王子(リズィロ)の復活
文字数 4,363文字
いまだ星の瞬く薄明 。
ディデリス・サラマリスは朝靄 に紛れるように、使用人通用口から屋敷に入った。
足取りは重く、まるでぬかるみの中を進むようだ。
身にまとわりついた酒と安い香水の臭いに胃がムカムカする。
(今日は、顔を出さねばならないような用事があっただろうか……)
最近では、よほど重大な任務でもない限り出向くことないが、後進の育成には力を入れてきた。
隊長である自分が毎日顔を出さなくても、そう困りはしないだろう。
(俺が一番の厄介事だろうしな)
覚束ない足取りで歩きながら、自分を嘲 る鼻息が漏れた。
退廃的に過ごしている自覚はある。
それでもお咎 めがないのは、いざ事が起これば、真っ先に紛争地に駆けつけ、戦果を上げてみせるからだろう。
ディデリスの竜は赤竜にしては小柄だが、長い攻撃を行える大量の揮発息を吐く。
何より小柄だからこそ、黒竜に負けないほど足が速い。
――ディデリス隊長の竜の揮発息は、酒精に違いない――
ディデリスの実力を認めつつも、このところ赤竜軍に手柄を奪われ続けている黒竜騎士たちは、そう陰口を叩いているようだ。
(好きに言っていろ。……馬鹿馬鹿しい)
飲み過ぎて荒れた胃を抱 えながら湯を浴びる。
出掛けに頼んだとおり、使用人が用意してくれた熱めの湯は肌を清め、酒びたりで感覚の鈍った体を生き返らせていく。
だが、澱 のようにたまって、心を蝕 んでいく鬱屈だけは、こびりついたまま流れていくことはなかった。
簡素な室内着を雑に着て湯殿から廊下に出ると、ルドヴィクが彫像のようにたたずんでいた。
「おや父上」
朝から嫌なものを見たという顏を隠しもせずに、ディデリスは眉間 に深くしわを寄せる。
「父上も朝帰りですか。それとも年寄りだからお早くお目が覚めるのですか」
早口で毒づきながら脇を通り過ぎようとするディデリスに、絡繰 り音のような声がかけられた。
「トーラ王国に竜がいるそうだ」
「……は?」
耳を疑ったディデリスは、思わず足を止める。
「竜?……何かの見間違えでは?」
振り返った息子に、ルドヴィクが静かに首を横に振った。
「トーラ王襲撃の折、竜を率いる隊がその騒乱を収めたらしい」
ディデリスの翡翠 色の瞳が、大きく見開かれていく。
「……誰が?」
(竜に騎乗できる人間が、あの辺境国にいるのか?そもそも、あの極北の国に竜など……)
「隊の指揮官はトーラ第二王子、レヴィア殿下と聞く」
「第二?あの国は、王子と王女がひとりずつのはず」
「国王が側女 に産ませた隠し子がいる、という噂 があるようだ」
「その側女 は、竜一族に関係する人間なのですか?」
久方ぶりに見せる明敏な顔つきで、矢継ぎ早にディデリスが問い質 していった。
「どうかな。第二王子について伝わるのは名前くらいだ。トーラでも、その存在は公ではなかったようだが……」
ふと口をつぐんだルドヴィクが、視線を落とす。
「第二王子のそばに、大柄でやけに腕の立つ、見たこともない大剣 を扱う剣士がいたそうだ」
ディデリスの呼吸が止まった。
「そして、もうひとり」
今やディデリスは、一言も聞き漏らさまいと、ルドヴィクの口を食い入るように見ている。
「身の軽い、竜をよく操る騎士がいたらしい。その人物は」
親子の視線が真正面からぶつかった。
「それは見事な赤毛だったそうだ」
帝国軍の要、赤竜第一部隊の隊長室には、早朝から慌ただしく隊員たちが出入りしていた。
「情報は噂 程度でも構わない。入り次第、俺に上げろ」
「了解しました」
「各竜舎の確認書は?」
「育成竜舎があとひとつ。昼過ぎに届きます」
「ディデリス隊長!例の件」
「それは黒竜の承認待ちだ」
口々に伝えられる報告を聞き漏らすこともなく、ディデリスがは間断 なく指示を飛ばしている。
「……酒臭くない隊長は珍しいな」
「珍しいどころか、私は初めて拝見します。隊長服を着た隊長を」
「ああ、チンピラ姿じゃない隊長……」
