親愛の朝

文字数 2,827文字

レヴィアの朝は、寒さに震えて目覚めることが多かった。

――屋敷の食事は口にするな。屋敷で眠ってもいけない。わかったな――
 
 母が亡くなったあと、出された食事が妙に苦くて吐いてしまったことを伝えると、園丁ギードはそうレヴィアに約束をさせた。
 
 それから。
 ギードから猟を教わりながら、森や河原の(むろ)をともに探した。

――いざとなったら、ここに隠れて様子をみるんだ――
 
 そうして叩きこまれたのは、隠れ暮らすための技能。
 気配の読み方、追っ手のまき方。
 居場所を悟られないために取る行動。

 数年ではあったが、読み書きはもちろん、生きていくために必要なことを、ギードはレヴィアに教え込んでくれた。
 母のいない寂しさを忘れるほど、ギードの指導は厳しくて。
 さらに感謝すべきだったのは、ギードがいてくれたころは暖が取れたこと。
 厳しいトレキバの真冬を、小屋で過ごすことができたのだ。 

 だが、ギードがいなくなった最初の冬。
 火を上手く起こせずに、凍死するかと思った。
 森の隅で起こした焚火(たきび)が燃え広がり、消火しながら焼死するかと思った。
 温室を教えられてからは、そこで過ごすこともできたけれど。
 見つかるわけにはいかなかったから、長居はしなかった。
 
 だから、いつも。
 
 眠りから意識が浮上するときには、寒さに凍えていた。
 体も、心も。
 体を温めるために、朝食もそこそに猟や畑仕事に取りかかった。
 心を忘れるために、その作業に没頭した。
 アルテミシアたちに出会うまでは、それがレヴィアの「日常」で。


 早起きの小鳥のさえずりが耳に届く。

(夜が明けた……。起きなくちゃ)

 目が開かぬまま身動(みじろ)ぎすると、何かが胸にすり寄ってきた。

(……あったかいなぁ……)

 思わず寄せた頬に、ふわふわした感触がくすぐったい。
「ふふっ」
 夢うつつのまま、レヴィアは笑う。

(そういえば傷を治療した山猫が、一緒に寝てくれるほど懐いたっけ。森に帰したとき、ちょっと泣いちゃったな)
 
 いつまでも手元に置くわけにはいかない。
 わかってはいても、寄り添ってくれる温かな存在を手放すことは、つらかった。
 斑点のある背中が茂みの奥へと消えていってからも、しばらく。
 その場に立ち尽くして、涙を(こら)えていた。

(あの子とは、あれっきり会っていないけど。元気かな……)

 そうだ、山猫とは別れたっきりだ。では、このふわふわは……?
 
 レヴィアがまぶたをパチリと開けると、深紅の巻き髪が目に飛び込んでくる。
 驚いて息を詰めたレヴィアの気配に、アルテミシアが顔を上げた。
「……おはよ」
 鼻が触れ合うほどの距離で、微睡(まどろみ)から覚めたばかりの若草色の瞳が、微笑んでいる。
「え?!あの、ごめん、なさいっ。えっと、僕、どう、して」
 飛び起き、寝台から抜け出して立ち上がろうとしたレヴィアの手を、アルテミシアがとっさに握った。
 (すが)るようなその手を振り払うことができなくて、レイヴァはそのまま寝台の端に腰掛ける。
「レヴィ」
「う、うん……」
 呼ばれても、頬が熱くて振り向くことができない。
「ずっと、床に座らせたままだったから」
 詫びるアルテミシアの声に、レヴィアの記憶が呼び覚まされる。

(……そう、だった……)
 
