凍える歌
文字数 3,838文字
レヴィアとの出会いを果たしてから、アルテミシアの顔色は日を追うごとによくなっていった。
薬湯 も食事も。
細かな配慮を欠かさないレヴィアに感謝しかないアルテミシアだが、その腕の良さにも驚かされてばかりだった。
「ジーグよりうまい」
「六つくらいのときから、やってた、から」
「六つ?!そんな小さなときから料理を?」
「園丁が、教えてくれたんだ」
「味付けも?」
「コツさえつかめば、簡単、だよ」
「本当に?こんなに美味しいものを、そんな小さなころから……。それで、そのコツっていうのは」
アルテミシアは食事のたびに、それはもう根掘り葉掘り。
毎回毎回。
レヴィアがタジタジとなるほど、質問攻めをするのが恒例となっていった。
そんな日々のなか。
「また夜中に目が覚めたんだ。最近、あんまり眠れない」
レヴィアが調理する背中を見守っていたアルテミシアが、思わずといった風情でこぼした。
「続いてる、の?。それは、つらい、ね。……お茶、飲んでみる?」
ふたり分の料理を盛りつけていた手を止めて、レヴィアはちらっと薬草棚に目をやる。
「新しい薬湯 か?」
「薬、というか……。お茶になる薬草も、あるんだ。ちょっと、待ってて」
「仕事中じゃないか。今はいい」
「そんな、手間、じゃないよ。お茶を淹 れるくらい」
「そうか?……いつも悪いな」
「悪い?どうして?」
「面倒ばかりかける」
「当たり前、だよ?だって……。ミーシャは、僕の初めての患者さん、なんだから」
はにかんだ笑顔を見せて、レヴィアはいそいそと薬草棚へと向かった。
春の野原のような香りが立ちのぼる茶碗を手にして、アルテミシアは大きく息を吸い込んだ。
「香りだけでも、呼吸が楽になるみたいだ」
「ほんと?味は、どう?」
一口飲んだアルテミシアに、たちまち満面の笑みが浮かぶ。
「優しい味がする。おいしい。それに案外、簡単なんだな。今度やってみる」
料理を作業机に並べていたジーグの眉間に、たちまち深いシワが刻まれた。
「レヴィアがいないときには、
「自分でやる」
「新たな火傷 でもして、レヴィアの治療を無駄になさるおつもりですか」
「でも」
「なりません」
「だけど」
「いけません」
頑として譲らないジーグに、アルテミシアの頬 がふくらむ。
「火を、使わせたくない、の?えっと、それなら……」
「ああ、気にしなくていいから」
難しい顔をして考え込み始めたレヴィアに、アルテミシアはおどけた笑顔を作ってみせた。
◇
その日の夜は、初夏とは思えないほどの寒風 が街を襲った。
北国トーラの北限に位置する、ここトレキバ特有の、季節外れの寒気の戻りだ。
遅霜 の対策をするため、夜の畑に戻ったレヴィアは、納屋へ向かおうとしていた足を止める。
「……ミーシャ?」
小屋脇の作業台の上で膝 を抱 え、月明かりに照らされて夜空を見上げている姿に、まさかと思いながらも近づいていった。
「レヴィア?もう夜中だぞ。どうした」
「ミーシャこそ。眠れない?お茶、淹 れる?」
「ん。でも、大丈夫。水場を使うと、ジーグを起こしてしまうから」
レヴィアはぱちくりと瞬きをして、小首を傾 げる。
あれだけ主 に尽くしている従者が、その抜け出した気配を見逃すとは思えないのだが。
黙り込んだふたりの間を、冷たい風が吹きすぎていく。
畑を囲む木々が黒々とした影絵のように揺れた。
「くしゅんっ」
「大丈夫?これから、まだ寒くなるよ。もう、小屋に入ったら?」
だが、アルテミシアは首を小さく横に振って動こうとはしない。
「レヴィアは?これから何かするつもりか?こんな夜遅くに」
「苗が、ダメになると、いけないから。……ちょっと待ってて」
しばらくして戻ってきたレヴィアは、抱えていた毛布をアルテミシアの肩にかけた。
「はい、どうぞ」
「暖かいな……。フワフワだ」
白地に青の幾何学 模様が織り込まれた毛布に頬を寄せ、アルテミシアは微笑む。
「園丁が、くれたんだ。まだ今日みたいな日もあるから、よかったら、使って」
アルテミシアの縮こまっていた体が少し緩んだようで、レヴィアはほっとしながら納屋へと向かった。
鼻まで毛布に埋もれたアルテミシアの見守る先で、最後の苗の根元に干し草を敷き詰めたレヴィアが、ひょいと体を起こした。
