再会
文字数 2,914文字
アルテミシアは霧の中を歩いていた。
生死の境をさまよって以来、体調が悪くなるたびに、この霧の中を歩く夢を見る。
今回は少し重いらしい。
体にまとわりつく霧も、踏みしめる足元も妙に現実味がある。
濁流に巻かれ打ちつけたあばらは、折れてはいないが、ひびが入っているかもしれないとレヴィアが言っていた。
(このままだと、たどり着いてしまうわね)
アルテミシアは大いにためらうが、何かに導かれるように、足は勝手に歩き続けてしまう。
案の定だ。
突如、見覚えのある、明るい川岸が目の前に開ける。
「あら」
黒髪の麗 しい女性 が、仕方なさそうな笑顔で振り返った。
「また無茶をしたのね、サイーダ。あなたはもう少し、自分を大切にしなくては駄目よ。クレーネを泣かせたくないのならば」
すらりとした褐色の腕がアルテミシアの肩に伸ばされ、そっとなで下ろされる。
「……レヴィの、お母さま……」
アルテミシアがつぶやくと、そのまなざしが瞬時に険しくなった。
「まあ!」
麗 しい人が、両手でアルテミシアの頬を挟む。
「サイーダはクレーネの特別な人でしょう?テムランの娘でしょう?」
レヴィアに似ていると思っていた星の瞳は、今や、あの風雲猛虎を彷彿 とさせる強さでアルテミシアに注がれていた。
「レヴィの、とはなぁに?おかあさまとおっしゃい」
その両手にぐっと力が入って、アルテミシアの頬がつぶれるように寄せられる。
「……おかあ、さま」
漏れたつぶやきが耳に届いた、その瞬間。
嵐の川岸で抱きしめ合っていた、母子 の姿がよみがえった。
――バカ!――
叱りつけながら、ふたりの子供を閉じ込めるように回された母親の腕。
肩掛けを羽織りかけてくれたときの温もりと、あの笑顔。
「お母さま……」
マイヤを「お母さま」と最後に呼んだのは、いつだっただろうか。
だが、そう呼んだときに自分に向けられていたのは、寂しそうでつらそうで、そして、なお愛おしそうなマイヤのまなざしだった。
いくつのころであったのかは、もう覚えていない。
だが、「マイヤを母と呼んではならない」と、バシリウスから注意を受けたときの記憶だ。
サラマリス家の倣 いに従いながら、それでも母は、娘を不憫 に思ってくれたのだろう。
嫋 やかな腕に抱きしめられて、アルテミシアはその肩に顔を伏せる。
「おかあ、さま。……お母さまっ。……ふ、うぅ……」
「そう、悲しいときには泣いていいのよ」
優しい手が何度も何度も、しゃくり上げるアルテミシアの頭をなでた。
「サイーダのお母さまも、ずっとあなたを思っているわ。お父さまも、あなたの弟妹 も。ただ、巫女 の血筋ではないゆえ、この川を越えられないの。思いはわたくしと同じよ」
アルテミシアが顔を上げると、星の瞳が間近で微笑んでいる。
「あなたは魂と体の結びつきが弱くなってしまったのね。わたくしとたびたび巡り合うことも、本当はよくないわ」
もう一度強く抱きしめながら、麗 しい人の唇が、アルテミシアの耳元に寄せられた。
「クレーネのもとに戻ったら、あの子にこう伝えて頂戴 。”大切な天灯 を大地に結びつける重しに、あなたがなりなさい”と」
「天灯 ?」
「スライに聞けばわかるわ。スライにも感謝と愛を伝えてね。それから、内緒のお願いを聞いてもらってもいいかしら」
稚 く笑いながら、麗 しい人の両手がアルテミシアの頬を包み込む。
歌うようなアガラム語での”お願い”を聞きながら、アルテミシアは涙を流し続けた。
高熱が続き、昏々と眠り込んだアルテミシアが目を覚ますと、傍 らにはレヴィアとスライがついていてくれていた。
「また、夢でお会いしたんだ。レヴィの、お母さまに……。お母さまはレヴィとスライに……」
かすれた声で、とつとつとアルテミシアが話しているうちに、スライの瞳がみるみる潤んでいく。
「……少し、席を外し……ます」
終いには部屋を出て行ってしまったスライを、レヴィアはアルテミシアに断りを入れて、追いかけた。
廊下の片隅でうつむく、スライの肩が震えている。
「……スライ……」
その背中に声を掛けると、忠心の従者は涙をこぼしながら、それでも微笑みを浮かべて、レヴィアを振り返った。
「大変申し訳ありませんでした。……ご幼少のリーラ様と、夏の夜に放した天灯 が思い出されまして」
「天灯 って、なあに?」