 眠りに落ちたアルテミシアを眺めているうちに、いつしかレヴィアも睡魔に襲われ、そのまま寝入ってしまったのだ。

「……レヴィ。そんなところで寝たらダメだろう。ほら、おいで」
 優しい(ささや)き声とともに、腕を引っ張られたことをレヴィアは思い出す。
「体が冷えてる。悪かったな。ふふっ……、本当にレヴィは可愛いな」
 寝ぼけたまま寝台に上がって、頭をなでてくれる優しい手の感触に力が抜けていった。
「おやすみ、レヴィ」
 耳をくすぐる声と胸を満たす甘い香りが、レヴィアを深い眠りに誘っていく。
 暖かくて、幸せで。
 レヴィアの意識は、静謐(せいひつ)な夜に溶けていったのだった。

「ごめん、なさい」

(ミーシャは怪我をしてるのに……。それに)
 
 すっかり甘えてしまったことを思い出せば、ますます頬が熱を持つ。
「どうして謝る」
「だって、ミーシャは上掛けとか、苦手で。まして、その、他人となんて……。嫌、だったでしょう?」

(思い出させちゃったんじゃ、ないかな……)
 
 いまだにアルテミシアを傷つけ続ける、あのつらい夜を。

(寝顔なんか眺めていないで、さっさと自分の天幕に戻ればよかった)

 苦い後悔に沈み、顔をうつむけるレヴィアの手の甲を、アルテミシアの親指がそっとなでた。
「可愛い(あるじ)を嫌だと思うわけがないだろう」
 目を落とせばその仕草は、ディアムド語教師に(むち)打たれた跡を、優しくなでてくれたときと同じもの。
 レヴィアの胸は懐かしさと切なさで一杯になる。
「ずっと歌っていてくれた。歌もだけど……、レヴィの歌声が、すごく好きなんだ。……料理も、お茶も」
 肩越しに振り返ると、アルテミシアは中空の一点を見つめていた。
「ヴァイノに聞かれたんだ。それはどういう好きかって」
「!」
 レヴィアの鼓動が早くなっていく。
「ヴァイノは子犬だけれど、レヴィは違う」
 独り言のようにアルテミシアはつぶやいた。
「トカゲは可愛いけれど、レヴィはトカゲじゃない。年は下だけれど、弟でもない」
 座ったまま、レヴィアはアルテミシアに向き直る。
「誰かへの”好き”を、深く考えたことなんてなかった。レヴィアへの好きは……」
 アルテミシアが目を上げると、瞬きもしない漆黒の瞳とぶつかった。
「っ」
 たちまち顔を朱に染めたアルテミシアに、レヴィアはゆっくりと体を(かが)めていく。
「ミーシャ」
 アルテミシアの手を強く握り返して、レヴィアが言葉を続けようとしたとき。
 
 くぅぅぅぅ。
 
 アルテミシアの腹が鳴った。

「「!」」
 驚いて顔を見合わせて、盛大に吹き出して笑うふたりの声が、天幕の朝の空気を揺らす。
「ふふっ。お腹空いた?」
 レヴィアはアルテミシアの(さらし)が巻かれた横腹を、寝巻の上から指先で軽く(さす)る。
「そうみたいだ。久しぶりに、一晩ぐっすり眠れたからかな」
 (いた)わってくれているレヴィアの手を取って、アルテミシアはその甲と(しょう)に口付けを落とした。
「……甲は?」
「敬意と感謝」
「……(しょう)は?」
「好意と約束」
 
(無二の信頼を、許してもらえる、かな……)

 レヴィアはアルテミシアの額に唇を寄せようと、おずおずと顔を近づけていく。
「……!」
 たが、一呼吸早く、アルテミシアの柔らかな唇がレヴィアの額に押し当てられた。
貴方(あなた)の立場が上だぞ。許されるのは私のほうだ。可愛い(あるじ)
 悪戯(いたずら)が成功した子供のように、アルテミシアは笑っている。
「でも」   
 間近で若草色の瞳をじっと見つめながら、レヴィアは声を落とした。
「ミーシャは僕の師匠だよ?師匠は、弟子の上の立場じゃない?」
「そう、か。そうだな」
 許され差し出されたアルテミシアの額に、レヴィアはためらいながらも唇を寄せていく。
 そして、絶対の信頼と胸の高鳴りを込めて、滑らかな額に優しく口付けた。
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