愛しいあなたへ

エピソード文字数 2,969文字

 マハディ大公の滞在のために、スバクル側は最高級の宿を用意したが、大公はその宿を見もせずにまっすぐに療養所に足を運んだ。
「孫の働く場所で過ごしたい」
 大公の強い希望は叶えられ、まだ開所していない療養所の一室が大公の滞在場所と決まった。
 もちろん、それはトーラ国王も同様。
 二人は最新設備の整った療養所で、快適で手厚いもてなしを受けていた。

「マウラ・サイーダは、”魂の岸辺”でリーラに会ったと言っていたそうだな」
 滞在場所に利用している療養所の一室で、マハディの低い声がヴァーリに向けられる。
「そう聞いております」
 吐息のような声でヴァーリが返す。
 (うな)るようなため息をつきながら、マハディは天井を仰ぎ見た。
「しかも二度もか。良くないな。若い娘が、何ということだ」
 生者が「魂の岸辺」で巫女に会うことがいかに危険で、また不憫(ふびん)なことか。
「それほど辛いのか…」
 白眉(はくび)が切なげに寄せられ、虎のまなざしが静かに閉じられた。
 
 二人のいる部屋の扉が小さく叩かれる。
「入れ」
 マハディが許可を出すと、白のアガラム衣装を着たアルテミシアがスライに導かれて部屋に入ってきた。
 青の幾何学模様が染め上げらている飾り紐が、広がる袖を止め結んでいる。
 鷹と虎は同時に息を飲んだ。
 アルテミシアは二人の前に進み出ると片膝(かたひざ)をつき、手のひらを上に向けた両腕を二人に伸ばし捧げた。
「たいせつな、おとうさま」
 春告げ鳥が片言のアガラム語を紡ぎ出す。
 聞いた瞬間、マハディの瞳が潤みだした。
「ハリディ・ヴァーリ」
 たどたどしくアルテミシアから呼ばれた冷徹の鷹が震える息を吸い込み、そしてそのまま息を止める。今吐き出してしまったら、()まり始めた涙がこぼれてしまいそうだ。
「なんだ、おまえは“私の心”などと呼ばれていたのか」
 大粒の涙をあふれさせながら、マハディはヴァーリをからかう。
「そうですよ。うらやましいでしょう」 
 いつもどおりのやり取りをしながら、二人には痛いほど伝わっていた。アルテミシアは確かにリーラに託されたのだ。
 片膝(かたひざ)をつき捧げる手は巫女の誓いの仕草。その手はテムラン家に代々伝わる、神への祈りの(いん)を結んでいた。
 覚束(おぼつか)ないアガラム語で、春告げ鳥は懸命に二人に語りかける。
「もう一度お二人に会うために、クレーネを守るために、わたくしは戦いました。わたくしの愛をもって、わたくしの宝物たちのために。けれど戻ることは叶わず、お二人には悔いと涙を残してしまった。ですがわたくしは、本当に幸せでした。ともにいられた時間は短かったけれど、愛に満ちた生涯でした。おとうさまに、心からの感謝を」
 マハディは目頭を押さえながら、今や滂沱(ぼうだ)の涙を流していた。その肩が震え、唇からは嗚咽(おえつ)が漏れている。
 アルテミシアは腕を下げスライを振り返り、トーラ語に戻って尋ねた。
「合ってる?」
「大変立派でいらっしゃいますよ」
 アガラムの忠実な従者から涙声で励まされたアルテミシアは嬉しそうにうなずき、ヴァーリに膝行(しっこう)して近づくと、その手を取った。
「ハリディ、あなたは約束したのに、天灯(てんとう)を上げてくれないのね。きっとわたくしにもうしわけないなどと、おばかさんなことを考えているのではないのかしら」
 アルテミシアの手を握り返すヴァーリの手が震える。その瞳には、アルテミシアの後ろで微笑む、(うるわ)しい人の姿が見えていた。
