茨姫(いばらひめ)
文字数 3,518文字
離宮客間の豪奢な椅子 に、深く腰かけたヴァーリが、ため息を吐き出した。
「急に太った鼠 は、さすが貪欲 なものだな」
その隣では褐色の肌の、眉雪 も豊かな老大人 が、あふれんばかりの笑顔でレヴィアを見守っている。
そのあまりの熱視線に、レヴィアは「おじい様」と呼ぶ機会を逃 して、困惑していた。
「レヴィア。マハディおじい様に、……僕がおじい様とお呼びするのは、失礼でしょうか?」
満面の笑みを浮かべたマハディは、そのままの顔をクローヴァに向ける。
「なんの。リーラの手紙によく書いてあった、”ヴァーリに瓜二つの可愛い神さま”はお前さんのことだろう、軍神クローヴァよ。リーラと仲良くしてくれたそうだな。お前さんが離宮を訪ね来るのが楽しみだと、毎回のように手紙に書かれていた。リーラの義息子 なら、私の孫だ」
「ありがとうございます」
ヴァーリに似た紺碧 の瞳が、柔らかく微笑んだ。
「ほら、レヴィア」
兄にうながされたレヴィアは、おずおずと茶碗をマハディの前に置く。
「おじい、様……。……どうぞお茶、を」
その一挙手一投足を、瞬きもせずに見守っていたマハディの顏が、喜びにくしゃりと歪 んだ。
「本当にリーラに生き写しだなあ。しかも、あの堂々たる戦いぶりっ!ヴァーリの血も引くというのに、よくぞここまで良い男に育った」
「孫をほめるために、婿 を貶 めるのは、おやめください」
「リーラをかっさらった男が何を言う」
「それは……。テムラン大公、本当に申し訳なく」
「何だと!」
ヴァーリをさえぎった黒曜石の瞳から滂沱 の涙が流れる。
「お前は私の義息子 だろう。『テムラン大公』とは何事だ!義父 上と呼ばんか!」
ヴァーリは一瞬うんざりと天井を見上げて、すぐに真顔に戻って頭を下げた。
「義父 上、貴方 の大切な姫を守ることができず、申し訳ありませんでした」
「お前のせいではない」
マハディは長衣 の袖 で涙を拭 いながら、鼻をすすった。
「当時のトーラ情勢では、懸念された事態だった。それを承知で、お前のそばにいたいとリーラが望んだのだ。最後の手紙にリーラは綴っていた。『愛しい伴侶と息子に出会えて幸せだ』と。クレーネ」
「……クレーネ?」
首を傾 げるレヴィアを、マハディは慈愛に満ちた笑顔で見つめる。
「アガラムではな、泉の神は、万物 の命を司る、高位神 クレーネだ。お前はトーラならレヴィア、アガラムならクレーネ」
「僕の名前は、そんな由来が……。端 くれ神の名前というわけでは……」
「端 くれ?誰がそんなことを。言ってみなさい、ひねりつぶしてくれる」
しかめ面で迫るマハディのあまりの迫力に、レヴィアは思わず後ずさった。
「愚か者がいたのは確かですが、ご安心ください、テムラン大公。その者共 は、私がぼっこぼこにしておきましたから」
「おお、さすがマウラ・サイーダだ」
得意げなアルテミシアに首を向けたマハディの瞳は優しい。
「クレーネの仇を討ってくれたのだな。だが、ひとつ不満がある」
「ご不満、ですか?」
「テムラン大公などと水臭い。そなたも今日からテムランだろう。私の娘になるのだ。お父様と呼ばないか」
「そのお年でお父様とは、またずうずうしい。バリエスに”老いぼれ”と呼ばれていたではありませんか。どう見ても”おじい様”でしょう、義父 上」
先ほどの仕返しとばかりにからかうヴァーリに、マハディの太眉 が不興気 に寄せられる。
「そういえば、あれの処遇 は決まったのか?ここで必要なければ、うちで引き取ろう。治水 の人手が足りぬのだ。
「言い分を聞き終わり次第 、暖かい国での労働を勧めてみましょう」
片頬で笑うヴァーリの隣で、マハディが満足そうにうなずいた。
