帝国の足音
文字数 3,202文字
いったん自室に下がり、ヴァーリに先ぶれを出して。
身なりを整えたアルテミシアとレヴィアが客間に入ると、すでにクローヴァとジーグも席に着いていた。
ふたりが座るのを待って、ヴァーリがおもむろに口を開く。
「ディアムド帝国から会談の要請があった。我が国の”竜”が耳に入ったようだ」
アルテミシアの顔がさっと強張り、その横でジーグは太く短い息を吐き出した。
「……とうとう動き出したか。では、イハウがこちらの竜の情報を得ていることは、疑いようがありません。ですが、それがセディギア経由のものならば、大した内容でもないかと。帝国は何と?」
「貴君の言うとおりだ、ジーグ殿。向こうも判然たる材料は持っていないようだな」
懐から取り出し開いた書状に、ヴァーリはさっと目を走らせる。
『帝国の竜ではないことを認める。未知の竜には大変興味があり、会談の機会を頂戴したい。現在のトーラ国情勢は帝国でも把握しており、貴国の抱 える紛争に対する、イハウ連合国の動きについても、情報を提供する用意がある』
「なるほど」
読み上げるヴァーリのディアムド語を聞きながら、ジーグはあごに指を当てた。
(この騒動の陰にイハウがいる。それはもう疑いようがない。それにしても、帝国にしてはずいぶんと下手に出たな。竜の所有を最初からこちらに認めてきたとは)
琥珀 の瞳の奥がキラリと光る。
「書状署名にはどなたが」
ヴァーリは何枚かある書状の、最後の一枚を表にして円卓に広げた。
「テオドーレ皇帝陛下と、赤竜軍第一部隊長、ディデリス・サラマリス公の連名だ」
ヴァーリの指が示した箇所には確かに、ディアムド皇帝と赤竜軍隊長の直筆署名があり、その下には皇帝とサラマリス家の印章が押されている。
「……ディデリス……」
それは、ほとんど聞こえないほどの。
もしかしたら、一心に見つめていなければ、レヴィアでも気づかなかったかもしれない。
吐息のようなアルテミシアのつぶやきを、口の形だけで判別したレヴィアの胸が騒ぐ。
それはアルテミシアがうなされていた、「昔の嫌な夢」で口にしていた名前のはずだ。
なのに、アルテミシアの表情には、どこか懐かしささえ浮かんでいる。
「会談相手は誰を指名してきましたか?場所は……、トーラ国まで来る?帝国が?……これはこれは」
「今回は国交がない両国の、あくまで竜騎士同士の親睦を目的とする会談にしたいと言ってきている」
「親睦」
ヴァーリの言葉を繰り返して、ジーグは皮肉げな笑みを浮かべた。
「これを機に、竜の件も含めた正式交渉につながるものとしたいと書いてあるが」
「一度で済ますつもりがない、ということでしょう」
「帝国は紛争に関与する立場にはないが、この会談はトーラに有利に働くだろうとも」
(あの男らしいな。……隙 のないことだ)
「正直、煩 わしいだけですが、無視できる相手でもありません」
片頬で笑うジーグに、ヴァーリもクローヴァも神妙にうなずく。
「イハウの情報を持つと言うのも、伊達ではないでしょう」
「竜の情報を引き出すための、単なる餌 ではないと?」
「餌 は餌 でしょうね。……たいそう上質な味のする」
(この男が敵ではなくて、本当に良かった)
胸の内の畏 れは表に出さずに、ヴァーリは「そうか」とだけ返した。
出軍は遅らせることはできない。
レゲシュ家の戦闘準備は、完了間近の一報も入っている。
スバクル国に潜入したラシオンたちを、これ以上危うくさせるわけにはいかない。
そのためこの会談は出軍と並行して、別途設けた場所で行う。
今後の予定をそう確認し合ったのち、一番に席を立ったアルテミシアは無言で客間を去っていった。
雪の畑でのひと時など、幻だったのではないか。
そう思うほど閉じた横顔に、レヴィアは声もかけられない。
いても立ってもいられず、レヴィアは廊下に出たジーグをつかまえて、いつにない早口になった。
「別家サラマリスに従兄 がいるって言ってたよね。赤竜軍の隊長ってその人?」
「そうだな」
「ディデリスって、ミーシャがうなされてたときの人でしょう」
「……そう、だな」
出会ってから、これほど口の重いジーグは見たことがない。
これ以上は、聞いても答えてはもらえない雰囲気である。
レヴィアは諦めて話題を変えた。
「竜騎士を指定してきたね。僕が出る」
あんな様子のアルテミシアを、追われた帝国との会談になど出したくはない。
まして会談相手の
表舞台に立つと決めたときから、覚悟はできている。
たとえ帝国の人間であろうと怯 むつもりはない。
当然、ジーグはその決意を支持してくれると思っていたのだが。
「いや、レヴィアは出なくていい。お前の存在はできるだけ知られたくない」
