動き出す心-ミーシャとレヴィア-

文字数 3,038文字

 離宮の廊下を歩きながら、いつにない様子のレヴィアにアルテミシアが足を止める。
「レヴィ、疲れたのか?今日は初陣(ういじん)だったものな。竜舎には行かずに休むか?」
 レヴィアが無言で首を横に振った、そのとき。
「ふくちょっ!ミーシャ様!」
「!」
 底抜けに明るい声にレヴィアが振り返れば、ヴァイノが全速力で近付いてきていた。
「ね、オレさ、ミーシャ様って呼んでいい?」
 たちまち追いつくと、ヴァイノは子犬がじゃれるように無邪気に笑う。
「だって、デンカもそう呼んでるんだろ?ミーシャならオレも呼べる……、から……」
 同意を求めてレヴィアを見上げたヴァイノが、ヒュっと息を飲んだ。
「え、デンカ……?」
 冷え冷えとした瞳のレヴィアと固まるヴァイノを見比べてから、アルテミシアは「ふむ」と首を傾ける。
「ヴァイノ、ちょっと口を開けてみろ」
「え……?あ、はい」
 質量があるかのようなレヴィアの視線を頬に感じながら、ヴァイノがほんの少し口を開いた。
「もうちょっと大きく」
「こう?……んがっ?!」
 ヴァイノの口に、アルテミシアの指が突っ込まれる。
「んふぅ~!」
 目で抗議するヴァイノには構わず、アルテミシアがヴァイノの口の中を覗き込んだ。
「このまま『アルテミシア』と言ってみろ」
「あ、あるぅって、みひあ」
 今にも触れてしまいそうな艶やかな唇に目を奪われ、ヴァイノの顔が思わず赤くなる。
「もう一度。ちゃんと続けて」
「あるぅて、みしあ」
「もう一度」
「アル、テミシア……」
「ん、大体いい。え?」
 力任せに手を引っ張られて、アルテミシアはキョトンとレヴィアを見上げた。
「レヴィ、なに?あ、ちょっと、ま……ヴァイノ!今の感じ、忘れないうちに練習しておけ!」
 引きずられるように手を引かれていくアルテミシアが、ヴァイノを振り返る。
 ヴァイノは「はい」と返事をしようとして、できずにそのまま口を閉じた。
 ともに振り返ったレヴィアの大きな瞳が、自分を責めるように険しかったから。

 早足で歩き続けるレヴィアにアルテミシアは小走りでついていく。
「レヴィ」
 呼びかけても、呼びかけても。
 レヴィアは返事もしなければ、振り返りもしない。
 そして、竜舎脇の湧水(わきみず)を引きこんである水桶(みずおけ)にたどり着くと、いきなりアルテミシアの手をその中に突っ込み、洗い出した。
 ごしごし、ごしごしと。
 跳ねた水が軍服を濡らしてもレヴィアの手は止まらなかった。
「……はぁ~」 
 しばらくされるに任せていたが、そのしつこさにアルテミシアからため息が漏れる。
「もう指が痛い。レヴィ、どうした?」
「……だって。……だって、ミーシャは……」
 ピタリと動きを止めて、レヴィアは顔を隠すようにうつむいた。
「ミーシャは僕に、あんな教え方、してくれなかった」
「教えてもらいたかった?」
 握った手は離さないままレヴィアはうつむき、唇を噛みしめる。
「ごめん。レヴィの”ミーシャ”は可愛いから、そのままでいいと思ってしまったんだ。それに」
 水桶(みずおけ)から手を抜くと、アルテミシアはレヴィアの唇にその指を押し当てた。
「もう呼べるだろう?本当は」
「え……」
 アルテミシアの指から流れ落ちた水滴が、顔を上げたレヴィアの唇を濡らす。
 そんなはずはないのに、薄く開いた口から入り込んだ”アルテミシアの水滴”は、とても甘い。
 レヴィアの喉が思わずコクリと鳴った。
 瞬きもせず、固まってしまったレヴィアにアルテミシアがくすくすと笑う。
「バレてないと思ってたのか?普段、あれだけきれいなディアムド語を話すレヴィが、私の名だけ呼べないはずがない。それにあのとき。私を助けに来てくれたとき」
「……あ……」

