愛しいあなたへ

文字数 3,234文字

 マハディ大公の滞在のために、スバクル領主国側は最高級の宿を用意したが、大公はその宿を一目見ることもなかった。

「孫の顔が見られる場所で過ごしたいのだ。せっかくの用意を無駄にすると思えば、心苦しいばかりだが……」
 白長衣の袖で目頭を押さえるマハディに、出迎えたラシオンは目を見張る。
「やっと会えるようになった、愛娘の忘れ形見なのだ」
「大公……」

(さすがの”風雲猛虎”もお年か)

 国境戦での勇姿が嘘だったかのようなその姿に、ラシオンの胸が詰まった。
「では、療養所の一室を整えましょう。まだ開所前で、落ち着かないとは思いますが」
「感謝する」
 肩を震わせるマハディを見て、(ほだ)されていたラシオンだが。
「では、私もそうしてもらおうか。あの療養所建設には、トーラの技術者も協力したことだし」
「ヴァーリ陛下!」
 背後からポンと肩を叩かれて、ラシオンはぎょっとして振り返る。
「ですが、」
「大公の望みは聞いたのに、つれないではないか」
「しかし、一国の王をもてなすのに、さすがに療養所では」
「後ろ」
「はい?」
 ヴァーリの目配せに、そっと首を戻せばそこには。
「!」
 してやったりと笑うマハディがいる。

(まさか、ウソ泣き?!)

「平気で芝居を打つ虎だからな。監視役が必要だろう」
「ふん、鷹ごときが何を言うか」

(……離しておいたほうが、いい気がすっけど)

 ラシオンの心配をよそに、二国の豪傑たちは、隣り合う部屋に滞在することに決まった。


「マウラ・サイーダは”魂の岸辺”でリーラに会ったと、そう言っていたそうだな」
 高級宿のように整えられた一室で、マハディとヴァーリは隣り合う椅子(いす)に腰かけている。
「そう、聞いております」
 吐息のようなヴァーリの返事に、(うな)るようなため息をつきながら、マハディは天井を仰ぎ見た。
「しかも二度もか。良くないな。若い娘が、なんということだ」
 生者が「魂の岸辺」で巫女に会うことが、いかに危険で、また不憫(ふびん)なことか。
「それほどつらいのか……」
 白眉(はくび)が切なげに寄せられ、虎の目が静かに閉じられた。
 
 部屋の扉が小さな音を立てる。
「入りなさい」
 マハディが許可を出すと、白のアガラム衣装を着たアルテミシアが、スライに導かれて部屋に入ってきた。
 紅い巻毛を緩く編んで背中に垂らした、その優美な姿を見た鷹と虎は、同時に息を飲む。
 アルテミシアはふたりの前に進み出ると片膝をつき、手のひらを上に向けて両腕を伸ばした。
「”たいせつな、おとうさま”」
 春告げ鳥が紡ぎ出した、片言(かたこと)のアガラム語を聞いた瞬間、マハディの瞳が潤む。
「”ハリディ・ヴァーリ”」
 たどたどしく呼ばれた冷徹の鷹が、震える息を吸い込み、そのまま息を止めた。
「なんだ、お前は”ハリディ(私の心)”などと呼ばれていたのか」
 大粒の涙をあふれさせながら、マハディはヴァーリをからかう。
「そうですよ。うらやましいでしょう」 
 いつもどおりのやり取りをしながら、ふたりには痛いほど伝わっていた。
 
 アルテミシアは確かに、リーラから託されたのだと。
 片膝をつき、両手を捧げるのは巫女(みこ)の誓いの仕草。
 その手はテムラン家に代々伝わる、祈りの(いん)を結んでいた。
 