「無駄口を叩く余裕があるとは感心。頼んでおいたトーラ情勢についての報告は?」
「ひぃぃっ」
廊下で立ち話をしていた竜騎士ふたりの肩を、隊長室にいたはずのディデリスが爪を立ててつかんだ。
「皇帝陛下へ謁見の懇請 を」
青ざめた若い竜騎士の胸に書類を押し付けながら、ディデリスはふたりの横を歩きすぎていく。
「急げ。できれば、今日中にご許可を」
緊張した面持ちで書類を抱きめる若い騎士を、ディデリスはちらりと振り返った。
「明日以降のご返事を持ち帰った場合、次の任務地はカザビア自治領」
少し前までは独立国で、今もなお内戦が収まらない地区を指定された騎士が青ざめる。
その怯 えた様子に、ディデリスの目元がふっと和らいだ。
怜悧な横顔が、目元のほくろとも相まって、とたんに艶めいたものになる。
「安心しろ。よほどのことがない限り、陛下は否をおっしゃらない。……頼んだぞ」
隊長服の裾を翻 して、ディデリスは颯爽と去っていった。
窓からの光を浴びるその背中を見送りながら、若い竜騎士がため息をもらす。
「別人、みたいですね」
ろくに顔も出さず、来たかと思えば投げやりな指示をいい加減に言い置いては、さっさと帰っていく隊長。
若い騎士は、そんな遊び人崩れのようなディデリスしか知らない。
「隊長は本来ああいう方だ。ここ二年ほどがおかしかったんだよ」
「何があったんでしょうね?」
「荒れた原因か?元に戻った理由か?……まあ、どちらも”赤の惨劇”絡みだろうな」
「まさか、あの事件に進展が?!」
若い竜騎士の声が思わず大きくなった。
ディアムド帝国の首都アマルドに、不穏な影を落とした「赤の惨劇」事件。
帝国の片翼、赤竜軍のバシリウス隊長が戦場ではなく、誰ともわからぬ者の闇討ちによって命を落とした。
その骸 は劫火に焼かれ、今なお犯人の目星すらついていない。
そして、その娘である第三部隊長も同時に儚 くなり、赤竜軍の支柱が一挙に二本も失われた、惨 く不可解な惨事。
人々の口にのぼることは少なくなったが、決して忘れられているわけではない。
「さてな。ただ、関係はするのかもしれない。……竜が、他国で確認されたのだから」
「えぇ!!」
思わず、若い竜騎士は手にしていた書類を握りしめる。
「おいおい、あんまりしわくちゃにすると補佐官に突っ返されるぞ。隊長にバレたら、お前と会うのは今日が最後だな」
脅かすように笑う古参の騎士に向かって敬礼すると、慌てて書類のシワを伸ばしながら、若い竜騎士が廊下を走り去っていった。
それからの数日、ディデリスは隊長室に泊まり込みながら、寝食も忘れるほどトーラ王国情勢の把握に勤 しんだ。
(第二王子については、ほぼわからない、か。これほど隠れた存在が、いきなり騒乱の表舞台に立つとは。よほど大切にされていたのか、想定外の存在だったのか。剣士は……)
もう何度も読み返した、些細な噂 程度まで集めさせた報告書に、じっくりと目を通していく。
(風貌と剣術からして、あいつに間違いないだろう。だとすると、もうひとりは)
「見事な赤毛」と、ルドヴィクが言っていた人物。
報告書にも、「深く艶めく紅」「あふれ出る深紅の髪」との記述がある。
ただ、あとは竜のことばかり。
初めて見る「炎を噴く生き物」に対する驚きが、ありありとわかる証言が連なっている。
(騎士より竜か……。しかし、本当にあの惨事のなか、生き残ったというのか)
警備騎士の防具や剣さえ、歪み溶けていた焼き討ちの現場。
そのなかで、犠牲者たちを特定するのには、たいそうな時間がかかった。
とくに難航したのは子供たちで、遺骸はもちろん身につけていただろう物さえ、それとわかるものは見つかっていない。
だが、あの夜以降、サラマリス家の子供たちを見た者はおらず、死亡したものと推定されているのだ。
(直接会ってみるしかないな。トーラ国へ会談の要請を、いや、スバクルと開戦間近か。イハウの動きを土産に、第二王子とやらへ近づいてみるか)
