うれしいということ

文字数 4,447文字

 無表情のレヴィアの前で、黒の衣服を陰気に着込んだ年配の女性が、(むち)を片手に甲高い声を張り上げていた。
 骨に直接皮膚を貼りつけたような顏の中で、口だけが盛んに動いている。
「違います!舌を丸めて!それは正しい発音ではありません!」
 ぴしり、と鋭い音を立て、(むち)が勢いよく机に叩きつけられた。
 その(むち)は、机上に置いたレヴィアの手に打ち下ろされるも多い。
 もちろん手を隠してみたこともあるのだが。さらなる勢いで体を打たれただけだったので、レヴィアは諦めていた。
 
 これでもかというほど(むち)を振るったのち、体中の(ほこり)(はた)き落とすような仕草をしながら部屋を出るディアムド語教師の背中を、レヴィアは息を凝らしながら目の片隅で負う。
 ここでため息など漏らそうものなら、彼女は戻ってきてその態度を責めるに違いない。
 足音が聞こえなくなった。
 遠く、重い金属製の外門を閉める音が聞こえてくる。
 レヴィアは細い息を吐き出しながら立ち上がった。
 家令の気配も屋敷にないようだ。少し、気分を変えてから戻ろう。
 (むち)で打たれた跡もまだ色濃く手に残る。このままだとアルテミシアが心配をするだろう。
 小屋で待つ二人は、わずかな表情の変化も見逃さない。声を掛け、微笑をくれる。
 レヴィアはそれが不思議で申し訳なくて、嬉しかった。
 こんなに嬉しい毎日が続くなんて。
 使用人の目につかないように気を付けながら、レヴィアは多彩な夏花(なつはな)が咲き(ほこ)る庭に()り立つ。
 深呼吸をすると、濃厚な花の香りと喜びが胸に広がっていった。
「いつもああなのか」
 突然、すぐ後ろから低い声を掛けられる。
 レヴィアは文字通り飛び上がって驚いた。
 振り返ると声の(ぬし)は、庭への出入り口と植込みの間に身を紛れ込ませている。街へ行くときと同じ漆黒の装束姿が、影のように周囲に溶け込んでいた。
「ジーグ!?…どうしたの?…見つかるよ?」
 レヴィアは周囲に気を配りながらジーグに近づく。
「使用人は夕刻仕事で忙しい時間だろう。ああ、一人だけ。もう帰り支度(じたく)をしている料理人がいた。この屋敷の(あるじ)は食事をしないからな。あれは雇っている意味があるのか?」
「使用人たちの食事も、必要だから」
「優しいな。お前の役に立たない奴の首は切っていい。それとあの教師も辞めさせろ。あの教え方はありえない」
「…そう?」
「しかも(むち)を使うか」
 唾を吐き捨てる勢いでジーグは顔を(そむ)けた。
「締め上げられた大猪(オオシシ)のような声で、“正しい発音”も何もあるまい」
 辛辣(しんらつ)なジーグの例えに、レヴィアは小さく笑う。
「僕が、怒らせちゃうからね。もともと声の高い人、なんだけど。怒るほど、高くなっていくんだよ。大猪(オオシシ)…。ふふっ。この間、ジーグと捕まえた大猪(オオシシ)は、暴れたね!」
 
 最近のレヴィアは、ジーグと森で狩りをして過ごす時間が増えた。
 獲物の狙い方、弓の扱い方。ジーグはレヴィアに徹底的に教え直した。
 それなりに技術の高かったレヴィアだが、今では百発百中。物陰に隠れている獲物にさえ、わずかな隙間(すきま)を縫って、矢を当てられるほどの腕前だ。