振り返ると、毛布から指先を出したアルテミシアが、ちょいちょいと手招きをしている。
畑の畝 をまっしぐらに走り寄ってくるレヴィアは、まるで子うさぎのようで。
アルテミシアの口元に、知らず笑みが浮かんだ。
「終わったか?」
「うん」
「いつも、こんな遅くまで作業をしてるのか?」
「ううん。今日は、特別。……くちゅっ」
ぶるりと体を震わせて顔を擦 るレヴィアは、今度は栗鼠 のように可愛い。
「ふふっ。ほら、おいで。寒いだろう?」
「寒くない。……ミーシャ、もう、小屋に入って」
体に巻き付けた毛布ごと右腕を広げるアルテミシアに、レヴィアはくるりと背中を向けてしまう。
「まだ眠くないんだ」
寂しそうな声に思わずレヴィアが振り返ると、月影が落ちるアルテミシアの姿はなぜだか薄く、頼りなさそうに見えた。
暗い畑に残していくことを、後ろめたく思うほど。
「えと……」
「もう少し一緒にいてくれないか?」
「……うん」
ためらいながら、レヴィアは作業台の端にちょこんと腰掛けたのだが。
「えいっ」
「わあ!……あ、あの、離して、ミーシャっ」
ケガの癒えていない少女の、どこにこんな力があるのだろう。
レヴィアがもがいても、抱き着いてきたアルテミシアの拘束は揺るがない。
「ほら、大人しくして。……だって、温かいだろう?誰かと一緒なら」
少しかすれて、まるで泣き出しそうな声にレヴィアは抵抗をやめた。
「……ほんとだ。あったかい。……母さまも、温かかったのかな」
「レヴィアのお母様は……」
「もうずっと前に、死んじゃった。ちょっとしか、覚えてないんだ。優しい声をしてた。なでてくれたと思うし、笑った顔も覚えてる、つもり……。でも」
レヴィアの瞳が思い出を探 って遠くなる。
「それは、僕がそうだったらいいなって、想像しただけかも。だって、誰かと一緒だと、こんなに温かいって、……知らなかった……」
「レヴィア」
アルテミシアは小さな頭に手を添え、頬 を寄せた。
「私は想像じゃないぞ」
「うん」
髪をなでられるまま、レヴィアは小さくうなずく。
「私はここにいる。レヴィアと一緒にいる。ここで、生きている」
「うん。ミーシャは、ここにいて、僕を、温めてくれている」
レヴィアの小さな手がおずおずと伸ばされ、アルテミシアの指先に軽く触れた。
「ありがとう」
見上げたレヴィアの瞳に映る満月が美しい。
解 け切れない硬さが残るレヴィアを見つめ返しながら、アルテミシアの胸には、痛いほどの切なさがあふれていった。
食事の仕度 をするレヴィアの手際 のよさに感心したジーグが、頭をなでようとしたときのことだ。
大きな手が触れた瞬間レヴィアは体を縮め、素早く両手で全身をかばった。
「っ。……すまない」
ジーグの手が離れても、レヴィアの体の震えは収まらない。
「あの、……あの。ごめん、なさい。もう、行くね」
アルテミシアはそのときは声もかけられずに、逃げるように出ていく小さな背中を見送るしかなかった。
この手はレヴィアを傷つけるものではないのだと伝えたくて、アルテミシアは細い肩に回した腕に力を込める。
アルテミシアの指先に添えられた、冷たかった小さな手が少しずつ温 まっていった。
「レヴィアは……」
アルテミシアは言葉を探す。
優しいとか、好ましいとか。
そのとおりだけれど、どれもしっくりとこない。
「レヴィアは、可愛いな」
選んだ言葉は、結局レヴィアをむすっとさせてしまったけれど。
普段は感情を表に出す性質 ではないから、その表情の小さな変化でさえ、アルテミシアには嬉しかった。
「レヴィアを見ていると、双子の弟妹 を思い出すんだ」
「弟妹 が、いるの?」
「
慟哭 を内包して、アルテミシアの声が微かに震えている。
もう、彼女は弟妹 には会えないのだ。
覚ったレヴィアは少しだけアルテミシアに体を寄せて、ふと口を開く。
「……ミーシャ、僕、もうひとつ思い出せたよ。母さまの声を。……ときどき、歌ってた」
夜空を見上げて、細く高い声でレヴィアは歌い始めた。
「”懐かしく愛しい、遥 かなる者。今は安らぎ、静かに眠る。愛を届け、祈り届け。苦しみも悲しみも、遠い世界。愛を届け、祈り届け”」
静かな異国の調べが、夜に流れていく。
「それはアガラムの歌?どんな意味?」
