うれしいということ
文字数 2,935文字
表情を消したレヴィアの前で、黒い襟高 の衣服を着た痩せた年配の女性が、鞭 を片手に甲高い声を張り上げていた。
「違います!舌を丸めて!それは正しい発音ではありません!」
ピシリ!
鋭い音を立て、鞭 が勢いよく机に叩きつけられる。
鞭 はしばしばレヴィアの手に振り下ろされ、みるみる腫 れていく赤い跡を目にすれば、女性の口元に満足そうな笑みが浮かんだ。
この人の授業で傷のできない日はないが、痛みにさえ慣れてしまったレヴィアは、仕方がないと諦めている。
存分に鞭 を振るったのち、薄い肩を怒らせて出ていく教師の背中を、レヴィアは息を殺しながら目の端で追った。
ここでため息など漏らそうものなら、彼女は戻ってきて、その態度を責めるに違いない。
体を硬くして、耳を澄まし続ける。
癇性 な気質をそのまま表したような、高い足音が遠ざかっていく。
まだ待つ。少し待つ。
やっと、重い金属製の外門を閉める音が、遠く耳に届いた。
だが、レヴィアは細い息を吐き出しながら立ち上がっても、さらに周囲の気配を探り続ける。
(うん、大丈夫)
家令が屋敷にいるときの、重く緊張するような雰囲気はない。
出ていくなら今だ。
そっと扉から半身を出すと、階下では使用人たちが騒いでいる。
「おい、そっち行ったぞ!」
「きゃあっ、ネズミ、ネズミぃ!」
食器の割れる耳障りな音が聞こえてくる合間に、レヴィアはするりと部屋から抜け出した。
(まただ)
最近、屋敷を訪れるたびに、何かの騒ぎに巻き込まれた使用人たちが、右往左往していることが多い。
階段を下りようと手すりを握れば、鞭 打たれた跡が色濃く残っているのに気づいた。
(……ミーシャが心配するかな。ふたりとも、ちょっとのことでも気がついちゃうから)
それはとても不思議で、申し訳なく思うのと同時に。
(うれしい。すごく、すごく嬉しい……)
周囲に気を配りながらも、レヴィアの口元には笑みが浮かんでいた。
人目を避けながら、多彩な夏花 が咲きほこる庭にレヴィアが足を踏み入れる。
「いつも、ああなのか」
突然、すぐ後ろから低い声がして、レヴィアは文字通り飛び上がって驚いた。
振り返れば、声の主 は、庭への出入り口と植込みの間に身を潜めている。
街へ行くときと同じ漆黒の装束姿が、影のように周囲に溶け込んでいた。
「ジーグ!?……どうしたの?見つかっちゃうよ?」
「使用人はお忙しいようだぞ。それでなくとも、夕刻仕事で慌ただしい時間だろう。ああ、ひとりだけ、もう帰り支度 をしている料理人がいたな。この屋敷の主 は食事をしない。あれは雇っている意味があるのか?」
「使用人たちの食事も、必要だから」
「優しすぎるぞ。お前の役に立たない奴の首は切っていい。それと、あの教師も辞めさせろ。あの教え方はありえない」
「……そう?」
「しかも、鞭 を使うか」
唾を吐き捨てる勢いで、ジーグは顔を背 ける。
「締め上げられた大猪 のような声で、『正しい発音』も何もあるまい」
辛辣 なジーグの例えに、レヴィアは小さな笑い声をこぼした。
「僕が、怒らせちゃうからね。もともと声の高い人、なんだけど。怒るほど、高くなっていくんだよ。大猪 ……。ふふっ。この間、ジーグと捕まえた大猪 は、暴れたね!」
獲物の狙い方や弓の扱い方を、ジーグはレヴィアに徹底的に教え直した。
弓術については、それなりの腕を持つレヴィアであったが、今では百発百中。
物陰に隠れている獲物にさえ、わずかな隙間 を縫って、矢を当てられるほどの腕前だ。
「お前の家庭教師は皆あんなか」
「あんな?」
「主 を主 とも思っていない」
「僕は主、じゃないし。……給金を出しているのは、父上、だから」
「だが、お前のために雇っているのだろう。違う教師は選べないのか」
「……選ぶ……?考えたことも、なかった。手配とか、家令が全部、やってくれているから」
「そうか。手配も、か」
ふと、ジーグは屋敷を振り仰ぐ。
「ここの書庫を見せてもらったんだが」
「え!中に入ったの?いつ?」
「まあ、先日な。大したものだった。蔵書の数も種類も。誰が用意した?」
「……わからない。前からあった、と思う」
「ならば、お前のためのものだ。レヴィア、雇っている教師は全員辞めさせよう」
いきなりのジーグの提案に、レヴィアの目が丸くなった。