「お前の家庭教師は皆あんなか」
「あんな?」
(あるじ)(あるじ)とも思っていない」
「給金を出しているのは、父上、だから」
「だがお前のために雇っているのだろう。違う教師は選べないのか」
「…選ぶ…?…考えたことも、なかった。手配とか、家令が全部、やってくれているから」
「そうか。手配も、か」
 ジーグは屋敷を振り仰いだ。
「ここの書庫を見せてもらったんだが」
「え!中に入ったの?いつ?」
「まあ、先日な。大したものだった。蔵書の数も種類も。誰が用意した?」
「…わからない。前からあった、と思う」
「ならばお前のためのものだ。レヴィア、雇っている教師は、全員辞めさせよう」
 いきなりのジーグの提案に、レヴィアは目を丸くする。
「あの書庫の本があれば、大抵のことは教えてやれる。あれでリズィエもそこそこ賢い。私たちがお前の師となろう」
(あれで…。そこそこ…)
 レヴィアの表情が柔らかく緩む。
 教師の振舞いを怒ってくれたというのに。
 アルテミシアとジーグの二人の間にある、揺るぎない親愛の情があってこその言葉だろう。
「でも、父上が、お許し下さるかな」
「否を言わせぬ方法はある。お前の父親がここを訪れる予定はわかるか?」
「父上のご予定は、直前にならないと、教えてもらえない。伝書鳩を飛ばせば、来て下さると思うけど」
「伝書鳩?」
 ジーグは怪訝(けげん)な顔をする。
「うん。畑とは違う場所で、世話をしてる。以前父上が、“止むに止まれぬ事情があるときには知らせろ”って、用意して下さったんだ」
「私が街に行って手紙を出すか」
 レヴィアは静かに首を横に振った。
「父上が、どちらにお住まいなのか、知らない」
 何の感情も読めないレヴィアに、ジーグの胸は痛む。
「…そうか。その鳩を飛ばしたことはあるんだな」
「剣の教師を、辞めさせたかったときに、ね」
大猪(オオシシ)の悲鳴を耐えられるお前が辞めさせたいとは、よほどだな」
「殺されそう、だったから」
 レヴィアは無表情に淡々と、物騒な言葉を口にする。
「生きていたかったわけじゃ、ないけど。教えるって言いながら、いたぶられるのは、いくら僕が出来損ない、」
「そんなことを言うなっ!」
 鋭く、激しく。ジーグはレヴィアの言葉を(さえぎ)った。
「誰に言われても、お前は自分のことをそんな風に言うんじゃないっ!」
 琥珀(こはく)の瞳はレヴィアを射抜くようだ。
「お前は出来損ないなんかじゃない」
 ジーグは強く言い切った。
 見つめ返す漆黒の瞳が、大きく見開かれていく。
「お前はこの世界で唯一無二。私たちの大切なレヴィアだ!それに」
 ジーグの瞳に哀切がにじみ出る。
「生きていたいわけじゃない、なんて言うな。薬草を育て調合したのは誰だ?獲物を捕らえ調理をしたのは?治療してくれたのは?そのすべてで、私たちを救ってくれた。お前はかけがえのない命を持つ存在なんだ、レヴィア」
 これまでどんなに侮蔑的(ぶべつてき)な言葉で(ののし)られても、仕方ないと思ってきた。どんな仕打ちも、そのうち終わるとやり過ごしてきた。
 泣いたことなんてなかった。
 なかったのに。
 気がつくと、レヴィアの瞳には大粒の涙がたまっていた。
 じっとジーグを見つめるうちに、とうとう(こら)えきれずに一筋、涙が(ほほ)(あふ)(こぼ)れる。
 ひとたび(こぼ)れ落ちてしまうと後から後から、ほろほろと涙は流れていく。
「救うとか、そんな大げさなこと、してない。もらったもののほうが、多い、よ?それに僕は…、僕は、二人のこと、全然知らない。なのに、何で?大切って…。こんなに、大切って…」
 思うんだろう。何より大切な存在だって。
「人の絆は時間だけでは結ばれない。魂がどれほど触れ合ったかだ」
 涙で(ほほ)を濡らすレヴィアの頭を、ジーグは頑丈な片腕で抱き寄せた。
「お前は十分に自分を知らない。世界を知らない。これから私たちがそれを教えよう。そしてお前はなりたい自分を、望む世界を作っていけばいい」
 深く温かいジーグの声がレヴィアを包む。
「ふっ…。うぅ…」
 人前で声を上げて泣いたのは初めてだった。
 レヴィアの涙が止まるまで、ジーグはその震える肩を腕に抱え続けた。