竜騎士として軍に所属しているのなら、双子では幼過ぎる。
「双子以外のもうひとり」だったとして。
あの惨劇のなか生き残ったのに、他国のために戦場に立つことを選んだ。
約二年経った今でも、帝国に戻らないどころか、消息さえ知らせてこない。
(”惨劇”のせいか、それとも……。俺のせいなのか)
自分が理由ならば、素直にその姿は見せないだろう。
深いため息がディデリスから漏れた。
(竜の所有に揺さぶりをかけてみるか。だが、奪われた竜ではないからな)
他国の竜の噂 が入ってすぐに、赤竜、黒竜ともに大規模な調査をしたが、両軍ともに竜と原種ディアムズの頭数は、すべて台帳と合致した。
つまり、トーラの竜は、にわかには信じ難い話ではあるが、北国トーラにいる誰かが、独自に育てた個体にほかならない。
その権利を帝国が主張するのは、さすがに言いがかりだろう。
(問い質 せるとしたら卵の出所 くらいか。竜家の卵が持ち出された可能性を、いや、そんな報告もないが……)
赤竜、黒竜の飼育台帳を手に取り、ディデリスは素早くその数字を確認していく。
ディアムズの管理は厳しい。
卵ひとつでも、許可なく持ち出すことは重罪である。
だが、南方の密林地帯には野生のディアムズも生息するし、貴重なため、目が飛び出るほどの高値ではあるが、他国でも取引はされている。
竜化方を知るならばサラマリス家、またはマレーバ家の血筋の関与が濃厚だ。
そして、「赤毛」となれば、黒髪黒目のマレーバ家は除外される。
ディデリスは台帳を机に放り投げると、肘をついて組んだ両手に額を押し付けた。
(竜族の血を引く誰か、もしくは赤毛は偶然で、竜術のみが漏洩した可能性も……。いや、ありえない。算出式は漏らすことができないからな)
竜化方の要 である「算出式」は、拷問にかけられようとも口にできない。
そうであるように、厳しい暗示儀式を経て伝えらるからだ。
その暗示は次世代の「サラマリス」に伝える場合にのみ、外れる仕掛けが施されている。
(ならば、やはり「赤毛」はサラマリスの者か。帝国首座貴族の地位を捨てて、他国で竜を育てたのか)
なぜ、何のためにという疑問がディデリスの頭を巡った。
(国力にものを言わせて、別方面から圧力をかけてみるか。……見事な赤毛……)
もし、それが望んでいる人物ならば。
(そんなやり方をしたら、嫌われてしまうかな。いや)
くつくつと低く笑うディデリスの肩が、細かく揺れた。
(とっくに嫌われているのか。だが、生きてさえいるのなら。一目会えるのなら)
顔を上げ、ディデリスは積み重なった報告書の上に地図を広げる。
(どう話を持っていけば、出てくるだろう)
長く形の良い指が、地図上の国々をなでるようにゆっくりと巡っていった。
ディデリス・サラマリスは
足取りは重く、まるでぬかるみの中を進むようだ。
身にまとわりついた酒と安い香水の臭いに胃がムカムカする。
(今日は、顔を出さねばならないような用事があっただろうか……)
最近では、よほど重大な任務でもない限り出向くことないが、後進の育成には力を入れてきた。
隊長である自分が毎日顔を出さなくても、そう困りはしないだろう。
(俺が一番の厄介事だろうしな)
覚束ない足取りで歩きながら、自分を
退廃的に過ごしている自覚はある。
それでもお
ディデリスの竜は赤竜にしては小柄だが、長い攻撃を行える大量の揮発息を吐く。
何より小柄だからこそ、黒竜に負けないほど足が速い。
――ディデリス隊長の竜の揮発息は、酒精に違いない――
ディデリスの実力を認めつつも、このところ赤竜軍に手柄を奪われ続けている黒竜騎士たちは、そう陰口を叩いているようだ。
(好きに言っていろ。……馬鹿馬鹿しい)
飲み過ぎて荒れた胃を
出掛けに頼んだとおり、使用人が用意してくれた熱めの湯は肌を清め、酒びたりで感覚の鈍った体を生き返らせていく。
だが、
簡素な室内着を雑に着て湯殿から廊下に出ると、ルドヴィクが彫像のようにたたずんでいた。
「おや父上」