ジーグの様子を見れば、それは決定事項のようだ。
「どうして?」
「帝国は甘くない。”親睦を深めるため”などという戯言 を信じるな。いざとなれば、トーラ一国潰すのに躊躇 する国ではない。だがな」
ジーグはレヴィアの頭を、少し乱暴なほどの勢いでなでる。
「不確かな要因がある場合、むやみな攻撃は仕掛けられないものだ。お前とスィーニは、トーラの切り札になる。切り札は、ここぞというときに使うんだ」
「じゃあミーシャが出るの?大丈夫なの?」
「……会わせたくは、ないのだがな」
ジーグが重い、重いため息をついた。
◇
帝国首都アマルドの冬は、乾燥した晴天が続く季節だ。
夜遅くまで街燈が灯る街並みの上空に、きらめく星空が広がっている。
だが、赤竜軍第一隊長は窓から見える星々に目をやることもなく、ひたすら書類の山と格闘していた。
コツコツと扉を叩く硬質な音に、トーラ国の詳細地図を広げていたディデリスが顔を上げる。
「入れ」
「失礼いたします」
扉を開けた副隊長が敬礼をし、書状を差し出した。
「トーラ国より、返信が届いております」
ディデリスは副隊長が持ってくるのを待たずに大股で歩み寄ると、奪うように書状を手に取る。
書面に目を落としながら長く沈黙する端正な横顔に、焦 れた副隊長が声をかけた。
「トーラは何と?」
「チェンタ族長国でお目通りをする、と書いてある」
「チェンタ?」
副隊長が眉を寄せ、視線をさまよわせる。
「トーラにわざわざ行くと言ってやったのに?……交渉相手はどんなヤツだ」
私生活では親しく飲みに行く仲でもある、副隊長の口調が砕けた。
「トーラ国レヴィア殿下直属隊、隊長。ジーグ・フリーダ卿」
「ジーグ殿?!」
副隊長の口がぽかんと開く。
「サラマリス家の食客 だった?生きてのかよ……。でも、何だってトーラに」
「さて、なぁ」
書状を握り潰しそうになるのをようやく堪 えて、ディデリスは右の拳 を口元に当てた。
(チェンタか。戦 前にわざわざトーラへ行くと申し出てやったのに。非公式とはいえ、帝国の者がトーラへ入ればスバクル、イハウに対して牽制になるはずだ。それを、あえてチェンタ。開戦前とはいえ、スバクルの足止めくらいはしてやるぞとほのめかしてやった。あいつがそれを汲み取っていないはずがない。場所は……。トーラ・スバクル両国境沿いの街。……ああ、さすがに派兵地にも近いな。だが、帝国からも遠くはない。なぜこの場所を?何を考えている?それほど踏み込ませたくないのか、見せたくないのか)
竜を。
そして、
(報告書のとおり、あいつが隊長か。”見事な赤毛”の竜騎士は、どんな立場だ?)
狼のような目をした剣士を思い出しながら、ディデリスは眉をひそめた。
(あいつのことだ。何重にも裏を読み、何かを画策しているはず。……あいつだけは死んでいれば……。いや、生き残ったのはあいつの手柄か)
翡翠色 の美しい瞳を伏せる横顔に、長い睫毛 が影を落としている。
トーラからの書状を何度も読み返しながら、ディデリスは考えを巡らせ続けた。
身なりを整えたアルテミシアとレヴィアが客間に入ると、すでにクローヴァとジーグも席に着いていた。
ふたりが座るのを待って、ヴァーリがおもむろに口を開く。
「ディアムド帝国から会談の要請があった。我が国の”竜”が耳に入ったようだ」
アルテミシアの顔がさっと強張り、その横でジーグは太く短い息を吐き出した。
「……とうとう動き出したか。では、イハウがこちらの竜の情報を得ていることは、疑いようがありません。ですが、それがセディギア経由のものならば、大した内容でもないかと。帝国は何と?」
「貴君の言うとおりだ、ジーグ殿。向こうも判然たる材料は持っていないようだな」
懐から取り出し開いた書状に、ヴァーリはさっと目を走らせる。
『帝国の竜ではないことを認める。未知の竜には大変興味があり、会談の機会を頂戴したい。現在のトーラ国情勢は帝国でも把握しており、貴国の
「なるほど」
読み上げるヴァーリのディアムド語を聞きながら、ジーグはあごに指を当てた。
(この騒動の陰にイハウがいる。それはもう疑いようがない。それにしても、帝国にしてはずいぶんと下手に出たな。竜の所有を最初からこちらに認めてきたとは)
「書状署名にはどなたが」
ヴァーリは何枚かある書状の、最後の一枚を表にして円卓に広げた。
「テオドーレ皇帝陛下と、赤竜軍第一部隊長、ディデリス・サラマリス公の連名だ」
ヴァーリの指が示した箇所には確かに、ディアムド皇帝と赤竜軍隊長の直筆署名があり、その下には皇帝とサラマリス家の印章が押されている。
「……ディデリス……」
それは、ほとんど聞こえないほどの。
もしかしたら、一心に見つめていなければ、レヴィアでも気づかなかったかもしれない。
