クローヴァの秘密
文字数 4,023文字
それはトーラ陣営をたたみ、「新しい街」へ活動拠点を移して間もなくのことだった。
「申し訳ない。……もう一度だけ、時間をもらえないだろうか」
夜の警らへ向かおうと、療養所を出たジーグの背にかけられたのは、悲壮なほどのクローヴァの声。
「何度もすまない。その、話があって……」
「手短に願います」
かかとを支点にくるりと向き直ったジーグに、クローヴァはふるふると首を横に振る。
「いや、できればその、ちょっと時間がほしい。僕の部屋に来くれないか」
「ここではできない話ですか」
「でき、ない……」
そこにいるのは、果敢に兵たちに檄を飛ばしていた第一王子ではなく。
ウロウロと視線を泳がせるクローヴァは、そうしていればレヴィアによく似ている。
「では、警らのあと、殿下のお部屋にうかがっても?」
「うん、待っている。……ありがとう」
肩から力を抜いたクローヴァは、深々と頭を下げた。
「どうぞ」と椅子 を勧めながら、第一王子は大いに惑い悩む表情を隠すことなく、ジーグの真正面に座った。
――本音で向き合おう――
その気持ちが伝わってくる。
「フリーダ卿、あの……。その」
言葉を探してオロオロする様子にレヴィアを重ねて、ジーグはとうとうクスリと笑った。
「ゆっくりで構いません」
「……!」
クローヴァが紺碧 の瞳を上げると、いつにない自然な笑みが自分に向けられている。
「殿下がお気持ちを整え、お考えをまとめるその間に、私は謝罪いたしましょう」
稀代の剣士に頭を下げられて、クローヴァの目が丸くなった。
「主筋 たる王子に隔てを置き接していたこと、誠に申し訳ございませんでした」
「いや、僕が至らなかったせいだとわかっている。……驕 りを捨てきれなかったと」
ジーグから目をそらしたクローヴァが肩を落とした。
「どこかで自分は王族だ、自由になりさえすれば、皆を従わせることができると甘く考えていた。本音を隠したままでも、相手を操れると。今思えば、なんて卑怯で未熟だったんだろうと恥ずかしく思うよ」
「殿下が未熟な部分はもうありません」
「え?」
「それを自覚されたとき、すでに成長していらっしゃいますから」
「フリーダ卿……。ありがとう」
泣き出しそうな瞳を上げるクローヴァに、ジーグは大きくうなずく。
「そう言ってもらえると、少しは心が軽くなる。でも、思い知ったんだ。ひとりで学ぶ世界は狭くて浅い。だから、貴方 の弟子にしていただきたい。レヴィアと同じ栄誉を、僕にも授けてもらえないだろうか」
「弟子ばかり増やすと苦労するぞと、姉弟子から忠告を受けているのですが」
「だめ、だろうか」
たちまちシュンとするクローヴァに、とうとうジーグが肩を揺らして笑い始めた。
「彼女もすでに弟子はふたりいますし、私がもうひとり弟子を増やしたところで、四の五の言いますまい。……お受けいたしましょう」
「ありがとう!でも……」
ぱっと顔を明るくした次の瞬間、クローヴァは首を傾ける。
「貴方 は、ずいぶんリズワンを尊ぶんだね」
(確かに、リズワンは傑出した人物ではあるけれど……)
ジーグがリズワンに劣るとは思えないし、今のふたりを見ていると、互いに認め合っている仲に見えるのだが。
「それはもう、かなり鍛えられましたから」
わずかに眉の根を寄せて、琥珀 の瞳が遠くなる。
「私が国を失い、帝国の食客 となってからも近く遠く、何かと心配 りをしてくれたのがリズワンです。彼女の配慮はかなり荒っぽくて、相当な痛みを伴うのですが」
ふっと笑ったジーグはどこか切なそうで。
その人間くさい表情に、クローヴァは知らず息を飲んだ。
「”腑抜けた顔をするな”と言うなり、蹴り飛ばしてくる人ですからね。さすがに、骨折や打ち身の酷かった部分は避けてくれましたが」
それはジーグもリズワンも滅多に口にすることがない、ふたりだけの思い出だと、クローヴァは気づく。
(誠実というのは、こういうことなんだな)
受け入れるといったん決めたのならば、相手が胸襟 を開く前に自分の腹を割る。
