親愛の朝
文字数 2,827文字
レヴィアの朝は、寒さに震えて目覚めることが多かった。
――屋敷の食事は口にするな。屋敷で眠ってもいけない。わかったな――
母が亡くなったあと、出された食事が妙に苦くて吐いてしまったことを伝えると、園丁ギードはそうレヴィアに約束をさせた。
それから。
ギードから猟を教わりながら、森や河原の室 をともに探した。
――いざとなったら、ここに隠れて様子をみるんだ――
そうして叩きこまれたのは、隠れ暮らすための技能。
気配の読み方、追っ手のまき方。
居場所を悟られないために取る行動。
数年ではあったが、読み書きはもちろん、生きていくために必要なことを、ギードはレヴィアに教え込んでくれた。
母のいない寂しさを忘れるほど、ギードの指導は厳しくて。
さらに感謝すべきだったのは、ギードがいてくれたころは暖が取れたこと。
厳しいトレキバの真冬を、小屋で過ごすことができたのだ。
だが、ギードがいなくなった最初の冬。
火を上手く起こせずに、凍死するかと思った。
森の隅で起こした焚火 が燃え広がり、消火しながら焼死するかと思った。
温室を教えられてからは、そこで過ごすこともできたけれど。
見つかるわけにはいかなかったから、長居はしなかった。
だから、いつも。
眠りから意識が浮上するときには、寒さに凍えていた。
体も、心も。
体を温めるために、朝食もそこそに猟や畑仕事に取りかかった。
心を忘れるために、その作業に没頭した。
アルテミシアたちに出会うまでは、それがレヴィアの「日常」で。
◇
早起きの小鳥のさえずりが耳に届く。
(夜が明けた……。起きなくちゃ)
目が開かぬまま身動 ぎすると、何かが胸にすり寄ってきた。
(……あったかいなぁ……)
思わず寄せた頬に、ふわふわした感触がくすぐったい。
「ふふっ」
夢うつつのまま、レヴィアは笑う。
(そういえば傷を治療した山猫が、一緒に寝てくれるほど懐いたっけ。森に帰したとき、ちょっと泣いちゃったな)
いつまでも手元に置くわけにはいかない。
わかってはいても、寄り添ってくれる温かな存在を手放すことは、つらかった。
斑点のある背中が茂みの奥へと消えていってからも、しばらく。
その場に立ち尽くして、涙を堪 えていた。
(あの子とは、あれっきり会っていないけど。元気かな……)
そうだ、山猫とは別れたっきりだ。では、このふわふわは……?
レヴィアがまぶたをパチリと開けると、深紅の巻き髪が目に飛び込んでくる。
驚いて息を詰めたレヴィアの気配に、アルテミシアが顔を上げた。
「……おはよ」
鼻が触れ合うほどの距離で、微睡 から覚めたばかりの若草色の瞳が、微笑んでいる。
「え?!あの、ごめん、なさいっ。えっと、僕、どう、して」
飛び起き、寝台から抜け出して立ち上がろうとしたレヴィアの手を、アルテミシアがとっさに握った。
縋 るようなその手を振り払うことができなくて、レイヴァはそのまま寝台の端に腰掛ける。
「レヴィ」
「う、うん……」
呼ばれても、頬が熱くて振り向くことができない。
「ずっと、床に座らせたままだったから」
詫びるアルテミシアの声に、レヴィアの記憶が呼び覚まされる。
(……そう、だった……)
眠りに落ちたアルテミシアを眺めているうちに、いつしかレヴィアも睡魔に襲われ、そのまま寝入ってしまったのだ。
「……レヴィ。そんなところで寝たらダメだろう。ほら、おいで」
優しい囁 き声とともに、腕を引っ張られたことをレヴィアは思い出す。
「体が冷えてる。悪かったな。ふふっ……、本当にレヴィは可愛いな」
寝ぼけたまま寝台に上がって、頭をなでてくれる優しい手の感触に力が抜けていった。
「おやすみ、レヴィ」
耳をくすぐる声と胸を満たす甘い香りが、レヴィアを深い眠りに誘っていく。
暖かくて、幸せで。
レヴィアの意識は、静謐 な夜に溶けていったのだった。
「ごめん、なさい」
(ミーシャは怪我をしてるのに……。それに)
すっかり甘えてしまったことを思い出せば、ますます頬が熱を持つ。
「どうして謝る」
「だって、ミーシャは上掛けとか、苦手で。まして、その、他人となんて……。嫌、だったでしょう?」
(思い出させちゃったんじゃ、ないかな……)
いまだにアルテミシアを傷つけ続ける、あのつらい夜を。
(寝顔なんか眺めていないで、さっさと自分の天幕に戻ればよかった)
苦い後悔に沈み、顔をうつむけるレヴィアの手の甲を、アルテミシアの親指がそっとなでた。
「可愛い主 を嫌だと思うわけがないだろう」