「……遠くにいる大好きな人が、もう苦しまないで、安らいでいますように。愛と祈りを、届けて下さい……」
レヴィアの指先を強く握るアルテミシアの瞳から、小さな雫がぽたぽたと毛布に散っていった。
「……もう一度歌って、レヴィ」
乞われるまま、レヴィアは寥寥 とした声で歌う。
何度も、何度も。
レヴィアの歌を聞きながら眺める星空が、涙でにじんでいく。
濡れる頬に吹き付ける風は冷たい。
けれど、レヴィアと包 まる毛布のなかは温かかった。
それから、儚 げなふたつの影はしばらくの間。
寄り添いながら、互いのぬくもりを分け合っていた。
小屋の中、細く開けられた木窓の脇には、大柄な影がひとつ。
腕を組んで壁にもたれている影は、繰り返される歌声に耳を傾けながら、そっと目を閉じた。
細かな配慮を欠かさないレヴィアに感謝しかないアルテミシアだが、その腕の良さにも驚かされてばかりだった。
「ジーグよりうまい」
「六つくらいのときから、やってた、から」
「六つ?!そんな小さなときから料理を?」
「園丁が、教えてくれたんだ」
「味付けも?」
「コツさえつかめば、簡単、だよ」
「本当に?こんなに美味しいものを、そんな小さなころから……。それで、そのコツっていうのは」
アルテミシアは食事のたびに、それはもう根掘り葉掘り。
毎回毎回。
レヴィアがタジタジとなるほど、質問攻めをするのが恒例となっていった。
そんな日々のなか。
「また夜中に目が覚めたんだ。最近、あんまり眠れない」
レヴィアが調理する背中を見守っていたアルテミシアが、思わずといった風情でこぼした。
「続いてる、の?。それは、つらい、ね。……お茶、飲んでみる?」
ふたり分の料理を盛りつけていた手を止めて、レヴィアはちらっと薬草棚に目をやる。
「新しい
「薬、というか……。お茶になる薬草も、あるんだ。ちょっと、待ってて」
「仕事中じゃないか。今はいい」
「そんな、手間、じゃないよ。お茶を
「そうか?……いつも悪いな」
「悪い?どうして?」
「面倒ばかりかける」
「当たり前、だよ?だって……。ミーシャは、僕の初めての患者さん、なんだから」
はにかんだ笑顔を見せて、レヴィアはいそいそと薬草棚へと向かった。
春の野原のような香りが立ちのぼる茶碗を手にして、アルテミシアは大きく息を吸い込んだ。
「香りだけでも、呼吸が楽になるみたいだ」
「ほんと?味は、どう?」
一口飲んだアルテミシアに、たちまち満面の笑みが浮かぶ。
「優しい味がする。おいしい。それに案外、簡単なんだな。今度やってみる」
料理を作業机に並べていたジーグの眉間に、たちまち深いシワが刻まれた。
「レヴィアがいないときには、
私に
お申し付けください」「自分でやる」
「新たな
「でも」
「なりません」
「だけど」
「いけません」
頑として譲らないジーグに、アルテミシアの
「火を、使わせたくない、の?えっと、それなら……」
「ああ、気にしなくていいから」
難しい顔をして考え込み始めたレヴィアに、アルテミシアはおどけた笑顔を作ってみせた。
◇
その日の夜は、初夏とは思えないほどの
北国トーラの北限に位置する、ここトレキバ特有の、季節外れの寒気の戻りだ。
「……ミーシャ?」
小屋脇の作業台の上で
「レヴィア?もう夜中だぞ。どうした」
「ミーシャこそ。眠れない?お茶、
「ん。でも、大丈夫。水場を使うと、ジーグを起こしてしまうから」
レヴィアはぱちくりと瞬きをして、小首を
あれだけ
黙り込んだふたりの間を、冷たい風が吹きすぎていく。
畑を囲む木々が黒々とした影絵のように揺れた。
「くしゅんっ」
「大丈夫?これから、まだ寒くなるよ。もう、小屋に入ったら?」
だが、アルテミシアは首を小さく横に振って動こうとはしない。
「レヴィアは?これから何かするつもりか?こんな夜遅くに」
「苗が、ダメになると、いけないから。……ちょっと待ってて」
しばらくして戻ってきたレヴィアは、抱えていた毛布をアルテミシアの肩にかけた。
「はい、どうぞ」
「暖かいな……。フワフワだ」
白地に青の
「園丁が、くれたんだ。まだ今日みたいな日もあるから、よかったら、使って」
アルテミシアの縮こまっていた体が少し緩んだようで、レヴィアはほっとしながら納屋へと向かった。
鼻まで毛布に埋もれたアルテミシアの見守る先で、最後の苗の根元に干し草を敷き詰めたレヴィアが、ひょいと体を起こした。