朝から嫌なものを見たという顏を隠しもせずに、ディデリスは
「父上も朝帰りですか。それとも年寄りだからお早くお目が覚めるのですか」
早口で毒づきながら脇を通り過ぎようとするディデリスに、
「トーラ王国に竜がいるそうだ」
「……は?」
耳を疑ったディデリスは、思わず足を止める。
「竜?……何かの見間違えでは?」
振り返った息子に、ルドヴィクが静かに首を横に振った。
「トーラ王襲撃の折、竜を率いる隊がその騒乱を収めたらしい」
ディデリスの
「……誰が?」
(竜に騎乗できる人間が、あの辺境国にいるのか?そもそも、あの極北の国に竜など……)
「隊の指揮官はトーラ第二王子、レヴィア殿下と聞く」
「第二?あの国は、王子と王女がひとりずつのはず」
「国王が
「その
久方ぶりに見せる明敏な顔つきで、矢継ぎ早にディデリスが問い
「どうかな。第二王子について伝わるのは名前くらいだ。トーラでも、その存在は公ではなかったようだが……」
ふと口をつぐんだルドヴィクが、視線を落とす。
「第二王子のそばに、大柄でやけに腕の立つ、見たこともない
ディデリスの呼吸が止まった。
「そして、もうひとり」
今やディデリスは、一言も聞き漏らさまいと、ルドヴィクの口を食い入るように見ている。
「身の軽い、竜をよく操る騎士がいたらしい。その人物は」
親子の視線が真正面からぶつかった。
「それは見事な赤毛だったそうだ」
帝国軍の要、赤竜第一部隊の隊長室には、早朝から慌ただしく隊員たちが出入りしていた。
「情報は
「了解しました」
「各竜舎の確認書は?」
「育成竜舎があとひとつ。昼過ぎに届きます」
「ディデリス隊長!例の件」
「それは黒竜の承認待ちだ」
口々に伝えられる報告を聞き漏らすこともなく、ディデリスがは
「……酒臭くない隊長は珍しいな」
「珍しいどころか、私は初めて拝見します。隊長服を着た隊長を」
「ああ、チンピラ姿じゃない隊長……」
「無駄口を叩く余裕があるとは感心。頼んでおいたトーラ情勢についての報告は?」
「ひぃぃっ」
廊下で立ち話をしていた竜騎士ふたりの肩を、隊長室にいたはずのディデリスが爪を立ててつかんだ。
「皇帝陛下へ謁見の
青ざめた若い竜騎士の胸に書類を押し付けながら、ディデリスはふたりの横を歩きすぎていく。
「急げ。できれば、今日中にご許可を」
緊張した面持ちで書類を抱きめる若い騎士を、ディデリスはちらりと振り返った。
「明日以降のご返事を持ち帰った場合、次の任務地はカザビア自治領」
少し前までは独立国で、今もなお内戦が収まらない地区を指定された騎士が青ざめる。
その
怜悧な横顔が、目元のほくろとも相まって、とたんに艶めいたものになる。
「安心しろ。よほどのことがない限り、陛下は否をおっしゃらない。……頼んだぞ」
隊長服の裾を
窓からの光を浴びるその背中を見送りながら、若い竜騎士がため息をもらす。
「別人、みたいですね」
ろくに顔も出さず、来たかと思えば投げやりな指示をいい加減に言い置いては、さっさと帰っていく隊長。
若い騎士は、そんな遊び人崩れのようなディデリスしか知らない。
「隊長は本来ああいう方だ。ここ二年ほどがおかしかったんだよ」
「何があったんでしょうね?」
「荒れた原因か?元に戻った理由か?……まあ、どちらも”赤の惨劇”絡みだろうな」
「まさか、あの事件に進展が?!」
若い竜騎士の声が思わず大きくなった。
ディアムド帝国の首都アマルドに、不穏な影を落とした「赤の惨劇」事件。
帝国の片翼、赤竜軍のバシリウス隊長が戦場ではなく、誰ともわからぬ者の闇討ちによって命を落とした。
その
そして、その娘である第三部隊長も同時に
人々の口にのぼることは少なくなったが、決して忘れられているわけではない。
「さてな。ただ、関係はするのかもしれない。……竜が、他国で確認されたのだから」
「えぇ!!」
思わず、若い竜騎士は手にしていた書類を握りしめる。