目を落とせばその仕草は、ディアムド語教師に鞭 打たれた跡を、優しくなでてくれたときと同じもの。
レヴィアの胸は懐かしさと切なさで一杯になる。
「ずっと歌っていてくれた。歌もだけど……、レヴィの歌声が、すごく好きなんだ。……料理も、お茶も」
肩越しに振り返ると、アルテミシアは中空の一点を見つめていた。
「ヴァイノに聞かれたんだ。それはどういう好きかって」
「!」
レヴィアの鼓動が早くなっていく。
「ヴァイノは子犬だけれど、レヴィは違う」
独り言のようにアルテミシアはつぶやいた。
「トカゲは可愛いけれど、レヴィはトカゲじゃない。年は下だけれど、弟でもない」
座ったまま、レヴィアはアルテミシアに向き直る。
「誰かへの”好き”を、深く考えたことなんてなかった。レヴィアへの好きは……」
アルテミシアが目を上げると、瞬きもしない漆黒の瞳とぶつかった。
「っ」
たちまち顔を朱に染めたアルテミシアに、レヴィアはゆっくりと体を屈 めていく。
「ミーシャ」
アルテミシアの手を強く握り返して、レヴィアが言葉を続けようとしたとき。
くぅぅぅぅ。
アルテミシアの腹が鳴った。
「「!」」
驚いて顔を見合わせて、盛大に吹き出して笑うふたりの声が、天幕の朝の空気を揺らす。
「ふふっ。お腹空いた?」
レヴィアはアルテミシアの晒 が巻かれた横腹を、寝巻の上から指先で軽く擦 る。
「そうみたいだ。久しぶりに、一晩ぐっすり眠れたからかな」
労 わってくれているレヴィアの手を取って、アルテミシアはその甲と掌 に口付けを落とした。
「……甲は?」
「敬意と感謝」
「……掌 は?」
「好意と約束」
(無二の信頼を、許してもらえる、かな……)
レヴィアはアルテミシアの額に唇を寄せようと、おずおずと顔を近づけていく。
「……!」
たが、一呼吸早く、アルテミシアの柔らかな唇がレヴィアの額に押し当てられた。
「貴方 の立場が上だぞ。許されるのは私のほうだ。可愛い主 」
悪戯 が成功した子供のように、アルテミシアは笑っている。
「でも」
間近で若草色の瞳をじっと見つめながら、レヴィアは声を落とした。
「ミーシャは僕の師匠だよ?師匠は、弟子の上の立場じゃない?」
「そう、か。そうだな」
許され差し出されたアルテミシアの額に、レヴィアはためらいながらも唇を寄せていく。
そして、絶対の信頼と胸の高鳴りを込めて、滑らかな額に優しく口付けた。
――屋敷の食事は口にするな。屋敷で眠ってもいけない。わかったな――
母が亡くなったあと、出された食事が妙に苦くて吐いてしまったことを伝えると、園丁ギードはそうレヴィアに約束をさせた。
それから。
ギードから猟を教わりながら、森や河原の
――いざとなったら、ここに隠れて様子をみるんだ――
そうして叩きこまれたのは、隠れ暮らすための技能。
気配の読み方、追っ手のまき方。
居場所を悟られないために取る行動。
数年ではあったが、読み書きはもちろん、生きていくために必要なことを、ギードはレヴィアに教え込んでくれた。
母のいない寂しさを忘れるほど、ギードの指導は厳しくて。
さらに感謝すべきだったのは、ギードがいてくれたころは暖が取れたこと。
厳しいトレキバの真冬を、小屋で過ごすことができたのだ。
だが、ギードがいなくなった最初の冬。
火を上手く起こせずに、凍死するかと思った。
森の隅で起こした
温室を教えられてからは、そこで過ごすこともできたけれど。
見つかるわけにはいかなかったから、長居はしなかった。
だから、いつも。
眠りから意識が浮上するときには、寒さに凍えていた。
体も、心も。
体を温めるために、朝食もそこそに猟や畑仕事に取りかかった。
心を忘れるために、その作業に没頭した。
アルテミシアたちに出会うまでは、それがレヴィアの「日常」で。
◇
早起きの小鳥のさえずりが耳に届く。
(夜が明けた……。起きなくちゃ)
目が開かぬまま
(……あったかいなぁ……)
思わず寄せた頬に、ふわふわした感触がくすぐったい。
「ふふっ」
夢うつつのまま、レヴィアは笑う。
(そういえば傷を治療した山猫が、一緒に寝てくれるほど懐いたっけ。森に帰したとき、ちょっと泣いちゃったな)
いつまでも手元に置くわけにはいかない。
わかってはいても、寄り添ってくれる温かな存在を手放すことは、つらかった。
斑点のある背中が茂みの奥へと消えていってからも、しばらく。
その場に立ち尽くして、涙を
(あの子とは、あれっきり会っていないけど。元気かな……)
そうだ、山猫とは別れたっきりだ。では、このふわふわは……?