「あの書庫の本があれば、大抵のことは教えてやれる。あれでリズィエもそこそこ賢い。私たちが、お前の師となろう」
(あれで……。そこそこ……)
アルテミシアとジーグの間にある、揺るぎない親愛の情が言葉の端々に感じられて、レヴィアの頬が緩む。
「でも……」
だが、すぐにレヴィアの表情には憂いが差した。
「父上が、お許しくださるかな」
「否を言わせぬ方法はある。お前の父親が、次にここを訪れるのはいつだ?」
「父上のご予定は、直前にならないと、教えてもらえない。伝書鳩を飛ばせば、来てくださると思うけど」
「伝書鳩?」
「うん。畑とは違う場所で、世話をしてる。以前父上が、止むに止まれぬ事情があるときには知らせろって、用意してくださったんだ」
「私が街に行って手紙を出すか」
「父上が、どちらにお住まいなのか、知らない」
静かに首振るレヴィアに、ジーグは密かにため息をつく。
「……そうか。その鳩を飛ばしたことはあるんだな」
「剣の教師を、辞めさせたかったときに、ね」
「大猪 の悲鳴を耐えられるお前が辞めさせたいとは、よほどだな」
「殺されそう、だったから」
淡々としたレヴィアから出た物騒な言葉に、ジーグが目を見開いた。
「生きていたかったわけじゃ、ないけど。いたぶられながら、殺されるのは、いくら僕が出来損ないでも、」
「そんなことを言うな!」
鋭く、激しく。
ジーグはレヴィアの言葉をさえぎった。
「自分のことをそんなふうに言うんじゃない」
琥珀 の瞳が、レヴィアを射抜くように注がれている。
「お前は、出来損ないなんかじゃない。この世界で唯一無二。私たちの大切なレヴィアだ!」
呆気に取られるように、レヴィアはただジーグを見つめていた。
「薬草を育て調合したのは誰だ?獲物を捕らえ調理をしたのは?治療してくれたのは?お前は私たちの恩人、かけがえのない命を持つ存在なんだ、レヴィア」
これまで、どんなに侮蔑的 な言葉で罵 られても、仕方ないと思ってきた。
どんな仕打ちも、そのうち終わると自分に言い聞かせて。
泣いたことなんてなかった。
なかったのに。
気がつくと、レヴィアの瞳には大粒の涙がたまっていた。
そうして、とうとう堪 えきれずに一筋、あふれた涙が頬に流れ落ちていく。
「そんな大げさなこと、僕はしてない。もらったもののほうが、多い、よ?それに、大切、なんて……。僕だって、僕だってふたりのこと……」
(何より大切な存在だって思う)
頬を濡らしているレヴィアの頭を、ジーグは片腕で抱き寄せた。
「お前は十分に自分を知らない。世界を知らない。だが、私たちがそれを教えよう。レヴィアの本当の価値を」
「ふっ……。うぅ……」
人前で声を上げて泣いたのは初めてで、止めようと思えば思うほど、レヴィアの涙はあふれていく。
くぅくぅと子犬のように泣くレヴィアの肩を、その涙が止まるまでずっと、ジーグは胸に抱え続けていた。
「違います!舌を丸めて!それは正しい発音ではありません!」
ピシリ!
鋭い音を立て、
この人の授業で傷のできない日はないが、痛みにさえ慣れてしまったレヴィアは、仕方がないと諦めている。
存分に
ここでため息など漏らそうものなら、彼女は戻ってきて、その態度を責めるに違いない。
体を硬くして、耳を澄まし続ける。
まだ待つ。少し待つ。
やっと、重い金属製の外門を閉める音が、遠く耳に届いた。
だが、レヴィアは細い息を吐き出しながら立ち上がっても、さらに周囲の気配を探り続ける。
(うん、大丈夫)
家令が屋敷にいるときの、重く緊張するような雰囲気はない。
出ていくなら今だ。
そっと扉から半身を出すと、階下では使用人たちが騒いでいる。
「おい、そっち行ったぞ!」
「きゃあっ、ネズミ、ネズミぃ!」
食器の割れる耳障りな音が聞こえてくる合間に、レヴィアはするりと部屋から抜け出した。
(まただ)
最近、屋敷を訪れるたびに、何かの騒ぎに巻き込まれた使用人たちが、右往左往していることが多い。
階段を下りようと手すりを握れば、
(……ミーシャが心配するかな。ふたりとも、ちょっとのことでも気がついちゃうから)
それはとても不思議で、申し訳なく思うのと同時に。
(うれしい。すごく、すごく嬉しい……)
周囲に気を配りながらも、レヴィアの口元には笑みが浮かんでいた。
人目を避けながら、多彩な
「いつも、ああなのか」