「うむ、王の裁量に任せよう。なんにせよ、今日は良い日だ。立派な孫に会え、素晴らしい騎士を一族に迎えられた。しかし……」
老練の瞳がアルテミシアをじっと見つめる。
「トーラへ逃 れた事情は聞いたが、帝国の竜家はいくつかあろう。そちらには頼らなかったのか。竜族の結びつきは強いと聞くが」
その瞬間、誰の目にもわかるほど、アルテミシアの顔色が変わった。
「竜家の事情を、ご存じでしたか……?」
「いや、通り一遍のことしか知らぬよ」
「そう、ですか」
目を落として、呼吸を整えて。
再び顔を上げたときには、もういつものアルテミシアだった。
「確かに、伯父の構えているサラマリス別家があります。その家には、第二騎竜隊隊長を務めていた、従兄 がいるのですが」
初めて聞く話にレヴィアは目を見張る。
「不慮 の事故で、長期の療養中でした。そのようなときに、惨劇の生き残りなどが逃げ込んでは、サラマリス家の存亡に関わる。ですから、私を帝国外に連れ出した従者の判断は、賢明だったと評価しています。……それに、私は……」
アルテミシアの瞳につらそうで悲しそうな、だが、それだけではない色が浮かぶ。
「私は、あの場所には……」
言葉の最後は聞き取れないまま、小さくなって消えてしまった。
その横顔は硬く、いつも寄り添ってくれている彼女が、透明な壁一枚を隔 てた先にいるように遠い。
いつもの潔さはなく、レヴィアの始めて見るアルテミシアだった。
「ミーシャ、大丈夫?」
「ん?……ああ、ごめん」
レヴィアが思わず一歩踏み出せば、アルテミシアはすぐに気づいて微笑む。
「テムラン大公、ヴァーリ陛下。私はレヴィア殿下より賜 った縁をもって、ここトーラを我が国と定めました。殿下の竜騎士として、生きていきたいのです」
「かつて、同じことを言ってくれた、とても美しい人がいた。”あなたとともに在 る限り、私の郷 はここトーラです”とな。しかし、その人にそう言ってもらえる国であったかと自問するたび、苦いものが込み上げる」
ヴァーリは姿勢をゆっくりと正して、アルテミシアに向き直った。
「今度こそ、その尊い志に見合う国にすることを誓う。今や私ひとりの孤独な闘いではなく、心強い味方が戻ってきたのだから」
「僕も、誓うよ、ミーシャ」
「僕も誓おう、リズィエ」
「恐悦にございます」
トーラの礼をとるアルテミシアには、先ほどの壁など感じられない。
(よかった!気のせい、だったんだよね……?)
「この前、竜舎に行ったらね、ロシュに怒られたよ。自分だけ遊んでないって」
「そうそう。水遊びをしてないって、すねてるんだ」
隣に立ったレヴィアを見上げて、アルテミシアはクスクス笑う。
「スィーニが自慢したらしい。よし!今回のご褒美 にロシュと遊ぼう。でも、今度はスィーニがお冠だな」
「それなら、僕がスィーニに乗る?」
「一緒に乗らないのか?レヴィはそれでもいいんだ」
「よくないよ?ミーシャと一緒のほうがいい」
「だろう?ふたりのほうが絶対楽しいぞ。よし、さっそくロシュに伝えに行こう」
ふたりは肩を寄せ合い、楽しそうに離宮客間を出ていった。
重い音を立てて扉が閉まったのち、国王は首をひねりながらジーグを見やる。
「あのふたりの逢引 き”ではなく」
「僕も、ずっとそう思っていました」
「なるほど。では、クレーネはテムラン一族の女性と一緒になるのだな。これはめでたい」
したり顔をするクローヴァの隣で気の早いことを言いながら、マハディはレヴィアの淹 れた茶を一口味わう。
「ご冗談はさておき」
それらすべてをあっさりと「冗談」で片付けたジーグが、そっけなく続けた。
「当人同士の問題です。周囲の口出しは無用と存じます」
「ほぅ」
ヴァーリの唇の両端が上がる。
「アルテミシア殿を欲して貴君の許しを得るのは、並大抵のことではなさそうだな。それはレヴィアの家であっても同じだろうか」