レヴィアがまぶたをパチリと開けると、深紅の巻き髪が目に飛び込んでくる。
驚いて息を詰めたレヴィアの気配に、アルテミシアが顔を上げた。
「……おはよ」
鼻が触れ合うほどの距離で、
「え?!あの、ごめん、なさいっ。えっと、僕、どう、して」
飛び起き、寝台から抜け出して立ち上がろうとしたレヴィアの手を、アルテミシアがとっさに握った。
「レヴィ」
「う、うん……」
呼ばれても、頬が熱くて振り向くことができない。
「ずっと、床に座らせたままだったから」
詫びるアルテミシアの声に、レヴィアの記憶が呼び覚まされる。
(……そう、だった……)
眠りに落ちたアルテミシアを眺めているうちに、いつしかレヴィアも睡魔に襲われ、そのまま寝入ってしまったのだ。
「……レヴィ。そんなところで寝たらダメだろう。ほら、おいで」
優しい
「体が冷えてる。悪かったな。ふふっ……、本当にレヴィは可愛いな」
寝ぼけたまま寝台に上がって、頭をなでてくれる優しい手の感触に力が抜けていった。
「おやすみ、レヴィ」
耳をくすぐる声と胸を満たす甘い香りが、レヴィアを深い眠りに誘っていく。
暖かくて、幸せで。
レヴィアの意識は、
「ごめん、なさい」
(ミーシャは怪我をしてるのに……。それに)
すっかり甘えてしまったことを思い出せば、ますます頬が熱を持つ。
「どうして謝る」
「だって、ミーシャは上掛けとか、苦手で。まして、その、他人となんて……。嫌、だったでしょう?」
(思い出させちゃったんじゃ、ないかな……)
いまだにアルテミシアを傷つけ続ける、あのつらい夜を。
(寝顔なんか眺めていないで、さっさと自分の天幕に戻ればよかった)
苦い後悔に沈み、顔をうつむけるレヴィアの手の甲を、アルテミシアの親指がそっとなでた。
「可愛い
目を落とせばその仕草は、ディアムド語教師に
レヴィアの胸は懐かしさと切なさで一杯になる。
「ずっと歌っていてくれた。歌もだけど……、レヴィの歌声が、すごく好きなんだ。……料理も、お茶も」
肩越しに振り返ると、アルテミシアは中空の一点を見つめていた。
「ヴァイノに聞かれたんだ。それはどういう好きかって」
「!」
レヴィアの鼓動が早くなっていく。
「ヴァイノは子犬だけれど、レヴィは違う」
独り言のようにアルテミシアはつぶやいた。
「トカゲは可愛いけれど、レヴィはトカゲじゃない。年は下だけれど、弟でもない」
座ったまま、レヴィアはアルテミシアに向き直る。
「誰かへの”好き”を、深く考えたことなんてなかった。レヴィアへの好きは……」
アルテミシアが目を上げると、瞬きもしない漆黒の瞳とぶつかった。
「っ」
たちまち顔を朱に染めたアルテミシアに、レヴィアはゆっくりと体を
「ミーシャ」
アルテミシアの手を強く握り返して、レヴィアが言葉を続けようとしたとき。
くぅぅぅぅ。
アルテミシアの腹が鳴った。
「「!」」
驚いて顔を見合わせて、盛大に吹き出して笑うふたりの声が、天幕の朝の空気を揺らす。
「ふふっ。お腹空いた?」
レヴィアはアルテミシアの
「そうみたいだ。久しぶりに、一晩ぐっすり眠れたからかな」
「……甲は?」
「敬意と感謝」
「……
「好意と約束」
(無二の信頼を、許してもらえる、かな……)
レヴィアはアルテミシアの額に唇を寄せようと、おずおずと顔を近づけていく。
「……!」
たが、一呼吸早く、アルテミシアの柔らかな唇がレヴィアの額に押し当てられた。
「
「でも」
間近で若草色の瞳をじっと見つめながら、レヴィアは声を落とした。
「ミーシャは僕の師匠だよ?師匠は、弟子の上の立場じゃない?」
「そう、か。そうだな」
許され差し出されたアルテミシアの額に、レヴィアはためらいながらも唇を寄せていく。
そして、絶対の信頼と胸の高鳴りを込めて、滑らかな額に優しく口付けた。