突然、すぐ後ろから低い声がして、レヴィアは文字通り飛び上がって驚いた。
振り返れば、声の
街へ行くときと同じ漆黒の装束姿が、影のように周囲に溶け込んでいた。
「ジーグ!?……どうしたの?見つかっちゃうよ?」
「使用人はお忙しいようだぞ。それでなくとも、夕刻仕事で慌ただしい時間だろう。ああ、ひとりだけ、もう帰り
「使用人たちの食事も、必要だから」
「優しすぎるぞ。お前の役に立たない奴の首は切っていい。それと、あの教師も辞めさせろ。あの教え方はありえない」
「……そう?」
「しかも、
唾を吐き捨てる勢いで、ジーグは顔を
「締め上げられた
「僕が、怒らせちゃうからね。もともと声の高い人、なんだけど。怒るほど、高くなっていくんだよ。
獲物の狙い方や弓の扱い方を、ジーグはレヴィアに徹底的に教え直した。
弓術については、それなりの腕を持つレヴィアであったが、今では百発百中。
物陰に隠れている獲物にさえ、わずかな
「お前の家庭教師は皆あんなか」
「あんな?」
「
「僕は主、じゃないし。……給金を出しているのは、父上、だから」
「だが、お前のために雇っているのだろう。違う教師は選べないのか」
「……選ぶ……?考えたことも、なかった。手配とか、家令が全部、やってくれているから」
「そうか。手配も、か」
ふと、ジーグは屋敷を振り仰ぐ。
「ここの書庫を見せてもらったんだが」
「え!中に入ったの?いつ?」
「まあ、先日な。大したものだった。蔵書の数も種類も。誰が用意した?」
「……わからない。前からあった、と思う」
「ならば、お前のためのものだ。レヴィア、雇っている教師は全員辞めさせよう」
いきなりのジーグの提案に、レヴィアの目が丸くなった。
「あの書庫の本があれば、大抵のことは教えてやれる。あれでリズィエもそこそこ賢い。私たちが、お前の師となろう」
(あれで……。そこそこ……)
アルテミシアとジーグの間にある、揺るぎない親愛の情が言葉の端々に感じられて、レヴィアの頬が緩む。
「でも……」
だが、すぐにレヴィアの表情には憂いが差した。
「父上が、お許しくださるかな」
「否を言わせぬ方法はある。お前の父親が、次にここを訪れるのはいつだ?」
「父上のご予定は、直前にならないと、教えてもらえない。伝書鳩を飛ばせば、来てくださると思うけど」
「伝書鳩?」
「うん。畑とは違う場所で、世話をしてる。以前父上が、止むに止まれぬ事情があるときには知らせろって、用意してくださったんだ」
「私が街に行って手紙を出すか」
「父上が、どちらにお住まいなのか、知らない」
静かに首振るレヴィアに、ジーグは密かにため息をつく。
「……そうか。その鳩を飛ばしたことはあるんだな」
「剣の教師を、辞めさせたかったときに、ね」
「
「殺されそう、だったから」
淡々としたレヴィアから出た物騒な言葉に、ジーグが目を見開いた。
「生きていたかったわけじゃ、ないけど。いたぶられながら、殺されるのは、いくら僕が出来損ないでも、」
「そんなことを言うな!」
鋭く、激しく。
ジーグはレヴィアの言葉をさえぎった。
「自分のことをそんなふうに言うんじゃない」
「お前は、出来損ないなんかじゃない。この世界で唯一無二。私たちの大切なレヴィアだ!」
呆気に取られるように、レヴィアはただジーグを見つめていた。
「薬草を育て調合したのは誰だ?獲物を捕らえ調理をしたのは?治療してくれたのは?お前は私たちの恩人、かけがえのない命を持つ存在なんだ、レヴィア」
これまで、どんなに
どんな仕打ちも、そのうち終わると自分に言い聞かせて。
泣いたことなんてなかった。
なかったのに。
気がつくと、レヴィアの瞳には大粒の涙がたまっていた。
そうして、とうとう
「そんな大げさなこと、僕はしてない。もらったもののほうが、多い、よ?それに、大切、なんて……。僕だって、僕だってふたりのこと……」
(何より大切な存在だって思う)
頬を濡らしているレヴィアの頭を、ジーグは片腕で抱き寄せた。
「お前は十分に自分を知らない。世界を知らない。だが、私たちがそれを教えよう。レヴィアの本当の価値を」
「ふっ……。うぅ……」
人前で声を上げて泣いたのは初めてで、止めようと思えば思うほど、レヴィアの涙はあふれていく。
くぅくぅと子犬のように泣くレヴィアの肩を、その涙が止まるまでずっと、ジーグは胸に抱え続けていた。