 涙が乾いてから奥庭の小屋へ戻ると、アルテミシアが小走りになってレヴィアを迎えた。そして何も言わぬまま、レヴィアの両手を柔らかい手のひらで包み込んだ。
 (むち)で打たれた(あと)(さす)ってくれる優しい親指に、レヴィアの目にまた涙がたまる。
 もう泣き尽くしたと思ったのに。自分はこんなに泣き虫だっただろうか。
「よし!今日は私が夕食を作ろう!二人はゆっくり休んでいてくれ」
 下男用の上着の(そで)をまくり上げ、アルテミシアが勢いよく宣言をした。
「アルテミシア様っ!」
 (いさ)んでいるその背中に、慌てた様子でジーグがその名を呼び掛ける。
「人間にはできることとできないこと、やって良いことと悪いことがあります」
「二人が料理するのをずっとそばで見ていたんだ。きっとできる」
 アルテミシアは自信あり気に(こぶし)を握りながら振り返った。
 しかしジーグはアルテミシアの(ひじ)をつかみ、急いで水場から引き離した。
「見ているだけで、できるようにはなりません。そうそうリズィエ。レヴィアのディアムド語は、明日から私たちが面倒をみましょう」
「…そうか。…どうだった?」
 せっかくの意気込みを邪魔されたアルテミシアが少し不満そうに戸口を振り返ると、レヴィアはうつむいたまま、動くことなくその場で突っ立っていた。
 アルテミシアはレヴィアに近づくと、ゆっくりとその手をすくい上げる。そして顔を上げないレヴィアの手を引いて歩き、椅子(いす)に腰掛けさせた。
「どうもこうも。大猪(オオシシ)のような教師でしたよ」
 ジーグの報告に、アルテミシアは呆れ顏で腰に手を当てる。
「おやおや。ずいぶん(たくま)しい教師だったんだな」
「いえいえ、声だけ」
「それではディアムド語教師には向くまい。獣は巻き舌ができないだろう」
真似事(まねごと)はしていましたよ」
真似事(まねごと)では駄目だ。教わるほうが迷惑だ。レヴィがディアムド語を苦手とするのも仕方がないな。教師が(シシ)ではな」
 アルテミシアは大袈裟に両手を横に広げた。
 レヴィアが潤んだ目を上げると、おどけたような微笑みを浮かべるアルテミシアと目が合った。
「…苦手なのは、僕が、逃げていたからだよ」
「倒せない大猪(オオシシ)からは逃げるべきだ」
 まっすぐ注がれる若草色の瞳は、レヴィアのすべてを肯定してくれている。
 その瞳に見つめられていると、レヴィアの心を塞いでいる重石が軽くなっていくようだった。
「そっか。そう、だね。じゃあ、倒せた大猪(オオシシ)は、煮込みにしようか。この間の猪肉(ししにく)、まだ残ってるから」
 腫れぼったい目を(こす)りながらレヴィアが立ち上がる。
「夕飯、用意するね。…ミーシャ先生、ご飯まで、もう少し待っていて下さい」
 レヴィアは懸命に微笑んでみせた。
 だがその目には、(ほほ)には涙の(あと)が残っている。
 そのいじらしい姿に、アルテミシアはもう何の言葉も掛けらない。
 ただそっと伸ばした指で、濡れた(ほほ)を柔らかくなでるばかりだった。
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