 覚束(おぼつか)ないアガラム語で、それでも春告げ鳥は懸命に、ふたりに語りかける。
「”もう一度おふたりに会うために、クレーネを守るために、わたくしは戦いました。わたくしの宝物たちのために。けれど、戻ることは叶わず、おふたりには悔いと涙を残してしまった。ですが、わたくしは幸せでした。ともにいられた時間は短かったけれど、愛に満ちた生涯でした。おとうさまに、心からの感謝を”」
 マハディは目頭を押さえながら、今や滂沱(ぼうだ)の涙を流していた。 
 その肩が震え、唇からは嗚咽(おえつ)が漏れている。
 アルテミシアは腕を下げ、スライを振り返ってトーラ語に戻した。
「合ってる?」
「大変立派でいらっしゃいますよ」
 涙声で励まされたアルテミシアは嬉しそうにうなずき、ヴァーリに膝行(しっこう)して近づくと、その手を取る。
「”ハリディ、あなたは約束したのに、天灯(てんとう)を上げてくれないのね。きっとわたくしにもうしわけないなどと、おばかさんなことを考えているのではないのかしら”」
 アルテミシアの手を握り返したヴァーリの瞳には、アルテミシアの後ろで微笑む、麗(うるわ)しい人の姿が見えていた。
「”手紙にも記したでしょう?わたくしは幸せだったわ。たとえ幾たび(せい)を繰り返そうとも、それが同じように短く、悲しい別れが待っていたとしても”」
 アルテミシアの唇がヴァーリの手に捧げられる。
「”わたくしの魂は、あなたを選びます。恋情も愛情も。わたくしのすべての心は、あなたとともに”」
「”ハリディ・リーラ”」
 両手でアルテミシアの手を握りしめ、その瞳の奥にいる愛しい人に向かって、ヴァーリが語りかける。
「”あなたの喪失があまりにもつらく、忙しさを口実に、今まで天灯(てんとう)を上げることができずにいた。あなたが(いつく)しんでくれたクローヴァも、私たちの至宝クレーネも手元に取り戻せずにいたから。許しておくれ”」
 柔らかく穏やかなアガラム語が自責を紡いだ。
「”あなたの最後の手紙を読み返すたび、あなたを幸せにできなかったことばかりが、胸を(さいな)んだ。私に出会いさえしなければ、あなたは”」
「妃殿、いえ、お母さまのおっしゃったとおりですね」
「お母、さま……?」
「そうお呼びしないと怒られるのです。”テムランの娘なのに、なんですか“って。”お姉さまと呼んでくれてもよいのよ”とも、おっしゃるのですが」 
 子猫が困っているような目をするアルテミシアに、ヴァーリは思わず口元を緩める。
「ははっ、言いそうだな」
 ヴァーリの頬に(こら)え切れなかった涙が一筋流れた。
「お母さまはおっしゃいました。”ヴァーリは意外に思い悩んで、引きずるたちなのよ。「冷徹の鷹」なんて嘘ばっかり。本当はきかん坊で、でも、思慮深くて。それで、少し甘えん坊なの”」
 マハディが泣きながら忍び笑いを漏らし、スライのすすり泣きが大きくなっていく。
 照れた顔をうつむけるヴァーリの手を、アルテミシアが優しくなでた。
「”きっと自分に出会ったことが、わたくしの不幸だ、などと言いだすわ。そうしたらこうするのよ”」
 アルテミシアはヴァーリの鼻先を優しく(つま)み、イタズラな瞳でヴァーリを見上げる。
「”この分からず屋!”」
 ほろりほろりと涙をこぼす、そのヴァーリの唇が震えた。
「”トーラに戻ったら天灯(てんとう)を上げよう。変わらぬ想いを届けよう”」
「そうしてください。お母さまはずっとお待ちになっていらっしゃいます。それからもうひとつ……」
 ヴァーリが穏やかな尋ね顔をアルテミシアに向ける。
「”小さなかみさまとわたくしのたからもの。そして、あなたのおともだちの忘れがたみ。レーンヴェストの未来である三人を、どうか見守り、手を引いてあげてください。それから……”」
 アルテミシアの表情がふっと陰った。
「こうもおっしゃいました」
 瞳を伏せて、アルテミシアの声は小さくなる。
「”言いたくなければ、あなたの胸のうちにしまっておいても、かまわないわ。けれど、重すぎて、ひとりでは開けられない扉もあるの。そういうときにはね、誰かの手を借りることを、ためらわないで”」
 そこに深い葛藤を見たヴァーリは、アルテミシアの手をすくい上げ、両手で力強く包み込んだ。
 骨ばった大きな手から、ヴァーリの体温がアルテミシアに移っていく。
「お母さまは……」
 言い(よど)むアルテミシアに、ヴァーリは励ますような表情でうなずいた。
「リーラの言葉をそのまま、ただ伝えて欲しい」
 ヴァーリの心遣いに、アルテミシアは意を決して口を開く。
「”こんなにも星読みの難しい子に会ったことがないわ。人であり人で(あら)ざる。生と死が同時に並ぶ。世界でありまた無でもある”」
 潔く、きっぱりと。
 何かを諦めているアルテミシアが謎めいた微笑みを浮かべている。
 
 ヴァーリとマハディは言葉もなく、ただアルテミシアを見つめるばかりだった。
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