クローヴァの憂鬱
文字数 3,862文字
スヴァンに呼ばれて、ヴァイノは天幕を出ていってしまった。
呆れるような、心配するような。
何とも言えない目をするヴァイノがいなくなっても、その言葉はアルテミシアの耳から離れていかなかった。
――好きって、いろんな種類があるだろ――
(相手によって、向ける”好き”が違う、ということかしら……)
考え込むアルテミシアの耳に、天幕の入り口が開けられる音が届く。
「リズィエ、今、大丈夫?具合はどうかな?」
体を起こそうとしたアルテミシアを身振りで留めて、クローヴァが天幕に入ってきた。
「そのまま楽にしていて。今日の合議は終わったんだけどね。レヴィアとフリーダ卿は、大工たちと話があって少し帰りが遅れる。でも、必ず夕飯までには戻るから、そう伝えてくれって」
アルテミシアから視線での許可を得て、クローヴァは枕元の椅子 に腰掛ける。
「リズィエのおかげでよく食べるようになったから、あの子はまた背が伸びたみたいだね。本当にありがとう」
「お礼を申し上げるのは私のほうです」
方卓に並べられた菓子が目に入り、アルテミシアは知らず笑顔になった。
「レヴィアが一生懸命作ってくれたものは、食べなければと思うのです。それに、どれも本当に美味しいから。その胡桃 菓子、クローヴァ殿下はお召し上がりになられましたか?」
「ああ、うん。味見に付き合わされたよ。美味しいよね。僕も好きだな」
菓子を摘 んで微笑むクローヴァを、アルテミシアがひたりと見つめる。
「それは、どういう”好き”ですか?」
「……どういうって?」
(何かの冗談だろうか……)
質問の意図が今ひとつ把握できずに、クローヴァは目を瞬 いた。
「ご存じでいらっしゃいましたか?”好き”には種類があるんですよ?」
心なしか得意げなアルテミシアに、ますますクローバは混乱する。
「子犬の好きと、トカゲの好きは違うんです」
「僕は子犬もトカゲも、同じくらい好きだけれどね」
薄く笑いながら、クローヴァはアルテミシアを観察した。
「じゃあ、リズィエ。好きと恋しいと愛しているの区別はつく?」
きょとんとするアルテミシアに、クローヴァの笑みが深まる。
「言葉は知っている?」
「はい。存じ上げております」
「気持ちの区別は、つく?」
「……違うものですか?」
「同じだったら、違う言葉で表現はしないでしょう」
「そう、ですよね。……クローヴァ殿下は賢くていらっしゃいますね」
感心してうなずくアルテミシアを前に、クローヴァから笑みが消えた。
(アルテミシアは、十九才のはずだけれど……)
この違和感は何だろう。
まるで、レヴィアや愚連隊よりも、遥かに年下の少女を相手にしているようだ。
ずいぶんとやつれてしまったが、アルテミシアの大人びた美しさは変わらないのに。
戸惑ったクローヴァは早々に話を切り上げて、「お大事にね」と天幕をあとにした。
◇
「ミーシャの食事を用意しなくちゃ」と言いながら、レヴィアは嬉しそうに炊事場へと向かっていった。
その背中を見送るジーグの背後で、遠慮がちな声がする。
「おかえり、フリーダ卿」
「……クローヴァ殿下」
指揮官用天幕前に立つクローヴァの金髪が、しっとりと濡れていた。
(かなり前から待っていたのか。……気配には気づかなかったな)
ジーグはクローヴァに向き直り、正式の礼をとって頭を下げる。
「その、少し時間もらいたい。……帰ってきたばかりのところを、申し訳ないのだけれど。その、リズィエ・アルテミシアのことで……」
無言のままうなずいたジーグに、あからさまにほっとしたクローヴァが天幕に誘 った。
「時間は取らせないから」と言われて、勧められた椅子 にジーグが腰かけたとたん。
「その、もしかして、だけど。アルテミシアは恋情に関して、ほんの小さな子供のまま、なのかな」
いきなり切り出したクローヴァに、ジーグは首を傾けた。
「何か、ありましたか」
「うん、先ほどね……」
アルテミシアとのやり取りを話し終えて、クローヴァはため息をつく。
「僕はね、リズィエはレヴィアの気持ちをわざと無視している、と思っていたんだ。有体 に言えば、弄 んでいるのかと。あの子は可哀そうなくらい、気持ちを隠せていないのだからね。普段の彼女からは考えられないけれど、でも、アルテミシアも女性だ。惚れた腫れたは別なんだと。だけど……」
クローヴァは困惑した顔をうつむけた。