なんて清々しくて、廉直な人物だろう。
「フリーダ卿」
姿勢を正したクローヴァを、ジーグがギロリとにらむ。
「フリーダ卿とはなんですか。貴方 は、今このときから私の弟子でしょう。師匠と呼びなさい」
マハディを真似てみせるジーグに、クローヴァは吹き出して笑った。
「ふふっ。……ジーグ師匠」
「はい」
「僕はね、誰にも話していない、話すつもりのなかったことがあるんだ。それほど重い話ではないよ。それでもずっと胸に燻 って、消し去ることができずにいてね」
クローヴァが切なげに目を伏せる。
「僕にとってレヴィアは、ただの弟ではないんだ。……僕の初恋の人の、大切な忘れ形見。父と僕が守れずに、トーラが無残に殺してしまった、麗 しい人の」
クローヴァの体全体から、憤りと悔いがにじみ出ている。
「暗い部屋に閉じ込められている間に、僕はあの女性 の年齢に追いついてしまった。もうあの可憐な顏が、悲しみにくれるのを見たくないんだ」
その告白を聞きながら、ジーグの口元がほどけていった。
クローヴァがリーラと親しく過ごしたのは、彼が十になるかならないかのころだろう。
そのころリーラは二十 前だったと聞いている。
(軟禁されている間中、妃殿下の死を悼 んでいたのだろうか)
孤独に冥府へと送ってしまった、その悔しさを抱え続けていたのかと思えば。
(だから、彼女に瓜二つだというレヴィアを、かばう気持ちが強いのかもしれないな)
時おり震えるクローヴァの声に、ジーグは耳を傾け続ける。
――有体 に言えば、弄 んでいるのかと――
雨の夜。
天幕の外で自分を待ち受けていた、クローヴァが漏らした本音。
アルテミシアの能力を認めながら、人柄は信用しながら。
同時に大切な弟を悲しませる、忌々しい存在でもあったのだろう。
だが、あの騒乱の只中で赤竜騎士たちと出会い。
想像を超えた、尋常ならざる帝国の姿と、アルテミシアを縛る茨の影を見たのに違いない。
「リズィエが
兄王子の悔恨を受け止めたジーグは、静かなため息をついた。
「ふたつ理由があります。ひとつは死を厭 わずに戦うことを定められた、サラマリス家の一員だから。そして、もうひとつは」
腹立たしさを隠さないジーグに、クローヴァは目を見張る。
「牽制 して回っていたからです。もちろん、リズィエにはそう覚らせないように」
「
必要ならば、背筋が凍えるほどの完璧な笑顔も作るが、普段は彫像めいた美麗の男。
だが、アルテミシアの前だけでは血の通った、不快や嫉妬などの感情を露わにする人物。
ジーグの眉間 に、苦々しいしわが刻まれている。
「ふたりの関係には事情があり、それはやむを得ないところもあります。ですが、あの男は手段も選ばず、しかも、法外に徹底している。そのためリズィエは、無邪気さを年相応に脱する機会を、逃してしまったところがあるのです。……ときどき、酷く幼いと感じることがありませんか?」
「うん、そうだね。幼いというか、ヴァイノの言葉を借りると”距離感おかしーだろ”ってやつかな」
ジーグの無言の肯定に、クローヴァはずいと膝を寄せた。
「その事情を、よければ聞かせてもらえるだろうか」
「聞けば、リズィエに対する”同族嫌悪”を、解消してしていただけますか?」
からかうような琥珀 の瞳に笑い返しながら、クローヴァはうなずく。
「それはとっくに反省している。愚かなことを言った。あの苛烈で天衣無縫なリズィエを、きちんと理解したいんだ」
弟子の顔で見上げてくるクローヴァに、ジーグの笑みが深まる。
「教えていただけるのなら、僕ひとりの胸に納めておくと約束する。もちろん、レヴィアにも。あの子は優しいから、気にしてしまうだろうし。まあ、そうだとしても、リズィエを諦めることだけはない、と思うけどね」
「では、場所を私の部屋に移しませんか。ボジェイク老から頂戴した、珍しい酒があります。もどかしい者を見守る同志として、酌み交わしながら話をしましょう」
(ジグワルド・フリーダ・バーデレに誘われた……!)