 彼女に向けられた殺意に、とっさにその名を叫んで走り出した。
 我知らず、ためらいもせず。

「とても嬉しかったよ。ほら、呼んでみて」
「……アルテミシア……」
「ん。きれいな発音だ。……ミーシャと呼ぶのは、もう嫌か?」
 指を外したアルテミシアは、少し寂しそうにレヴィアを見上げる。
「こんなに背も高くなって、貴方(あなた)はもう”小さくて可愛いレヴィア”ではなくなってしまったけれど、やっぱり可愛い。ミーシャと呼ばれるのは好きなんだ。レヴィだけの、可愛い呼び方だから」
「僕、

?」
「そう。だから、ヴァイノにはきちんとした発音を教えた。あれは、私がまだちゃんと話せなかった時分、乳母姉(うばねえ)にやられた方法だ。乱暴だが確実だぞ」
「でも、あの方法は、……ダ」
 怒ったような顔で口を閉じるレヴィアに、アルテミシアは小首を(かし)げた。
「ダ?」
「……ダメ。もう、しないで。教えるなら、別の方法にして」
「レヴィは嫌なのか?」
 レヴィアは何度か口を開いては閉じるを繰り返していたが、意を決して、小さな声を振り絞る。
「……いやダ……」
「そうか、レヴィがそう言うのなら。もうしないよ」
「わがまま言って、ごめんなさい。……ミーシャは、好きなようにしていいのに」
「わがままではないよ」
 アルテミシアはレヴィアの両頬を柔らかく(つま)むと、そのまま上に持ち上げた。
「嫌なことは心を痛める。貴方(あなた)の痛いことなどしたくない。レヴィは普段、我慢しすぎだ。嫌なことは嫌と言っていいんだ」
「嫌って、言って、いい……。いいの?」
 
 ふわりと。
 縮こまって重くなっていた心が浮き上がったようで。
 レヴィアの頬がわずかに赤くなった。

「そうだよ。それに、私こそわがままだろう?アルテミシアと呼べるのに、ミーシャと呼んでほしいなんて」
「呼びたい!ミーシャって、僕だけが呼びたい」
「私が呼んでほしいんだ。それに、ヴァイノはなんだか(おび)えていていたからなあ。もう呼ばないんじゃないか?」
 相変わらずのアルテミシアに、レヴィアはほっと息をつく。
「ミーシャ」
「ん」
「竜舎に、行こう?」
「そうだな」
 アルテミシアは目を細めてうなずくと、レヴィアとともに二頭が待ちわびている気配のする竜舎へと歩き出した。


 翌日、わくわくとした足取りでたどり着いた平原で、「水遊びは春になったら」と告げられたロシュの緑目は、見事な半眼となった。
「グルル、グルルルル」
「そう怒るな。ほら、本当のゴホウビだ」
 背負い袋から林檎(りんご)を取り出して、アルテミシアはロシュの鼻先へと持っていく。
「クルルっ、クルー!」
「よし、機嫌が直ったな。ほら、あーん」
 アルテミシアが投げた林檎(りんご)を、ロシュは器用に(くちばし)で受け止めた。
「今日は独り占めできるぞ」
 おやつをしょっちゅうスィーニに横取りされるロシュは、一口で飲み込んでは、また甘える仕草で(くちばし)を開く。
「昨日の初陣は素晴らしかったぞ。トーラの”黒の勇士たち”は世界一だな」
「黒の勇士、たち?」
「そう。トーラの漆黒の竜と漆黒の王子」
 アルテミシアはレヴィアに手を伸ばすと、その黒髪を何度も優しく()かした。
「あれだけの軍勢を前に一歩も引かない勇敢な王子を、ジーグも誇らしいと言っていた。ジーグがほめるなんて滅多にないんだぞ?」
 自分は覚えがないと笑うアルテミシアを、レヴィアはじっと見つめる。
「……ミーシャは?」
「ん?」
「誇ってくれる?僕は、役に立てた?」
「臣下の危機に、命を顧みず駆けつけてくれる(あるじ)を、誇らずにいられましょうか、レヴィア殿下」
「……殿下って、呼ばないで……」
「ふふっ、ごめん。あれほど腕を上げていたとは思わなかったし、嬉しかったよ、レヴィ」
 その笑顔はあまりにも柔らかくて、美しくて。
「どうした?」
「な、なんでも、ない……」
 熱を持ち始めた頬を隠すために、レヴィアは慌ててうつむいた。
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