さらりと「レーンヴェストにもらおうか」と言ってのける国王に、ジーグは表情も変えずにうなずいた。
「どんな家であろうとも、リズィエのご意思がなければ」
「アルテミシア殿は”トーラを我が国に”と、心から望んでくれているようだが」
「望んだのは国であって、家ではありません」
「”彼女が望む国にする”と、我が息子が誓った」
ジーグはまじろぎもせず、青磁 色をしたその瞳を見つめる。
「失礼ながら、ご相貌 からは想像いたしかねますが、陛下は」
「なんだ、申してみよ」
「かなりの親ばかです」
「お互いにな」
青磁 と琥珀 の視線がしばし交わり、やがて、どちらの口元もふわりと緩んだ。
だが、次の瞬間には、ジーグの表情は憂いに陰る。
(サラマリスの茨 は、あの子に当たり前の幸せを与えないだろう。あの潔さは諦めと表裏一体だ)
「ふたりの関係がどうであろうとも、ともに大切な存在です。……どうか幸せにと、願わずにはいられません」
ジーグの言葉に、ヴァーリもマハディもただ無言でうなずいた。
「急に太った
その隣では褐色の肌の、
そのあまりの熱視線に、レヴィアは「おじい様」と呼ぶ機会を
「レヴィア。マハディおじい様に、……僕がおじい様とお呼びするのは、失礼でしょうか?」
満面の笑みを浮かべたマハディは、そのままの顔をクローヴァに向ける。
「なんの。リーラの手紙によく書いてあった、”ヴァーリに瓜二つの可愛い神さま”はお前さんのことだろう、軍神クローヴァよ。リーラと仲良くしてくれたそうだな。お前さんが離宮を訪ね来るのが楽しみだと、毎回のように手紙に書かれていた。リーラの
「ありがとうございます」
ヴァーリに似た
「ほら、レヴィア」
兄にうながされたレヴィアは、おずおずと茶碗をマハディの前に置く。
「おじい、様……。……どうぞお茶、を」
その一挙手一投足を、瞬きもせずに見守っていたマハディの顏が、喜びにくしゃりと
「本当にリーラに生き写しだなあ。しかも、あの堂々たる戦いぶりっ!ヴァーリの血も引くというのに、よくぞここまで良い男に育った」
「孫をほめるために、
「リーラをかっさらった男が何を言う」
「それは……。テムラン大公、本当に申し訳なく」
「何だと!」
ヴァーリをさえぎった黒曜石の瞳から
「お前は私の
ヴァーリは一瞬うんざりと天井を見上げて、すぐに真顔に戻って頭を下げた。
「
「お前のせいではない」
マハディは
「当時のトーラ情勢では、懸念された事態だった。それを承知で、お前のそばにいたいとリーラが望んだのだ。最後の手紙にリーラは綴っていた。『愛しい伴侶と息子に出会えて幸せだ』と。クレーネ」
「……クレーネ?」
首を
「アガラムではな、泉の神は、
「僕の名前は、そんな由来が……。
「
しかめ面で迫るマハディのあまりの迫力に、レヴィアは思わず後ずさった。
「愚か者がいたのは確かですが、ご安心ください、テムラン大公。その
「おお、さすがマウラ・サイーダだ」
得意げなアルテミシアに首を向けたマハディの瞳は優しい。
「クレーネの仇を討ってくれたのだな。だが、ひとつ不満がある」
「ご不満、ですか?」
「テムラン大公などと水臭い。そなたも今日からテムランだろう。私の娘になるのだ。お父様と呼ばないか」
「そのお年でお父様とは、またずうずうしい。バリエスに”老いぼれ”と呼ばれていたではありませんか。どう見ても”おじい様”でしょう、
先ほどの仕返しとばかりにからかうヴァーリに、マハディの
「そういえば、あれの
若者
の力を貸してもらおうではないか」「言い分を聞き終わり
片頬で笑うヴァーリの隣で、マハディが満足そうにうなずいた。
「うむ、王の裁量に任せよう。なんにせよ、今日は良い日だ。立派な孫に会え、素晴らしい騎士を一族に迎えられた。しかし……」