「うん、もちろん」
名誉にさえ思いながら、クローヴァは立ち上がった。
そして、聞きしに勝るサラマリスの重い定めと、そのなかで歪 んでしまった従兄妹 同士の関係を知り。
「……なぜサラマリス家は、それほど他者と関りを持たずに」
(いや、むしろ自ら孤立するような生き方を……)
「それは」
ジーグがふとうなだれる。
「誰よりも力を持つならば、誰よりも先陣を切れ、という教えが徹底しているからでしょう。サラマリス家の平均寿命は、赤竜族一短い。遺し遺されるときに、親しい者などいないほうが、心残りがなくてよい。というのが、暗黙の了解でした」
かつて故郷をなくしたジーグが、サラマリス家からの厚遇に礼を言おうとした際に。
――貴君の能力を報酬で買っているのだから、恩義など感じる必要はない――
当主バシリウス・サラマリスの、淡々とした表情は変わらなかった。
――余計な情があれば剣が鈍る。私も必要があれば貴君を切り捨て、竜を優先するだろう――
そうしてその言葉のとおり、サラマリス家は「家族」というよりも、ひとつの部隊のようであり。
親子で手をつなぐ姿さえ見たことがなく、それを幼いアルテミシアも、当たり前と受け止めているようだった。
だが。
たまに訪れる従兄の手を握り、頭をなでられ、抱きしめられているとき。
アルテミシアは何とも言えない、安らいだ笑顔を見せていた。
誰からももらえない人の温もりを、あの従兄妹 たちは互いに分け合っていたのだ。
(明日アルテミシアに会ったら、泣いてしまうかもしれないな)
人として当たり前のものを知らずに、誰よりも勇猛に戦ってきた少女の歩んだ道に。
気づいたクローヴァは、涙が一粒落ちた酒を飲みほした。
「申し訳ない。……もう一度だけ、時間をもらえないだろうか」
夜の警らへ向かおうと、療養所を出たジーグの背にかけられたのは、悲壮なほどのクローヴァの声。
「何度もすまない。その、話があって……」
「手短に願います」
かかとを支点にくるりと向き直ったジーグに、クローヴァはふるふると首を横に振る。
「いや、できればその、ちょっと時間がほしい。僕の部屋に来くれないか」
「ここではできない話ですか」
「でき、ない……」
そこにいるのは、果敢に兵たちに檄を飛ばしていた第一王子ではなく。
ウロウロと視線を泳がせるクローヴァは、そうしていればレヴィアによく似ている。
「では、警らのあと、殿下のお部屋にうかがっても?」
「うん、待っている。……ありがとう」
肩から力を抜いたクローヴァは、深々と頭を下げた。
「どうぞ」と
――本音で向き合おう――
その気持ちが伝わってくる。
「フリーダ卿、あの……。その」
言葉を探してオロオロする様子にレヴィアを重ねて、ジーグはとうとうクスリと笑った。
「ゆっくりで構いません」
「……!」
クローヴァが
「殿下がお気持ちを整え、お考えをまとめるその間に、私は謝罪いたしましょう」
稀代の剣士に頭を下げられて、クローヴァの目が丸くなった。
「
「いや、僕が至らなかったせいだとわかっている。……
ジーグから目をそらしたクローヴァが肩を落とした。
「どこかで自分は王族だ、自由になりさえすれば、皆を従わせることができると甘く考えていた。本音を隠したままでも、相手を操れると。今思えば、なんて卑怯で未熟だったんだろうと恥ずかしく思うよ」
「殿下が未熟な部分はもうありません」
「え?」
「それを自覚されたとき、すでに成長していらっしゃいますから」
「フリーダ卿……。ありがとう」
泣き出しそうな瞳を上げるクローヴァに、ジーグは大きくうなずく。
「そう言ってもらえると、少しは心が軽くなる。でも、思い知ったんだ。ひとりで学ぶ世界は狭くて浅い。だから、
「弟子ばかり増やすと苦労するぞと、姉弟子から忠告を受けているのですが」
「だめ、だろうか」
たちまちシュンとするクローヴァに、とうとうジーグが肩を揺らして笑い始めた。
「彼女もすでに弟子はふたりいますし、私がもうひとり弟子を増やしたところで、四の五の言いますまい。……お受けいたしましょう」
「ありがとう!でも……」
ぱっと顔を明るくした次の瞬間、クローヴァは首を傾ける。
「
(確かに、リズワンは傑出した人物ではあるけれど……)
ジーグがリズワンに劣るとは思えないし、今のふたりを見ていると、互いに認め合っている仲に見えるのだが。
「それはもう、かなり鍛えられましたから」
わずかに眉の根を寄せて、
「私が国を失い、帝国の
ふっと笑ったジーグはどこか切なそうで。
その人間くさい表情に、クローヴァは知らず息を飲んだ。
「”腑抜けた顔をするな”と言うなり、蹴り飛ばしてくる人ですからね。さすがに、骨折や打ち身の酷かった部分は避けてくれましたが」
それはジーグもリズワンも滅多に口にすることがない、ふたりだけの思い出だと、クローヴァは気づく。
(誠実というのは、こういうことなんだな)
受け入れるといったん決めたのならば、相手が
なんて清々しくて、廉直な人物だろう。
「フリーダ卿」