振り返ると、毛布から指先を出したアルテミシアが、ちょいちょいと手招きをしている。
畑の
アルテミシアの口元に、知らず笑みが浮かんだ。
「終わったか?」
「うん」
「いつも、こんな遅くまで作業をしてるのか?」
「ううん。今日は、特別。……くちゅっ」
ぶるりと体を震わせて顔を
「ふふっ。ほら、おいで。寒いだろう?」
「寒くない。……ミーシャ、もう、小屋に入って」
体に巻き付けた毛布ごと右腕を広げるアルテミシアに、レヴィアはくるりと背中を向けてしまう。
「まだ眠くないんだ」
寂しそうな声に思わずレヴィアが振り返ると、月影が落ちるアルテミシアの姿はなぜだか薄く、頼りなさそうに見えた。
暗い畑に残していくことを、後ろめたく思うほど。
「えと……」
「もう少し一緒にいてくれないか?」
「……うん」
ためらいながら、レヴィアは作業台の端にちょこんと腰掛けたのだが。
「えいっ」
「わあ!……あ、あの、離して、ミーシャっ」
ケガの癒えていない少女の、どこにこんな力があるのだろう。
レヴィアがもがいても、抱き着いてきたアルテミシアの拘束は揺るがない。
「ほら、大人しくして。……だって、温かいだろう?誰かと一緒なら」
少しかすれて、まるで泣き出しそうな声にレヴィアは抵抗をやめた。
「……ほんとだ。あったかい。……母さまも、温かかったのかな」
「レヴィアのお母様は……」
「もうずっと前に、死んじゃった。ちょっとしか、覚えてないんだ。優しい声をしてた。なでてくれたと思うし、笑った顔も覚えてる、つもり……。でも」
レヴィアの瞳が思い出を
「それは、僕がそうだったらいいなって、想像しただけかも。だって、誰かと一緒だと、こんなに温かいって、……知らなかった……」
「レヴィア」
アルテミシアは小さな頭に手を添え、
「私は想像じゃないぞ」
「うん」
髪をなでられるまま、レヴィアは小さくうなずく。
「私はここにいる。レヴィアと一緒にいる。ここで、生きている」
「うん。ミーシャは、ここにいて、僕を、温めてくれている」
レヴィアの小さな手がおずおずと伸ばされ、アルテミシアの指先に軽く触れた。
「ありがとう」
見上げたレヴィアの瞳に映る満月が美しい。
食事の
大きな手が触れた瞬間レヴィアは体を縮め、素早く両手で全身をかばった。
「っ。……すまない」
ジーグの手が離れても、レヴィアの体の震えは収まらない。
「あの、……あの。ごめん、なさい。もう、行くね」
アルテミシアはそのときは声もかけられずに、逃げるように出ていく小さな背中を見送るしかなかった。
この手はレヴィアを傷つけるものではないのだと伝えたくて、アルテミシアは細い肩に回した腕に力を込める。
アルテミシアの指先に添えられた、冷たかった小さな手が少しずつ
「レヴィアは……」
アルテミシアは言葉を探す。
優しいとか、好ましいとか。
そのとおりだけれど、どれもしっくりとこない。
「レヴィアは、可愛いな」
選んだ言葉は、結局レヴィアをむすっとさせてしまったけれど。
普段は感情を表に出す
「レヴィアを見ていると、双子の
「
「
いたんだ
。まだ九つで、本当に可愛くて……。なのに、助けてやれなくて……」もう、彼女は
覚ったレヴィアは少しだけアルテミシアに体を寄せて、ふと口を開く。
「……ミーシャ、僕、もうひとつ思い出せたよ。母さまの声を。……ときどき、歌ってた」
夜空を見上げて、細く高い声でレヴィアは歌い始めた。
「”懐かしく愛しい、
静かな異国の調べが、夜に流れていく。
「それはアガラムの歌?どんな意味?」
「……遠くにいる大好きな人が、もう苦しまないで、安らいでいますように。愛と祈りを、届けて下さい……」
レヴィアの指先を強く握るアルテミシアの瞳から、小さな雫がぽたぽたと毛布に散っていった。
「……もう一度歌って、レヴィ」
乞われるまま、レヴィアは
何度も、何度も。
レヴィアの歌を聞きながら眺める星空が、涙でにじんでいく。
濡れる頬に吹き付ける風は冷たい。
けれど、レヴィアと
それから、
寄り添いながら、互いのぬくもりを分け合っていた。
小屋の中、細く開けられた木窓の脇には、大柄な影がひとつ。
腕を組んで壁にもたれている影は、繰り返される歌声に耳を傾けながら、そっと目を閉じた。