吐息のようなアルテミシアのつぶやきを、口の形だけで判別したレヴィアの胸が騒ぐ。
それはアルテミシアがうなされていた、「昔の嫌な夢」で口にしていた名前のはずだ。
なのに、アルテミシアの表情には、どこか懐かしささえ浮かんでいる。
「会談相手は誰を指名してきましたか?場所は……、トーラ国まで来る?帝国が?……これはこれは」
「今回は国交がない両国の、あくまで竜騎士同士の親睦を目的とする会談にしたいと言ってきている」
「親睦」
ヴァーリの言葉を繰り返して、ジーグは皮肉げな笑みを浮かべた。
「これを機に、竜の件も含めた正式交渉につながるものとしたいと書いてあるが」
「一度で済ますつもりがない、ということでしょう」
「帝国は紛争に関与する立場にはないが、この会談はトーラに有利に働くだろうとも」
(あの男らしいな。……
「正直、
片頬で笑うジーグに、ヴァーリもクローヴァも神妙にうなずく。
「イハウの情報を持つと言うのも、伊達ではないでしょう」
「竜の情報を引き出すための、単なる
「
(この男が敵ではなくて、本当に良かった)
胸の内の
出軍は遅らせることはできない。
レゲシュ家の戦闘準備は、完了間近の一報も入っている。
スバクル国に潜入したラシオンたちを、これ以上危うくさせるわけにはいかない。
そのためこの会談は出軍と並行して、別途設けた場所で行う。
今後の予定をそう確認し合ったのち、一番に席を立ったアルテミシアは無言で客間を去っていった。
雪の畑でのひと時など、幻だったのではないか。
そう思うほど閉じた横顔に、レヴィアは声もかけられない。
いても立ってもいられず、レヴィアは廊下に出たジーグをつかまえて、いつにない早口になった。
「別家サラマリスに
「そうだな」
「ディデリスって、ミーシャがうなされてたときの人でしょう」
「……そう、だな」
出会ってから、これほど口の重いジーグは見たことがない。
これ以上は、聞いても答えてはもらえない雰囲気である。
レヴィアは諦めて話題を変えた。
「竜騎士を指定してきたね。僕が出る」
あんな様子のアルテミシアを、追われた帝国との会談になど出したくはない。
まして会談相手の
ディデリス
・サラマリスは、アルテミシアが夢でうなされていた人物だ。表舞台に立つと決めたときから、覚悟はできている。
たとえ帝国の人間であろうと
当然、ジーグはその決意を支持してくれると思っていたのだが。
「いや、レヴィアは出なくていい。お前の存在はできるだけ知られたくない」
ジーグの様子を見れば、それは決定事項のようだ。
「どうして?」
「帝国は甘くない。”親睦を深めるため”などという
ジーグはレヴィアの頭を、少し乱暴なほどの勢いでなでる。
「不確かな要因がある場合、むやみな攻撃は仕掛けられないものだ。お前とスィーニは、トーラの切り札になる。切り札は、ここぞというときに使うんだ」
「じゃあミーシャが出るの?大丈夫なの?」
「……会わせたくは、ないのだがな」
ジーグが重い、重いため息をついた。
◇
帝国首都アマルドの冬は、乾燥した晴天が続く季節だ。
夜遅くまで街燈が灯る街並みの上空に、きらめく星空が広がっている。
だが、赤竜軍第一隊長は窓から見える星々に目をやることもなく、ひたすら書類の山と格闘していた。
コツコツと扉を叩く硬質な音に、トーラ国の詳細地図を広げていたディデリスが顔を上げる。
「入れ」
「失礼いたします」
扉を開けた副隊長が敬礼をし、書状を差し出した。
「トーラ国より、返信が届いております」
ディデリスは副隊長が持ってくるのを待たずに大股で歩み寄ると、奪うように書状を手に取る。
書面に目を落としながら長く沈黙する端正な横顔に、
「トーラは何と?」
「チェンタ族長国でお目通りをする、と書いてある」
「チェンタ?」
副隊長が眉を寄せ、視線をさまよわせる。
「トーラにわざわざ行くと言ってやったのに?……交渉相手はどんなヤツだ」
私生活では親しく飲みに行く仲でもある、副隊長の口調が砕けた。
「トーラ国レヴィア殿下直属隊、隊長。ジーグ・フリーダ卿」
「ジーグ殿?!」
副隊長の口がぽかんと開く。
「サラマリス家の
「さて、なぁ」
書状を握り潰しそうになるのをようやく
(チェンタか。
竜を。
そして、
見事な赤毛
を。(報告書のとおり、あいつが隊長か。”見事な赤毛”の竜騎士は、どんな立場だ?)
狼のような目をした剣士を思い出しながら、ディデリスは眉をひそめた。
(あいつのことだ。何重にも裏を読み、何かを画策しているはず。……あいつだけは死んでいれば……。いや、生き残ったのはあいつの手柄か)
トーラからの書状を何度も読み返しながら、ディデリスは考えを巡らせ続けた。