?」
「大変立派でいらっしゃいますよ」
涙声で励まされたアルテミシアは嬉しそうにうなずき、ヴァーリに膝行 して近づくと、その手を取る。
「”ハリディ、あなたは約束したのに、天灯 を上げてくれないのね。きっとわたくしにもうしわけないなどと、おばかさんなことを考えているのではないのかしら”」
アルテミシアの手を握り返したヴァーリの瞳には、アルテミシアの後ろで微笑む、麗 しい人の姿が見えていた。
「”手紙にも記したでしょう?わたくしは幸せだったわ。たとえ幾たび生 を繰り返そうとも、それが同じように短く、悲しい別れが待っていたとしても”」
アルテミシアの唇がヴァーリの手に捧げられる。
「”わたくしの魂は、あなたを選びます。恋情も愛情も。わたくしのすべての心は、あなたとともに”」
「”ハリディ・リーラ”」
両手でアルテミシアの手を握りしめ、その瞳の奥にいる愛しい人に向かって、ヴァーリが語りかける。
「”あなたの喪失があまりにもつらく、忙しさを口実に、今まで天灯 を上げることができずにいた。あなたが慈 しんでくれたクローヴァも、私たちの至宝クレーネも手元に取り戻せずにいたから。許しておくれ”」
柔らかく穏やかなアガラム語が自責を紡いだ。
「”あなたの最後の手紙を読み返すたび、あなたを幸せにできなかったことばかりが、胸を苛 んだ。私に出会いさえしなければ、あなたは”」
「妃殿、いえ、お母さまのおっしゃったとおりですね」
「お母、さま……?」
「そうお呼びしないと怒られるのです。”テムランの娘なのに、なんですか“って。”お姉さまと呼んでくれてもよいのよ”とも、おっしゃるのですが」
子猫が困っているような目をするアルテミシアに、ヴァーリは思わず口元を緩める。
「ははっ、言いそうだな」
ヴァーリの頬に堪 え切れなかった涙が一筋流れた。
「お母さまはおっしゃいました。”ヴァーリは意外に思い悩んで、引きずるたちなのよ。「冷徹の鷹」なんて嘘ばっかり。本当はきかん坊で、でも、思慮深くて。それで、少し甘えん坊なの”」
マハディが泣きながら忍び笑いを漏らし、スライのすすり泣きが大きくなっていく。
照れた顔をうつむけるヴァーリの手を、アルテミシアが優しくなでた。
「”きっと自分に出会ったことが、わたくしの不幸だ、などと言いだすわ。そうしたらこうするのよ”」
アルテミシアはヴァーリの鼻先を優しく摘 み、イタズラな瞳でヴァーリを見上げる。
「”この分からず屋!”」
ほろりほろりと涙をこぼす、そのヴァーリの唇が震えた。
「”トーラに戻ったら天灯 を上げよう。変わらぬ想いを届けよう”」
「そうしてください。お母さまはずっとお待ちになっていらっしゃいます。それからもうひとつ……」
ヴァーリが穏やかな尋ね顔をアルテミシアに向ける。
「”小さなかみさまとわたくしのたからもの。そして、あなたのおともだちの忘れがたみ。レーンヴェストの未来である三人を、どうか見守り、手を引いてあげてください。それから……”」
アルテミシアの表情がふっと陰った。
「こうもおっしゃいました」
瞳を伏せて、アルテミシアの声は小さくなる。
「”言いたくなければ、あなたの胸のうちにしまっておいても、かまわないわ。けれど、重すぎて、ひとりでは開けられない扉もあるの。そういうときにはね、誰かの手を借りることを、ためらわないで”」
そこに深い葛藤を見たヴァーリは、アルテミシアの手をすくい上げ、両手で力強く包み込んだ。
骨ばった大きな手から、ヴァーリの体温がアルテミシアに移っていく。
「お母さまは……」
言い淀 むアルテミシアに、ヴァーリは励ますような表情でうなずいた。
「リーラの言葉をそのまま、ただ伝えて欲しい」
ヴァーリの心遣いに、アルテミシアは意を決して口を開く。
「”こんなにも星読みの難しい子に会ったことがないわ。人であり人で非 ざる。生と死が同時に並ぶ。世界でありまた無でもある”」
潔く、きっぱりと。
何かを諦めているアルテミシアが謎めいた微笑みを浮かべている。
ヴァーリとマハディは言葉もなく、ただアルテミシアを見つめるばかりだった。
「孫の顔が見られる場所で過ごしたいのだ。せっかくの用意を無駄にすると思えば、心苦しいばかりだが……」
白長衣の袖で目頭を押さえるマハディに、出迎えたラシオンは目を見張る。
「やっと会えるようになった、愛娘の忘れ形見なのだ」
「大公……」
(さすがの”風雲猛虎”もお年か)
国境戦での勇姿が嘘だったかのようなその姿に、ラシオンの胸が詰まった。
「では、療養所の一室を整えましょう。まだ開所前で、落ち着かないとは思いますが」
「感謝する」
肩を震わせるマハディを見て、
「では、私もそうしてもらおうか。あの療養所建設には、トーラの技術者も協力したことだし」
「ヴァーリ陛下!」
背後からポンと肩を叩かれて、ラシオンはぎょっとして振り返る。
「ですが、」
「大公の望みは聞いたのに、つれないではないか」
「しかし、一国の王をもてなすのに、さすがに療養所では」
「後ろ」
「はい?」
ヴァーリの目配せに、そっと首を戻せばそこには。
「!」
してやったりと笑うマハディがいる。
(まさか、ウソ泣き?!)
