再会

エピソード文字数 3,006文字

 アルテミシアは霧の中を歩いていた。
 生死の境をさまよって以来、体調が悪くなるたびに、この霧の中を歩く夢を見る。
 今回は少し重いらしい。
 体にまとわりつく霧も、踏みしめる足元も。妙に実体感がある。
 濁流に巻かれ打ちつけたあばらは、折れてはいないが、ひびが入っているかもしれないとレヴィアが言っていた。
(このままだと、たどり着いてしまうな)
 アルテミシアは大いにためらうが、何かに導かれるように、足は勝手に歩き続けてしまう。
 
 案の定だ。
 見覚えのある、明るい川岸が目の前に開けた。
「あら」
 黒髪の(うるわ)しい女性(ひと)が、仕方なさそうな笑顔で振り返った。
「また無茶をしたのね、サイーダ。あなたはもう少し、自分を大切にしなくては駄目よ。クレーネを泣かせたくないのならば」
 すらりとした褐色の腕がアルテミシアの肩に伸ばされ、そっとなで下ろされる。
「…レヴィの、おかあさま…」
 アルテミシアがつぶやくと、そのまなざしが瞬時に険しくなった。
「まあ!」
 (うるわ)しい人が両手でアルテミシアの(ほほ)を包みこむ。
「サイーダはクレーネの特別な人でしょう?テムランの娘でしょう?」
 レヴィアに似ていると思っていた星の瞳は、今や、あの風雲猛虎を彷彿(ほうふつ)とさせる強さで、アルテミシアに注がれていた。
「レヴィの、とはなぁに?おかあさまとおっしゃい」
 (ほほ)に添えられた両手にぐっと力が入る。
「…おかあ、さま」
 アルテミシアの瞳から、一筋の涙が流れた。 
 嵐の川岸で、我が子を胸に抱きしめていた母親の姿。羽織りかけてくれた肩掛けの、あの温もり。
 おかあさま。
 その一言が、アルテミシアの胸を揺さぶる。
 マイヤを「おかあさま」と最後に呼んだのは、いつだっただろうか。呼んでいた記憶さえ、もう(おぼろ)だ。
 だが「おかあさま」と口にした途端(とたん)、自分に向けられていた、寂しそうで辛そうで、そしてなお愛おしそうなマイヤのまなざしを思い出した。
 いくつのころであったのかは、もう覚えていない。だが「マイヤを母と呼んではならない」と、バシリウスから注意を受けたときの記憶だ。
 サラマリス家の(なら)いに従いながら、それでも母は娘を不憫(ふびん)に思ってくれていた。
 愛してくれていた。
 (たお)やかな腕がアルテミシアを抱きしめる。
 その肩に顔を伏せて、アルテミシアはしゃくりあげ始めた。幼子のときには許されなかった泣き方をしながら、母を呼んだ。
「おかあ、さま。…おかあさまっ」
「サイーダのお母さまも、ずっとあなたを思っているわ。お父さまも、あなたの弟妹も。ただ巫女(みこ)の血筋ではないゆえ、この川を越えられないの。思いはわたくしと同じよ」
 アルテミシアが顔を上げると、間近に笑みを浮かべた星の瞳があった。
「あなたは、魂と体の結びつきが弱くなってしまったのね。わたくしとたびたび巡り合うことも、本当はよくないわ」
 もう一度強く抱きしめながら、(うるわ)しい人の口が、アルテミシアの耳元に寄せられる。
「クレーネのもとに戻ったら、あの子にこう伝えて頂戴(ちょうだい)。“大切な天灯(てんとう)を大地に結びつける重しに、あなたがなりなさい”と」
天灯(てんとう)?」
 アルテミシアの首が(かし)ぐ。
「スライに聞けばわかるわ。スライにも、感謝と愛を伝えてね。それから、内緒のお願いを聞いてもらってもいいかしら」
 (いとけな)く微笑みながら、(うるわ)しい人がアルテミシアの髪を優しくなでた。