懐 から取り出した布で、レヴィアはそっとスライの涙を拭 う。
「アガラムの鎮魂行事で使用する物です。空に昇った魂へ、遺 された者の思いを届けるために、気球を上げるのです。……そして、アガラムで”天灯 の人”と言えば、気移りが心配な恋人のことを指します。リーラ様は心というよりも、魂の心配をなさっていらっしゃるのでしょう。これほど頻繁 に巫女 の魂と見 えるなど、あってはならないことです」
スライの憂い顔が深くなった。
「サイーダはもともと、生きることに執着されていらっしゃらない。だからこそ、身を捨てるような戦い方ができるのです。今はさらに」
(ああ、そうか。アルテミシアは……)
生きていたいわけじゃないのに、日々をやり過ごすあの虚しさ。
それはレヴィアにも覚えがあった。
それでも。
「でも、ミーシャは帰ってきてくれた。ここに、僕のところに。泣き虫って、食事をちゃんとしろって、怒ってくれる」
「ええ、そうですとも」
しわの刻まれたスライの目じりが、柔らかく下がった。
「サイーダをこの世に引き止める重しに、レヴィア様がおなりなさいと、リーラ様はおっしゃっているのです。レヴィア様のために生きたい。そうサイーダが思えるようになれば、魂の川岸に行くこともなくなるでしょう。それは、レヴィア様のお望みでもあるでしょう?」
意味ありげな瞳を向けられて、レヴィアの頬がたちまち赤くなる。
「うん、そう、なんだけど、あの……」
「ですが、アルテミシア様は難しいですよ」
アタフタするレヴィアに向けられる、スライの表情は厳しい。
「特別を持たないようにしている人の、特別になるのは」
「うん。あの、わかってる。僕は強くなるよ、もっと。守られるばかりじゃなくて、ミーシャをちゃんと守れるように。……でも、あのね。どうすれば、男として見てもらえると思う?」
「それくらいは、まずご自分でお考えなさい」
日ごろ、レヴィアには甘いスライなのに。
珍しくぴしゃりと突き放されて、レヴィアの眉が下がる。
「大切な人を手に入れたいのでしょう?最初から他人をあてにして、どうします。そんな情けないことでは、あのマウラ・サイーダの心は、レヴィア様のものにはなりません」
ますます眉を下げるレヴィアに、スライはふっと、従者らしからぬ笑みを浮かべた。
「いろいろ試してみたらいかがですか?お手上げの際にはご相談ください。おふたりのことは、みんなが応援したいと思っておりますから。私でなくても、嫌というほど知恵を貸してくれるでしょう。とくに、ラシオン殿などは」
「ラ、ラシオンは、いい」
「とんでもない」と慌てて両手を振る、その照れて取り乱した様子は、とても「壮烈な青騎士」という二つ名を持つ少年だとは思えない。
目に涙を浮かべたまま、スライは肩を震わせて笑い始めた。
生死の境をさまよって以来、体調が悪くなるたびに、この霧の中を歩く夢を見る。
今回は少し重いらしい。
体にまとわりつく霧も、踏みしめる足元も妙に現実味がある。
濁流に巻かれ打ちつけたあばらは、折れてはいないが、ひびが入っているかもしれないとレヴィアが言っていた。
(このままだと、たどり着いてしまうわね)
アルテミシアは大いにためらうが、何かに導かれるように、足は勝手に歩き続けてしまう。
案の定だ。
突如、見覚えのある、明るい川岸が目の前に開ける。
「あら」
黒髪の
「また無茶をしたのね、サイーダ。あなたはもう少し、自分を大切にしなくては駄目よ。クレーネを泣かせたくないのならば」
すらりとした褐色の腕がアルテミシアの肩に伸ばされ、そっとなで下ろされる。
「……レヴィの、お母さま……」
アルテミシアがつぶやくと、そのまなざしが瞬時に険しくなった。
「まあ!」
「サイーダはクレーネの特別な人でしょう?テムランの娘でしょう?」
レヴィアに似ていると思っていた星の瞳は、今や、あの風雲猛虎を
「レヴィの、とはなぁに?おかあさまとおっしゃい」
その両手にぐっと力が入って、アルテミシアの頬がつぶれるように寄せられる。
「……おかあ、さま」
漏れたつぶやきが耳に届いた、その瞬間。
嵐の川岸で抱きしめ合っていた、
――バカ!――
叱りつけながら、ふたりの子供を閉じ込めるように回された母親の腕。
肩掛けを羽織りかけてくれたときの温もりと、あの笑顔。
「お母さま……」