「おいおい、あんまりしわくちゃにすると補佐官に突っ返されるぞ。隊長にバレたら、お前と会うのは今日が最後だな」
脅かすように笑う古参の騎士に向かって敬礼すると、慌てて書類のシワを伸ばしながら、若い竜騎士が廊下を走り去っていった。
それからの数日、ディデリスは隊長室に泊まり込みながら、寝食も忘れるほどトーラ王国情勢の把握に
(第二王子については、ほぼわからない、か。これほど隠れた存在が、いきなり騒乱の表舞台に立つとは。よほど大切にされていたのか、想定外の存在だったのか。剣士は……)
もう何度も読み返した、些細な
(風貌と剣術からして、あいつに間違いないだろう。だとすると、もうひとりは)
「見事な赤毛」と、ルドヴィクが言っていた人物。
報告書にも、「深く艶めく紅」「あふれ出る深紅の髪」との記述がある。
ただ、あとは竜のことばかり。
初めて見る「炎を噴く生き物」に対する驚きが、ありありとわかる証言が連なっている。
(騎士より竜か……。しかし、本当にあの惨事のなか、生き残ったというのか)
警備騎士の防具や剣さえ、歪み溶けていた焼き討ちの現場。
そのなかで、犠牲者たちを特定するのには、たいそうな時間がかかった。
とくに難航したのは子供たちで、遺骸はもちろん身につけていただろう物さえ、それとわかるものは見つかっていない。
だが、あの夜以降、サラマリス家の子供たちを見た者はおらず、死亡したものと推定されているのだ。
(直接会ってみるしかないな。トーラ国へ会談の要請を、いや、スバクルと開戦間近か。イハウの動きを土産に、第二王子とやらへ近づいてみるか)
竜騎士として軍に所属しているのなら、双子では幼過ぎる。
「双子以外のもうひとり」だったとして。
あの惨劇のなか生き残ったのに、他国のために戦場に立つことを選んだ。
約二年経った今でも、帝国に戻らないどころか、消息さえ知らせてこない。
(”惨劇”のせいか、それとも……。俺のせいなのか)
自分が理由ならば、素直にその姿は見せないだろう。
深いため息がディデリスから漏れた。
(竜の所有に揺さぶりをかけてみるか。だが、奪われた竜ではないからな)
他国の竜の
つまり、トーラの竜は、にわかには信じ難い話ではあるが、北国トーラにいる誰かが、独自に育てた個体にほかならない。
その権利を帝国が主張するのは、さすがに言いがかりだろう。
(問い
赤竜、黒竜の飼育台帳を手に取り、ディデリスは素早くその数字を確認していく。
ディアムズの管理は厳しい。
卵ひとつでも、許可なく持ち出すことは重罪である。
だが、南方の密林地帯には野生のディアムズも生息するし、貴重なため、目が飛び出るほどの高値ではあるが、他国でも取引はされている。
竜化方を知るならばサラマリス家、またはマレーバ家の血筋の関与が濃厚だ。
そして、「赤毛」となれば、黒髪黒目のマレーバ家は除外される。
ディデリスは台帳を机に放り投げると、肘をついて組んだ両手に額を押し付けた。
(竜族の血を引く誰か、もしくは赤毛は偶然で、竜術のみが漏洩した可能性も……。いや、ありえない。算出式は漏らすことができないからな)
竜化方の
そうであるように、厳しい暗示儀式を経て伝えらるからだ。
その暗示は次世代の「サラマリス」に伝える場合にのみ、外れる仕掛けが施されている。
(ならば、やはり「赤毛」はサラマリスの者か。帝国首座貴族の地位を捨てて、他国で竜を育てたのか)
なぜ、何のためにという疑問がディデリスの頭を巡った。
(国力にものを言わせて、別方面から圧力をかけてみるか。……見事な赤毛……)
もし、それが望んでいる人物ならば。
(そんなやり方をしたら、嫌われてしまうかな。いや)
くつくつと低く笑うディデリスの肩が、細かく揺れた。
(とっくに嫌われているのか。だが、生きてさえいるのなら。一目会えるのなら)
顔を上げ、ディデリスは積み重なった報告書の上に地図を広げる。
(どう話を持っていけば、出てくるだろう)
長く形の良い指が、地図上の国々をなでるようにゆっくりと巡っていった。