 一昼夜高熱が続いたアルテミシアが目を覚ますと、(かたわ)らにはレヴィアと、アガラムから戻ったスライがついていてくれていた。
 夢で会ったリーラの言葉を、アルテミシアは二人に伝える。
 その話の途中から、スライは短い声を上げて泣き出し、終いには部屋を出て行ってしまった。
 レヴィアはアルテミシアに断りを入れ、その背中を追いかけた。
 廊下の片隅でうつむく、スライの肩が震えている。
「…スライ…」
 ためらいながら、レヴィアはその背中に声を掛けた。
 忠心の従者は涙を(こぼ)しながら、それでも微笑みを浮かべて振り返った。
「失礼いたしました。ご幼少のリーラ様と、夏の夜に放した天灯(てんとう)が思い出されまして」
天灯(てんとう)って、なあに?」
 (ふところ)から取り出した布で、そっとスライの涙を(ぬぐ)いながらレヴィアは尋ねる。
「アガラムの鎮魂行事で使用する物です。空に昇った魂へ、(のこ)された者の思いを届けるために、気球を上げるのです。…そしてアガラムでは、“天灯(てんとう)の人”と言えば、気移りが心配な恋人のことを指します。リーラ様は心というよりも、魂の心配をなさっていらっしゃるのでしょう。これほど頻繁(ひんぱん)巫女(みこ)の魂と(まみ)えるなど、あってはならないことです」
 スライの憂い顔が深くなった。
「サイーダはもともと、生きることにそれほど執着されていらっしゃらない。だからこそ、身を捨てるような戦い方ができるのです。今はさらに」
 生きていたいわけじゃないのに、日々をやり過ごすあの虚しさ。それはレヴィアにも覚えがあった。それでも。
 レヴィアの断固とした瞳がスライに向けられる。
「でも、ミーシャは、帰ってきてくれた。ここに。僕のところに。泣き虫って、食事をちゃんとしろって、怒ってくれる」
「ええ、そうですとも」
 しわの刻まれたスライの目じりが、柔らかく下がった。
「サイーダをこの世に引き止める重しに、レヴィア様がおなりなさいと、リーラ様はおっしゃっているのです。レヴィア様のために生きたいとサイーダが思えるようになれば、魂の川岸に行くこともなくなるでしょう。それは、レヴィア様のお望みでもあるのでしょう?」
 意味ありげな瞳を向けられ、レヴィアはたちまち赤面する。
「うん、そう、なんだけど、あの…」
 どうしてみんな、自分の気持ちを知っているのだろう。
「ですが、アルテミシア様は難しいですよ」
 スライの真剣なまなざしを、レヴィアは頼りない表情で見返した。
「うん。あの、僕は強くなるよ、もっと。ミーシャをちゃんと守れるくらい。…でも、どうすれば、男として見てもらえると思う?」
「それくらいは、まずご自分でお考えなさい」
 日ごろレヴィアに甘いスライから、珍しく、ぴしゃりと突き放されてしまった。
「大切な人を手に入れたいのでしょう?最初から他人をあてにしてどうします。そんな情けないことでは、あのマウラ・サイーダの心は、レヴィア様のものにはなりません」
 困ったように(まゆ)を下げるレヴィアに、スライはふっと、従者らしからぬ笑みを浮かべた。
「いろいろ試してみたらいかがですか?お手上げの際にはご相談下さい。お二人のことは、皆応援したいと思っておりますよ。私でなくても、嫌というほど知恵を貸してくれるでしょう。特にラシオン殿などは」
「ラ、ラシオンは、いい」
 とんでもないと、レヴィアは慌てて両手を振る。
 その照れて取り乱した仕草は、「壮烈な青騎士」という二つ名を持つ少年だとは、とても思えない。
 目を赤くしたまま、スライは肩を震わせて笑い始めた。
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