老練の瞳がアルテミシアをじっと見つめる。
「トーラへ
その瞬間、誰の目にもわかるほど、アルテミシアの顔色が変わった。
「竜家の事情を、ご存じでしたか……?」
「いや、通り一遍のことしか知らぬよ」
「そう、ですか」
目を落として、呼吸を整えて。
再び顔を上げたときには、もういつものアルテミシアだった。
「確かに、伯父の構えているサラマリス別家があります。その家には、第二騎竜隊隊長を務めていた、
初めて聞く話にレヴィアは目を見張る。
「
アルテミシアの瞳につらそうで悲しそうな、だが、それだけではない色が浮かぶ。
「私は、あの場所には……」
言葉の最後は聞き取れないまま、小さくなって消えてしまった。
その横顔は硬く、いつも寄り添ってくれている彼女が、透明な壁一枚を
いつもの潔さはなく、レヴィアの始めて見るアルテミシアだった。
「ミーシャ、大丈夫?」
「ん?……ああ、ごめん」
レヴィアが思わず一歩踏み出せば、アルテミシアはすぐに気づいて微笑む。
「テムラン大公、ヴァーリ陛下。私はレヴィア殿下より
「かつて、同じことを言ってくれた、とても美しい人がいた。”あなたとともに
ヴァーリは姿勢をゆっくりと正して、アルテミシアに向き直った。
「今度こそ、その尊い志に見合う国にすることを誓う。今や私ひとりの孤独な闘いではなく、心強い味方が戻ってきたのだから」
「僕も、誓うよ、ミーシャ」
「僕も誓おう、リズィエ」
「恐悦にございます」
トーラの礼をとるアルテミシアには、先ほどの壁など感じられない。
(よかった!気のせい、だったんだよね……?)
「この前、竜舎に行ったらね、ロシュに怒られたよ。自分だけ遊んでないって」
「そうそう。水遊びをしてないって、すねてるんだ」
隣に立ったレヴィアを見上げて、アルテミシアはクスクス笑う。
「スィーニが自慢したらしい。よし!今回のご
「それなら、僕がスィーニに乗る?」
「一緒に乗らないのか?レヴィはそれでもいいんだ」
「よくないよ?ミーシャと一緒のほうがいい」
「だろう?ふたりのほうが絶対楽しいぞ。よし、さっそくロシュに伝えに行こう」
ふたりは肩を寄せ合い、楽しそうに離宮客間を出ていった。
重い音を立てて扉が閉まったのち、国王は首をひねりながらジーグを見やる。
「あのふたりの
あれ
は遠乗りか?”「僕も、ずっとそう思っていました」
「なるほど。では、クレーネはテムラン一族の女性と一緒になるのだな。これはめでたい」
したり顔をするクローヴァの隣で気の早いことを言いながら、マハディはレヴィアの
「ご冗談はさておき」
それらすべてをあっさりと「冗談」で片付けたジーグが、そっけなく続けた。
「当人同士の問題です。周囲の口出しは無用と存じます」
「ほぅ」
ヴァーリの唇の両端が上がる。
「アルテミシア殿を欲して貴君の許しを得るのは、並大抵のことではなさそうだな。それはレヴィアの家であっても同じだろうか」
さらりと「レーンヴェストにもらおうか」と言ってのける国王に、ジーグは表情も変えずにうなずいた。
「どんな家であろうとも、リズィエのご意思がなければ」
「アルテミシア殿は”トーラを我が国に”と、心から望んでくれているようだが」
「望んだのは国であって、家ではありません」
「”彼女が望む国にする”と、我が息子が誓った」
ジーグはまじろぎもせず、
「失礼ながら、ご
「なんだ、申してみよ」
「かなりの親ばかです」
「お互いにな」
だが、次の瞬間には、ジーグの表情は憂いに陰る。
(サラマリスの
「ふたりの関係がどうであろうとも、ともに大切な存在です。……どうか幸せにと、願わずにはいられません」
ジーグの言葉に、ヴァーリもマハディもただ無言でうなずいた。