姿勢を正したクローヴァを、ジーグがギロリとにらむ。
「フリーダ卿とはなんですか。
マハディを真似てみせるジーグに、クローヴァは吹き出して笑った。
「ふふっ。……ジーグ師匠」
「はい」
「僕はね、誰にも話していない、話すつもりのなかったことがあるんだ。それほど重い話ではないよ。それでもずっと胸に
クローヴァが切なげに目を伏せる。
「僕にとってレヴィアは、ただの弟ではないんだ。……僕の初恋の人の、大切な忘れ形見。父と僕が守れずに、トーラが無残に殺してしまった、
クローヴァの体全体から、憤りと悔いがにじみ出ている。
「暗い部屋に閉じ込められている間に、僕はあの
その告白を聞きながら、ジーグの口元がほどけていった。
クローヴァがリーラと親しく過ごしたのは、彼が十になるかならないかのころだろう。
そのころリーラは
(軟禁されている間中、妃殿下の死を
孤独に冥府へと送ってしまった、その悔しさを抱え続けていたのかと思えば。
(だから、彼女に瓜二つだというレヴィアを、かばう気持ちが強いのかもしれないな)
時おり震えるクローヴァの声に、ジーグは耳を傾け続ける。
――
雨の夜。
天幕の外で自分を待ち受けていた、クローヴァが漏らした本音。
アルテミシアの能力を認めながら、人柄は信用しながら。
同時に大切な弟を悲しませる、忌々しい存在でもあったのだろう。
だが、あの騒乱の只中で赤竜騎士たちと出会い。
想像を超えた、尋常ならざる帝国の姿と、アルテミシアを縛る茨の影を見たのに違いない。
「リズィエが
ああ
なのは」兄王子の悔恨を受け止めたジーグは、静かなため息をついた。
「ふたつ理由があります。ひとつは死を
腹立たしさを隠さないジーグに、クローヴァは目を見張る。
「
あの男
が他人の情、特に好意に触れさせないように、周りを「
あの男
?サラマリス公のことかな」必要ならば、背筋が凍えるほどの完璧な笑顔も作るが、普段は彫像めいた美麗の男。
だが、アルテミシアの前だけでは血の通った、不快や嫉妬などの感情を露わにする人物。
ジーグの
「ふたりの関係には事情があり、それはやむを得ないところもあります。ですが、あの男は手段も選ばず、しかも、法外に徹底している。そのためリズィエは、無邪気さを年相応に脱する機会を、逃してしまったところがあるのです。……ときどき、酷く幼いと感じることがありませんか?」
「うん、そうだね。幼いというか、ヴァイノの言葉を借りると”距離感おかしーだろ”ってやつかな」
ジーグの無言の肯定に、クローヴァはずいと膝を寄せた。
「その事情を、よければ聞かせてもらえるだろうか」
「聞けば、リズィエに対する”同族嫌悪”を、解消してしていただけますか?」
からかうような
「それはとっくに反省している。愚かなことを言った。あの苛烈で天衣無縫なリズィエを、きちんと理解したいんだ」
弟子の顔で見上げてくるクローヴァに、ジーグの笑みが深まる。
「教えていただけるのなら、僕ひとりの胸に納めておくと約束する。もちろん、レヴィアにも。あの子は優しいから、気にしてしまうだろうし。まあ、そうだとしても、リズィエを諦めることだけはない、と思うけどね」
「では、場所を私の部屋に移しませんか。ボジェイク老から頂戴した、珍しい酒があります。もどかしい者を見守る同志として、酌み交わしながら話をしましょう」
(ジグワルド・フリーダ・バーデレに誘われた……!)
「うん、もちろん」
名誉にさえ思いながら、クローヴァは立ち上がった。
そして、聞きしに勝るサラマリスの重い定めと、そのなかで
「……なぜサラマリス家は、それほど他者と関りを持たずに」
(いや、むしろ自ら孤立するような生き方を……)
「それは」
ジーグがふとうなだれる。
「誰よりも力を持つならば、誰よりも先陣を切れ、という教えが徹底しているからでしょう。サラマリス家の平均寿命は、赤竜族一短い。遺し遺されるときに、親しい者などいないほうが、心残りがなくてよい。というのが、暗黙の了解でした」
かつて故郷をなくしたジーグが、サラマリス家からの厚遇に礼を言おうとした際に。
――貴君の能力を報酬で買っているのだから、恩義など感じる必要はない――
当主バシリウス・サラマリスの、淡々とした表情は変わらなかった。
――余計な情があれば剣が鈍る。私も必要があれば貴君を切り捨て、竜を優先するだろう――
そうしてその言葉のとおり、サラマリス家は「家族」というよりも、ひとつの部隊のようであり。
親子で手をつなぐ姿さえ見たことがなく、それを幼いアルテミシアも、当たり前と受け止めているようだった。
だが。
たまに訪れる従兄の手を握り、頭をなでられ、抱きしめられているとき。
アルテミシアは何とも言えない、安らいだ笑顔を見せていた。
誰からももらえない人の温もりを、あの
(明日アルテミシアに会ったら、泣いてしまうかもしれないな)
人として当たり前のものを知らずに、誰よりも勇猛に戦ってきた少女の歩んだ道に。
気づいたクローヴァは、涙が一粒落ちた酒を飲みほした。