「恋を知る前の、とても幼い、無邪気な女の子と話しているようだった。彼女が特殊な環境下で育ったのは聞いた。けれども、それとも何か違う」
「それを知って、殿下はどうなさるおつもりですか」
硬いジーグの声に、頬を打たれたようにクローヴァは顔を上げた。
「知れば、彼女の人生をどうにかできるとでもおっしゃるのですか。その存在すべてを背負い、寄り添う覚悟はおありですか」
射抜くように光る金色の瞳の前で、クローヴァの背筋が自然と伸びてく。
「その件に関しましては、今、これ以上申し上げることはございません。ほかにお話はございますか」
一方的な対話の打ち切りに、クローヴァは無言でただ首を横に振った。
「では、御前を失礼いたします」
クローヴァの返事も待たずに出ていってしまったジーグに、挨拶できず、礼も伝えられず。
ひとり残されたクローヴァは膝に腕を乗せてうなだれた。
(……相手にもしてもらえなかったな)
長期の監禁生活を強いられていても、少ない味方の助けを借りて学び、諦めなかった自負はある。
抑圧され続けていたからこそ、人間の深い業を知ったと思っていた。
(けれど、結局は狭い世界のものでしかなかった)
奇妙なほど感情の機微に疎 い、
そのほかの能力はぴか一であるのに、「人」としての何かが欠けている。
その理由に対する自分の憶測が合っているかを、ジーグに確認したかったのだが。
竜族の背負う重い業。
それを共有している者たちの絆。
ジーグもレヴィアも、アルテミシア自身も。
ディデリス・サラマリスのことを、敵なのかと思うほど警戒していた。
確かに相対すれば、それほどの人物であると思い知る。
何が虚 でどれが実 か。
鮮やかな印象を残す美貌の男は、まるで霞 をつかむような存在だった。
だが、彼女の前でだけは、血の通った微笑を見せる赤竜軍の頭脳。
帝国を御する力を持ちながら、その心は、たったひとりにしか開かれない。
(本当に、なんて危うい存在なのか……)
あれは、セディギアの裏切りが表沙汰になる前のことだった。
アルテミシアの帝国式鍛錬に付き合わされたあと、水場で行き会わせた従者に、率直な愚痴を漏らしたとき。
「リズィエはあれだけの騎士なのに、やんちゃな女の子のようだね。……はぁ~、まいった」
「申し訳ありません。私の躾 けが至らぬばかりに」
「躾 け?」
(指導ではなく?)
「それはフリーダ卿のせいではないでしょう。躾 というのはご家族が、」
「サラマリス家は、家族の結びつきは薄いのです」
珍しく帝国時代の話をするジーグに、クローヴァは汗を拭く手を止めた。
「竜族としての絆は強固。けれど、家族の情には縛られない。しかも、サラマリス家の子供は、十五になる前には、公 の教育を受けることもない。そのような環境で養育を任されたのが、私なのです」
「では、リズィエは士官学校へ入る前まで、ずっと屋敷にひとり?フリーダ卿は、サラマリスご当主の懐刀 だったと、リズィエが言っていたけれど」
「さまざまな家庭教師も通ってきてはいましたが、そうですね」
琥珀 の瞳が遠くなる。
「護衛として私を伴うことが外出の条件でしたから、国境紛争などが立て込むと、どうしても。まあ、用もないのにしょっちゅう尋ねてくる、迷惑な親族がひとりいましたが……。そういえばクローヴァ殿下、以前のご提案ですが……」
言葉を濁したあとは急に話題が変わってしまって、クローヴァ自身も、それきり忘れてしまっていたのだが。
今思えば、あの「迷惑な親族」とは、赤竜隊長のことだったのだろう。
屋敷で孤独に過ごす少女にとって、年の離れた従兄 の存在が、どれほど心の支えとなっていたのかは想像に難くない。
それはきっと、「サラマリス家」の従兄 も同じだっただろう。
有能な騎士と、頑是 ない幼子がアルテミシアのなかに併存している。
あの不均衡さの原因は。
あの無邪気さを愛し、その手の内に囲い、変わらないように守ってきたのは。
――ちょーぜつ箱入りにしてたって言ってたからなぁ、副隊長さんが。どんな仲だったのかは、深く聞けなかったけど。見てりゃわかるよな。どれほどお嬢を大切に思ってるかってさ――
アルテミシアが死の淵に立っていたころ、ラシオンが赤竜隊長についての感想を漏らしていた。
強い絆を持つ従兄妹 ふたりの関係に潜む、不穏な気配。
アルテミシアはトーラ王国に残ることを選び、帝国竜騎士たちは帝国へと帰っていった。
だが、赤竜隊長は本当に納得しているのだろうか。
