動き出す心 -ミーシャー
文字数 2,560文字
離宮兵舎の休憩室では、恐慌状態のヴァイノがウロウロと歩き回っている。
「ふ、ふくちょが、女、だったっ!」
「落ち着け、ヴァイノ。深呼吸しろ」
「……うっそだろ、まじで?ありえねぇよ」
罠 にかかった獣のようになっているヴァイノの耳には、リズワンの声も耳に入らないようだ。
「女だった!」
「うるさいっ」
「目ざわり!」
「いってぇ!」
アスタとメイリの拳 を銀髪に受けたヴァイノは、頭を押せて床にしゃがみこむ。
あらかじめジーグから指示をされた場所に潜 んでいた愚連隊は、王子たちを称賛する言葉を絶妙な頃合いで叫んだ。
「よくやった!想定以上の働きだ」
市民たちが熱狂する声を背に、ジーグが愚連隊一人ひとりの頭をなでていく。
だが、いつもなら飛び上がるほど嬉しいジーグの賛辞も、市民たちの喧騒も。
耳を素通りさせたヴァイノは、漆黒の体に赤い稲妻模様の竜に乗る騎士を、見つめるばかりだ。
長い紅色の巻き髪を風に任せて、凛と背筋を伸ばして笑っている、そのひとを。
いつもの稽古 が、どれほど手加減されたものであったか。
それがよくわかった。心底わかった。
本気で挑 まれたら、自分など瞬殺だ。
なんて人にケンカを吹っ掛けてしまったのか。
本当に身の程知らずだったのだ。
トレキバの夜明けを思い出して、ヴァイノの背が震える。
「女の、人……。あんな強いのに」
「ぜんっぜん気がつかなかった……」
「お疲れ!よい働きだったな!」
トーレとスヴァンも呆然とするなか、レヴィアをともなったアルテミシアが姿を現した。
「ふっ、ふくちょっ!」
ヴァイノの声が裏返る。
「なんだ、その声。そんなに驚かせたか?」
ピョン!と立ち上がったヴァイノを見て、アルテミシアが吹き出した。
「騙 すような真似をしていて悪かったな。隊が形になるまで、どうしても竜と、竜騎士たる私を表に出せなかったんだ。改めて、アルテミシア・テムランだ。よろしくな」
「アルテ、ミシア、様?」
「アルテミシ、ア様」
「あーてみ?みーしや様?」
スヴァンとトーレは詰まりながらも正しく発音するが、ヴァイノだけが、トーラ訛 りで苦労している。
「無理するな、副長で構わないぞ。……ふふ。会ったばかりのレヴィアみたいだ」
アルテミシアがヴァイノに向ける笑顔が目に入った瞬間に、レヴィアの黒い瞳から温度と表情が失われた。
「ヴァイノ、アスタ、明日から正式にフリーダ隊員だ。あとで隊服も届くから、大きさが合うか確認してくれ」
「ほんと?!やっったぁ!オレ、すっげぇがんばる!」
「ああ、期待している。でも、ヴァイノの騎馬術は今ひとつだからな。精進しろ」
アルテミシアがヴァイノの肩を勢いよく小突く。
「はいっ」
威勢 のよいヴァイノの敬礼に、アルテミシアは満足そうにうなずいた。
「ラシオン、必要な補充備品があれば申請を。これからも遠慮なくと、陛下からのご伝言だ」
「りょーかい」
ラシオンもアルテミシアに敬礼をする。
「では、みんな改めてよろしくな。レヴィ、竜舎に行こうか」
「……うん」
休憩室に顔を出してから今まで。
レヴィアが声を出したのは、これが最初で最後だった。
すべて上手くいったはずなのに。
目も合わなかったレヴィアの背中を、ヴァイノは不思議そうに見送った。
「デンカ、なんか怒ってんのかな」
「アルテ、ミシア様って、ちゃんと呼べないからじゃない?あんだけ一生懸命やってもらってんのに、ディアムド語、怠 けるから」
スヴァンの飴 色の瞳が意地悪く細められる。
「えぇ、だってさぁ……。アーテミ、ミーシヤ……。なぁ、アスタ。おまえ、ふくちょのこと知ってたんだろ。さっき手ぇ振ってたもんな」
「ええ、まあ……」
言葉を濁すアスタに、ヴァイノがぐいと迫った。
「デンカはふくちょのこと、何て呼んでんの?おまえも、ちゃんとした名前は教えてもらってなかったろ?」