マイヤを「お母さま」と最後に呼んだのは、いつだっただろうか。
だが、そう呼んだときに自分に向けられていたのは、寂しそうでつらそうで、そして、なお愛おしそうなマイヤのまなざしだった。
いくつのころであったのかは、もう覚えていない。
だが、「マイヤを母と呼んではならない」と、バシリウスから注意を受けたときの記憶だ。
サラマリス家の
「おかあ、さま。……お母さまっ。……ふ、うぅ……」
「そう、悲しいときには泣いていいのよ」
優しい手が何度も何度も、しゃくり上げるアルテミシアの頭をなでた。
「サイーダのお母さまも、ずっとあなたを思っているわ。お父さまも、あなたの
アルテミシアが顔を上げると、星の瞳が間近で微笑んでいる。
「あなたは魂と体の結びつきが弱くなってしまったのね。わたくしとたびたび巡り合うことも、本当はよくないわ」
もう一度強く抱きしめながら、
「クレーネのもとに戻ったら、あの子にこう伝えて
「
「スライに聞けばわかるわ。スライにも感謝と愛を伝えてね。それから、内緒のお願いを聞いてもらってもいいかしら」
歌うようなアガラム語での”お願い”を聞きながら、アルテミシアは涙を流し続けた。
高熱が続き、昏々と眠り込んだアルテミシアが目を覚ますと、
「また、夢でお会いしたんだ。レヴィの、お母さまに……。お母さまはレヴィとスライに……」
かすれた声で、とつとつとアルテミシアが話しているうちに、スライの瞳がみるみる潤んでいく。
「……少し、席を外し……ます」
終いには部屋を出て行ってしまったスライを、レヴィアはアルテミシアに断りを入れて、追いかけた。
廊下の片隅でうつむく、スライの肩が震えている。
「……スライ……」
その背中に声を掛けると、忠心の従者は涙をこぼしながら、それでも微笑みを浮かべて、レヴィアを振り返った。
「大変申し訳ありませんでした。……ご幼少のリーラ様と、夏の夜に放した
「
「アガラムの鎮魂行事で使用する物です。空に昇った魂へ、
スライの憂い顔が深くなった。
「サイーダはもともと、生きることに執着されていらっしゃらない。だからこそ、身を捨てるような戦い方ができるのです。今はさらに」
(ああ、そうか。アルテミシアは……)
生きていたいわけじゃないのに、日々をやり過ごすあの虚しさ。
それはレヴィアにも覚えがあった。
それでも。
「でも、ミーシャは帰ってきてくれた。ここに、僕のところに。泣き虫って、食事をちゃんとしろって、怒ってくれる」
「ええ、そうですとも」
しわの刻まれたスライの目じりが、柔らかく下がった。
「サイーダをこの世に引き止める重しに、レヴィア様がおなりなさいと、リーラ様はおっしゃっているのです。レヴィア様のために生きたい。そうサイーダが思えるようになれば、魂の川岸に行くこともなくなるでしょう。それは、レヴィア様のお望みでもあるでしょう?」
意味ありげな瞳を向けられて、レヴィアの頬がたちまち赤くなる。
「うん、そう、なんだけど、あの……」
「ですが、アルテミシア様は難しいですよ」
アタフタするレヴィアに向けられる、スライの表情は厳しい。
「特別を持たないようにしている人の、特別になるのは」
「うん。あの、わかってる。僕は強くなるよ、もっと。守られるばかりじゃなくて、ミーシャをちゃんと守れるように。……でも、あのね。どうすれば、男として見てもらえると思う?」
「それくらいは、まずご自分でお考えなさい」
日ごろ、レヴィアには甘いスライなのに。
珍しくぴしゃりと突き放されて、レヴィアの眉が下がる。
「大切な人を手に入れたいのでしょう?最初から他人をあてにして、どうします。そんな情けないことでは、あのマウラ・サイーダの心は、レヴィア様のものにはなりません」
ますます眉を下げるレヴィアに、スライはふっと、従者らしからぬ笑みを浮かべた。
「いろいろ試してみたらいかがですか?お手上げの際にはご相談ください。おふたりのことは、みんなが応援したいと思っておりますから。私でなくても、嫌というほど知恵を貸してくれるでしょう。とくに、ラシオン殿などは」
「ラ、ラシオンは、いい」
「とんでもない」と慌てて両手を振る、その照れて取り乱した様子は、とても「壮烈な青騎士」という二つ名を持つ少年だとは思えない。
目に涙を浮かべたまま、スライは肩を震わせて笑い始めた。