「手紙にも記したでしょう?わたくしは幸せだったわ。たとえ幾たび(せい)を繰り返そうとも、それが同じように短く、悲しい別れが待っていたとしても」
 アルテミシアの唇がヴァーリの手に捧げられる。
「わたくしの魂は、あなたを選びます。恋情も愛情も。わたくしのすべての心は、あなたとともに」
「ハリディ・リーラ」
 両手でアルテミシアの手を握りしめ、その瞳の奥にいる愛しい人へ、ヴァーリが語りかけた。
「あなたの喪失があまりにも辛く、忙しさを口実に、今まで天灯(てんとう)を上げることができずにいた。あなたが(いつく)しんでくれたクローヴァも、私たちの宝玉クレーネも、手元に取り戻せずにいたから。許しておくれ」
 柔らかく穏やかなアガラム語が自責を紡ぐ。
「あなたの最後の手紙を読み返すたび、あなたを幸せにできなかったことばかりが胸を(さいな)んだ。私に出会いさえしなければ、あなたは」
「妃殿、いえ、お母さまのおっしゃったとおりです」
 涙に潤んだヴァーリの瞳が、驚いた色を浮かべた。
「そうお呼びしないと怒られるのです。”テムランの娘なのに何ですか“って」 
 困っている子猫のような鮮緑の瞳に、ヴァーリが思わず笑顔になる。その(ほほ)(こら)え切れなかった涙が一筋流れた。
「お母さまはおっしゃいました」
 覚えたての言葉を話す幼子のようなアガラム語で、アルテミシアは続ける。
「ヴァーリは意外に思い悩んで引きずるたちなのよ。“冷徹の鷹”なんて嘘ばっかり。本当はきかん坊で、でも思慮深くて、それで少し、甘えん坊なの」
 マハディが泣きながら忍び笑いを漏らし、スライのすすり泣きが大きくなった。
 ヴァーリは照れた顔をうつむける。
「きっと自分に出会ったことが、わたくしの不幸だなどと言いだすわ。そうしたらこうするのよ」
 アルテミシアはヴァーリの鼻先を優しく(つま)み、イタズラそうな笑顔でヴァーリを見上げた。
「この分からず屋!」
 ほろりと涙をこぼしながら、ヴァーリは深く微笑んだ。
「トーラに戻ったら天灯(てんとう)を上げよう。変わらぬ想いを届けよう」
「そうして下さい。お母さまはずっとお待ちになっていらっしゃいます。それからもうひとつ、ご伝言があります」
 ヴァーリが穏やかな尋ね顔を向ける。
「小さなかみさまとわたくしのたからもの。そしてあなたのおともだちの忘れがたみ。レーンヴェストの未来である三人を、どうか見守り、手を引いてあげて下さい。それから…」
 アルテミシアの表情がふっと陰った。
「こうもおっしゃいました」
 瞳を伏せて、アルテミシアの声は小さくなる。
「言いたくなければ、あなたの胸のうちにしまっておいてもかまわないわ。けれど重すぎて、一人では開けられない扉もあるの」
 惑うような鮮緑の瞳が上げられた。
 そこに深い葛藤を見たヴァーリはアルテミシアの手をすくい上げ、両手で力強く包み込んだ。骨ばった大きな手から、ヴァーリの体温がアルテミシアに伝わる。
「お母さまは…」
 言い(よど)むアルテミシアに、ヴァーリは励ますような表情でうなずいた。
「リーラの言葉をそのまま、ただ伝えて欲しい」
 ヴァーリの心遣いに、アルテミシアは意を決して口を開く。
「こんなにも星読みの難しい子に会ったことがないわ。人であり人で(あら)ざる。生と死が同時に並ぶ。世界でありまた無でもある」
 潔く、きっぱりと。何かを諦めているアルテミシアが、謎めいた微笑みを浮かべている。
 ヴァーリとマハディは言葉もなく、ただアルテミシアを見つめるばかりだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み