「平気で芝居を打つ虎だからな。監視役が必要だろう」
「ふん、鷹ごときが何を言うか」
(……離しておいたほうが、いい気がすっけど)
ラシオンの心配をよそに、二国の豪傑たちは、隣り合う部屋に滞在することに決まった。
◇
「マウラ・サイーダは”魂の岸辺”でリーラに会ったと、そう言っていたそうだな」
高級宿のように整えられた一室で、マハディとヴァーリは隣り合う
「そう、聞いております」
吐息のようなヴァーリの返事に、
「しかも二度もか。良くないな。若い娘が、なんということだ」
生者が「魂の岸辺」で巫女に会うことが、いかに危険で、また
「それほどつらいのか……」
部屋の扉が小さな音を立てる。
「入りなさい」
マハディが許可を出すと、白のアガラム衣装を着たアルテミシアが、スライに導かれて部屋に入ってきた。
紅い巻毛を緩く編んで背中に垂らした、その優美な姿を見た鷹と虎は、同時に息を飲む。
アルテミシアはふたりの前に進み出ると片膝をつき、手のひらを上に向けて両腕を伸ばした。
「”たいせつな、おとうさま”」
春告げ鳥が紡ぎ出した、
「”ハリディ・ヴァーリ”」
たどたどしく呼ばれた冷徹の鷹が、震える息を吸い込み、そのまま息を止めた。
「なんだ、お前は”
大粒の涙をあふれさせながら、マハディはヴァーリをからかう。
「そうですよ。うらやましいでしょう」
いつもどおりのやり取りをしながら、ふたりには痛いほど伝わっていた。
アルテミシアは確かに、リーラから託されたのだと。
片膝をつき、両手を捧げるのは
その手はテムラン家に代々伝わる、祈りの
「”もう一度おふたりに会うために、クレーネを守るために、わたくしは戦いました。わたくしの宝物たちのために。けれど、戻ることは叶わず、おふたりには悔いと涙を残してしまった。ですが、わたくしは幸せでした。ともにいられた時間は短かったけれど、愛に満ちた生涯でした。おとうさまに、心からの感謝を”」
マハディは目頭を押さえながら、今や
その肩が震え、唇からは
アルテミシアは腕を下げ、スライを振り返ってトーラ語に戻した。
「合ってる?」
「大変立派でいらっしゃいますよ」
涙声で励まされたアルテミシアは嬉しそうにうなずき、ヴァーリに
「”ハリディ、あなたは約束したのに、
アルテミシアの手を握り返したヴァーリの瞳には、アルテミシアの後ろで微笑む
「”手紙にも記したでしょう?わたくしは幸せだったわ。たとえ幾たび
アルテミシアの唇がヴァーリの手に捧げられる。
「”わたくしの魂は、あなたを選びます。恋情も愛情も。わたくしのすべての心は、あなたとともに”」
「”ハリディ・リーラ”」
両手でアルテミシアの手を握りしめ、その瞳の奥にいる愛しい人に向かって、ヴァーリが語りかける。
「”あなたの喪失があまりにもつらく、忙しさを口実に、今まで
柔らかく穏やかなアガラム語が自責を紡いだ。
「”あなたの最後の手紙を読み返すたび、あなたを幸せにできなかったことばかりが、胸を
「妃殿、いえ、お母さまのおっしゃったとおりですね」
「お母、さま……?」
「そうお呼びしないと怒られるのです。”テムランの娘なのに、なんですか“って。”お姉さまと呼んでくれてもよいのよ”とも、おっしゃるのですが」
子猫が困っているような目をするアルテミシアに、ヴァーリは思わず口元を緩める。
「ははっ、言いそうだな」
ヴァーリの頬に
「お母さまはおっしゃいました。”ヴァーリは意外に思い悩んで、引きずるたちなのよ。「冷徹の鷹」なんて嘘ばっかり。本当はきかん坊で、でも、思慮深くて。それで、少し甘えん坊なの”」
マハディが泣きながら忍び笑いを漏らし、スライのすすり泣きが大きくなっていく。
照れた顔をうつむけるヴァーリの手を、アルテミシアが優しくなでた。
「”きっと自分に出会ったことが、わたくしの不幸だ、などと言いだすわ。そうしたらこうするのよ”」
アルテミシアはヴァーリの鼻先を優しく
「”この分からず屋!”」
ほろりほろりと涙をこぼす、そのヴァーリの唇が震えた。
「”トーラに戻ったら
「そうしてください。お母さまはずっとお待ちになっていらっしゃいます。それからもうひとつ……」
ヴァーリが穏やかな尋ね顔をアルテミシアに向ける。
「”小さなかみさまとわたくしのたからもの。そして、あなたのおともだちの忘れがたみ。レーンヴェストの未来である三人を、どうか見守り、手を引いてあげてください。それから……”」
アルテミシアの表情がふっと陰った。
「こうもおっしゃいました」
瞳を伏せて、アルテミシアの声は小さくなる。
「”言いたくなければ、あなたの胸のうちにしまっておいても、かまわないわ。けれど、重すぎて、ひとりでは開けられない扉もあるの。そういうときにはね、誰かの手を借りることを、ためらわないで”」
そこに深い葛藤を見たヴァーリは、アルテミシアの手をすくい上げ、両手で力強く包み込んだ。
骨ばった大きな手から、ヴァーリの体温がアルテミシアに移っていく。
「お母さまは……」
言い
「リーラの言葉をそのまま、ただ伝えて欲しい」
ヴァーリの心遣いに、アルテミシアは意を決して口を開く。
「”こんなにも星読みの難しい子に会ったことがないわ。人であり人で
潔く、きっぱりと。
何かを諦めているアルテミシアが謎めいた微笑みを浮かべている。
ヴァーリとマハディは言葉もなく、ただアルテミシアを見つめるばかりだった。