(彼女を取り戻すためには、国ひとつくらい潰しそうだよね、
その悲劇を未然に防ぐために必要なのが、稀代の剣士の頭脳。
だが。
(フリーダ卿は僕に、いや、レヴィアとアルテミシアがいなければ、トーラ王国にも興味はないだろう)
ジグワルド・フリーダに味方でいてもらうためには、彼の主人を偏見なく理解しなくてはならない。
(僕も彼女に弟子入りを……、いや、レヴィアに嫌われてしまうな)
激しい音を立てて天幕を打つ雨音が、考えにふけるクローヴァを包んでいた。
呆れるような、心配するような。
何とも言えない目をするヴァイノがいなくなっても、その言葉はアルテミシアの耳から離れていかなかった。
――好きって、いろんな種類があるだろ――
(相手によって、向ける”好き”が違う、ということかしら……)
考え込むアルテミシアの耳に、天幕の入り口が開けられる音が届く。
「リズィエ、今、大丈夫?具合はどうかな?」
体を起こそうとしたアルテミシアを身振りで留めて、クローヴァが天幕に入ってきた。
「そのまま楽にしていて。今日の合議は終わったんだけどね。レヴィアとフリーダ卿は、大工たちと話があって少し帰りが遅れる。でも、必ず夕飯までには戻るから、そう伝えてくれって」
アルテミシアから視線での許可を得て、クローヴァは枕元の
「リズィエのおかげでよく食べるようになったから、あの子はまた背が伸びたみたいだね。本当にありがとう」
「お礼を申し上げるのは私のほうです」
方卓に並べられた菓子が目に入り、アルテミシアは知らず笑顔になった。
「レヴィアが一生懸命作ってくれたものは、食べなければと思うのです。それに、どれも本当に美味しいから。その
「ああ、うん。味見に付き合わされたよ。美味しいよね。僕も好きだな」
菓子を
「それは、どういう”好き”ですか?」
「……どういうって?」
(何かの冗談だろうか……)
質問の意図が今ひとつ把握できずに、クローヴァは目を
「ご存じでいらっしゃいましたか?”好き”には種類があるんですよ?」
心なしか得意げなアルテミシアに、ますますクローバは混乱する。
「子犬の好きと、トカゲの好きは違うんです」
「僕は子犬もトカゲも、同じくらい好きだけれどね」
薄く笑いながら、クローヴァはアルテミシアを観察した。
「じゃあ、リズィエ。好きと恋しいと愛しているの区別はつく?」
きょとんとするアルテミシアに、クローヴァの笑みが深まる。
「言葉は知っている?」
「はい。存じ上げております」
「気持ちの区別は、つく?」
「……違うものですか?」
「同じだったら、違う言葉で表現はしないでしょう」
「そう、ですよね。……クローヴァ殿下は賢くていらっしゃいますね」
感心してうなずくアルテミシアを前に、クローヴァから笑みが消えた。
(アルテミシアは、十九才のはずだけれど……)
この違和感は何だろう。
まるで、レヴィアや愚連隊よりも、遥かに年下の少女を相手にしているようだ。
ずいぶんとやつれてしまったが、アルテミシアの大人びた美しさは変わらないのに。
戸惑ったクローヴァは早々に話を切り上げて、「お大事にね」と天幕をあとにした。
◇
「ミーシャの食事を用意しなくちゃ」と言いながら、レヴィアは嬉しそうに炊事場へと向かっていった。
その背中を見送るジーグの背後で、遠慮がちな声がする。
「おかえり、フリーダ卿」
「……クローヴァ殿下」
指揮官用天幕前に立つクローヴァの金髪が、しっとりと濡れていた。
(かなり前から待っていたのか。……気配には気づかなかったな)
ジーグはクローヴァに向き直り、正式の礼をとって頭を下げる。
「その、少し時間もらいたい。……帰ってきたばかりのところを、申し訳ないのだけれど。その、リズィエ・アルテミシアのことで……」
無言のままうなずいたジーグに、あからさまにほっとしたクローヴァが天幕に
「時間は取らせないから」と言われて、勧められた
「その、もしかして、だけど。アルテミシアは恋情に関して、ほんの小さな子供のまま、なのかな」
いきなり切り出したクローヴァに、ジーグは首を傾けた。
「何か、ありましたか」
「うん、先ほどね……」
アルテミシアとのやり取りを話し終えて、クローヴァはため息をつく。
「僕はね、リズィエはレヴィアの気持ちをわざと無視している、と思っていたんだ。
クローヴァは困惑した顔をうつむけた。
「恋を知る前の、とても幼い、無邪気な女の子と話しているようだった。彼女が特殊な環境下で育ったのは聞いた。けれども、それとも何か違う」