尋ね顔を向けてきたアスタに、リズワンは涼しく笑う。
「ヴァイノは一度痛い目を見たほうがいい。教えてやれ、アスタ。坊の呼び方を」
「痛い目」という言葉にアスタが深くうなずいた。
「”ミーシャ”とお呼びになってるわ」
「そっか、それだ!ミーシャならオレも呼べる!ちょっと、ふくちょのとこ行ってくる!」
浮かれた様子のヴァイノが休憩室を飛び出していく。
「リズ姐、あれ大丈夫?さっきの殿下、“冷徹の鷹”だったぜ」
「あんなものじゃありません」
「あんなもんじゃないですよぅ」
心配そうなラシオンにアスタとメイリの声がそろい、ふたりは顔を見合わせた。
「メイリも知ってたものね。何かあった?」
アスタはメイリの薄茶の瞳をのぞき込む。
「アルテミシア様が竜舎にいらしたとき、暑さにあたられたことがあって。奥の水浴び場で、うっかり旅装束を脱いでらしたところに伺ってしまってさ。殿下はそれがお嫌だったみたいで……。アスタは?」
メイリがアスタの淡墨 色の瞳を見上げた。
「トレキバの休憩室に最初に行ったとき。アルテミシア様のうっかりで、お姿を拝見してしまって。レヴィア様がそれをかばわれて」
ふたりは同時に身震いをする。
「あの目……」
「メイリも見た?」
「見たよぅ。おっかなかった」
「坊はお嬢を介 して世界とつながっているからな」
リズワンは薄く笑って目を伏せた。
「まあ、気長に付き合ってやれ。お前たちも坊の特別だ」
「私たち、も?特別?」
フロラが部屋の隅から身を乗り出す。
「そうさ。世界に出て初めて得た仲間だ。お前たちにとっても、坊は特別だろう?」
「はい」
トーレとフロラが力強い返事をする。
「殿下は僕らを差別なさらない。新しい居場所と知識、仕事を下さいました。ジーグ隊長と殿下は僕たちの恩人です」
生真面目に畏 まるトーレを、ラシオンがおかしそう眺めた。
「友達にもなってやれよ。差別も何も、レヴィアには身分なんて意識はねぇだろ。あいつに必要なのは仲間、友人だよ。敬われて線引きされることじゃなくって、な」
「恐れ多くは、ないですか?」
仲間うちで一番長く首都で暮らし、「世間」もそれなりに肌で学んでいるトーレの遠慮した様子に、ラシオンが破顔する。
「ねぇよ。レヴィアが望んでねぇんだから。ま、ヴァイノはちょっと過ぎるから、少しは思い知ったほうがいいけどな」
「今ごろお灸を据 えられてるさ」
リズワンが弟子たちとニヤリと笑い合った。
「ふ、ふくちょが、女、だったっ!」
「落ち着け、ヴァイノ。深呼吸しろ」
「……うっそだろ、まじで?ありえねぇよ」
「女だった!」
「うるさいっ」
「目ざわり!」
「いってぇ!」
アスタとメイリの
あらかじめジーグから指示をされた場所に
「よくやった!想定以上の働きだ」
市民たちが熱狂する声を背に、ジーグが愚連隊一人ひとりの頭をなでていく。
だが、いつもなら飛び上がるほど嬉しいジーグの賛辞も、市民たちの喧騒も。
耳を素通りさせたヴァイノは、漆黒の体に赤い稲妻模様の竜に乗る騎士を、見つめるばかりだ。
長い紅色の巻き髪を風に任せて、凛と背筋を伸ばして笑っている、そのひとを。
いつもの
それがよくわかった。心底わかった。
本気で
なんて人にケンカを吹っ掛けてしまったのか。
本当に身の程知らずだったのだ。
トレキバの夜明けを思い出して、ヴァイノの背が震える。
「女の、人……。あんな強いのに」
「ぜんっぜん気がつかなかった……」
「お疲れ!よい働きだったな!」
トーレとスヴァンも呆然とするなか、レヴィアをともなったアルテミシアが姿を現した。
「ふっ、ふくちょっ!」
ヴァイノの声が裏返る。
「なんだ、その声。そんなに驚かせたか?」
ピョン!と立ち上がったヴァイノを見て、アルテミシアが吹き出した。
「
「アルテ、ミシア、様?」
「アルテミシ、ア様」
「あーてみ?みーしや様?」