「それを知って、殿下はどうなさるおつもりですか」
硬いジーグの声に、頬を打たれたようにクローヴァは顔を上げた。
「知れば、彼女の人生をどうにかできるとでもおっしゃるのですか。その存在すべてを背負い、寄り添う覚悟はおありですか」
射抜くように光る金色の瞳の前で、クローヴァの背筋が自然と伸びてく。
「その件に関しましては、今、これ以上申し上げることはございません。ほかにお話はございますか」
一方的な対話の打ち切りに、クローヴァは無言でただ首を横に振った。
「では、御前を失礼いたします」
クローヴァの返事も待たずに出ていってしまったジーグに、挨拶できず、礼も伝えられず。
ひとり残されたクローヴァは膝に腕を乗せてうなだれた。
(……相手にもしてもらえなかったな)
長期の監禁生活を強いられていても、少ない味方の助けを借りて学び、諦めなかった自負はある。
抑圧され続けていたからこそ、人間の深い業を知ったと思っていた。
(けれど、結局は狭い世界のものでしかなかった)
奇妙なほど感情の機微に
十九歳
になる少女。そのほかの能力はぴか一であるのに、「人」としての何かが欠けている。
その理由に対する自分の憶測が合っているかを、ジーグに確認したかったのだが。
竜族の背負う重い業。
それを共有している者たちの絆。
あの
彫像騎士。ジーグもレヴィアも、アルテミシア自身も。
ディデリス・サラマリスのことを、敵なのかと思うほど警戒していた。
確かに相対すれば、それほどの人物であると思い知る。
何が
鮮やかな印象を残す美貌の男は、まるで
だが、彼女の前でだけは、血の通った微笑を見せる赤竜軍の頭脳。
帝国を御する力を持ちながら、その心は、たったひとりにしか開かれない。
(本当に、なんて危うい存在なのか……)
あれは、セディギアの裏切りが表沙汰になる前のことだった。
アルテミシアの帝国式鍛錬に付き合わされたあと、水場で行き会わせた従者に、率直な愚痴を漏らしたとき。
「リズィエはあれだけの騎士なのに、やんちゃな女の子のようだね。……はぁ~、まいった」
「申し訳ありません。私の
「
(指導ではなく?)
「それはフリーダ卿のせいではないでしょう。
「サラマリス家は、家族の結びつきは薄いのです」
珍しく帝国時代の話をするジーグに、クローヴァは汗を拭く手を止めた。
「竜族としての絆は強固。けれど、家族の情には縛られない。しかも、サラマリス家の子供は、十五になる前には、
「では、リズィエは士官学校へ入る前まで、ずっと屋敷にひとり?フリーダ卿は、サラマリスご当主の
「さまざまな家庭教師も通ってきてはいましたが、そうですね」
「護衛として私を伴うことが外出の条件でしたから、国境紛争などが立て込むと、どうしても。まあ、用もないのにしょっちゅう尋ねてくる、迷惑な親族がひとりいましたが……。そういえばクローヴァ殿下、以前のご提案ですが……」
言葉を濁したあとは急に話題が変わってしまって、クローヴァ自身も、それきり忘れてしまっていたのだが。
今思えば、あの「迷惑な親族」とは、赤竜隊長のことだったのだろう。
屋敷で孤独に過ごす少女にとって、年の離れた
それはきっと、「サラマリス家」の
有能な騎士と、
あの不均衡さの原因は。
あの無邪気さを愛し、その手の内に囲い、変わらないように守ってきたのは。
――ちょーぜつ箱入りにしてたって言ってたからなぁ、副隊長さんが。どんな仲だったのかは、深く聞けなかったけど。見てりゃわかるよな。どれほどお嬢を大切に思ってるかってさ――
アルテミシアが死の淵に立っていたころ、ラシオンが赤竜隊長についての感想を漏らしていた。
強い絆を持つ
アルテミシアはトーラ王国に残ることを選び、帝国竜騎士たちは帝国へと帰っていった。
だが、赤竜隊長は本当に納得しているのだろうか。
(彼女を取り戻すためには、国ひとつくらい潰しそうだよね、
あの人
は)その悲劇を未然に防ぐために必要なのが、稀代の剣士の頭脳。
だが。
(フリーダ卿は僕に、いや、レヴィアとアルテミシアがいなければ、トーラ王国にも興味はないだろう)
ジグワルド・フリーダに味方でいてもらうためには、彼の主人を偏見なく理解しなくてはならない。
(僕も彼女に弟子入りを……、いや、レヴィアに嫌われてしまうな)
激しい音を立てて天幕を打つ雨音が、考えにふけるクローヴァを包んでいた。