スヴァンとトーレは詰まりながらも正しく発音するが、ヴァイノだけが、トーラ
「無理するな、副長で構わないぞ。……ふふ。会ったばかりのレヴィアみたいだ」
アルテミシアがヴァイノに向ける笑顔が目に入った瞬間に、レヴィアの黒い瞳から温度と表情が失われた。
「ヴァイノ、アスタ、明日から正式にフリーダ隊員だ。あとで隊服も届くから、大きさが合うか確認してくれ」
「ほんと?!やっったぁ!オレ、すっげぇがんばる!」
「ああ、期待している。でも、ヴァイノの騎馬術は今ひとつだからな。精進しろ」
アルテミシアがヴァイノの肩を勢いよく小突く。
「はいっ」
「ラシオン、必要な補充備品があれば申請を。これからも遠慮なくと、陛下からのご伝言だ」
「りょーかい」
ラシオンもアルテミシアに敬礼をする。
「では、みんな改めてよろしくな。レヴィ、竜舎に行こうか」
「……うん」
休憩室に顔を出してから今まで。
レヴィアが声を出したのは、これが最初で最後だった。
すべて上手くいったはずなのに。
目も合わなかったレヴィアの背中を、ヴァイノは不思議そうに見送った。
「デンカ、なんか怒ってんのかな」
「アルテ、ミシア様って、ちゃんと呼べないからじゃない?あんだけ一生懸命やってもらってんのに、ディアムド語、
スヴァンの
「えぇ、だってさぁ……。アーテミ、ミーシヤ……。なぁ、アスタ。おまえ、ふくちょのこと知ってたんだろ。さっき手ぇ振ってたもんな」
「ええ、まあ……」
言葉を濁すアスタに、ヴァイノがぐいと迫った。
「デンカはふくちょのこと、何て呼んでんの?おまえも、ちゃんとした名前は教えてもらってなかったろ?」
尋ね顔を向けてきたアスタに、リズワンは涼しく笑う。
「ヴァイノは一度痛い目を見たほうがいい。教えてやれ、アスタ。坊の呼び方を」
「痛い目」という言葉にアスタが深くうなずいた。
「”ミーシャ”とお呼びになってるわ」
「そっか、それだ!ミーシャならオレも呼べる!ちょっと、ふくちょのとこ行ってくる!」
浮かれた様子のヴァイノが休憩室を飛び出していく。
「リズ姐、あれ大丈夫?さっきの殿下、“冷徹の鷹”だったぜ」
「あんなものじゃありません」
「あんなもんじゃないですよぅ」
心配そうなラシオンにアスタとメイリの声がそろい、ふたりは顔を見合わせた。
「メイリも知ってたものね。何かあった?」
アスタはメイリの薄茶の瞳をのぞき込む。
「アルテミシア様が竜舎にいらしたとき、暑さにあたられたことがあって。奥の水浴び場で、うっかり旅装束を脱いでらしたところに伺ってしまってさ。殿下はそれがお嫌だったみたいで……。アスタは?」
メイリがアスタの
「トレキバの休憩室に最初に行ったとき。アルテミシア様のうっかりで、お姿を拝見してしまって。レヴィア様がそれをかばわれて」
ふたりは同時に身震いをする。
「あの目……」
「メイリも見た?」
「見たよぅ。おっかなかった」
「坊はお嬢を
リズワンは薄く笑って目を伏せた。
「まあ、気長に付き合ってやれ。お前たちも坊の特別だ」
「私たち、も?特別?」
フロラが部屋の隅から身を乗り出す。
「そうさ。世界に出て初めて得た仲間だ。お前たちにとっても、坊は特別だろう?」
「はい」
トーレとフロラが力強い返事をする。
「殿下は僕らを差別なさらない。新しい居場所と知識、仕事を下さいました。ジーグ隊長と殿下は僕たちの恩人です」
生真面目に
「友達にもなってやれよ。差別も何も、レヴィアには身分なんて意識はねぇだろ。あいつに必要なのは仲間、友人だよ。敬われて線引きされることじゃなくって、な」
「恐れ多くは、ないですか?」
仲間うちで一番長く首都で暮らし、「世間」もそれなりに肌で学んでいるトーレの遠慮した様子に、ラシオンが破顔する。
「ねぇよ。レヴィアが望んでねぇんだから。ま、ヴァイノはちょっと過ぎるから、少しは思い知ったほうがいいけどな」
「今ごろお灸を
リズワンが弟子たちとニヤリと笑い合った。