第141話 慈しみ

文字数 645文字

「白河の実家にはわたくしは病で死んだとお伝えください。さすれば和睦は守られましょう」
 そう告げると藤音はまた儚げに微笑した。
 覚悟を決めた者の静かな顔だった。
「短い間でしたが、殿とご一緒できて幸せでした。もしも生まれ変わりというものがあるのなら、今度、生まれた時はただの娘としてあなたさまの妻に……」
 言い終わらないうちに藤音は息を呑んだ。刃を自分に向けていた藤音の手に、隼人の手が重ねられたのだ。
 隼人は力をこめ、懐剣を藤音の手から奪おうとする。強い意志を宿した、まっすぐなまなざしで。
「死なせはしない。藤音、そなたはわたしの妻だ!」
 が、鬼も邪魔だてさせまいと、藤音の手を操って懐剣を隼人に向けさせる。勢いをつけた刃の先が隼人の頬をかすめ、鮮血が滴り落ちる。
「つっ……」
「隼人さま!」
 頬に手をやって顔をしかめる隼人に、藤音が悲鳴のように名を呼ぶ。
「もうよいのです。わたくしなど、捨ておきください!」
「たいした傷じゃない。それより生まれ変わったら、などと哀しいことを言うな。藤音もわたしも、今、こうしてここにいるのに」
 慈しみをこめて語りかける隼人に、藤音の眼が大きく見開かれる。瞳はただひたすら隼人だけを見つめている。
 隼人はあきらめずに、慎重に藤音の手の指を一本ずつ懐剣から外していく。
 心のゆらぎが中にいる鬼を動揺させたのか、藤音の手からは力が抜けている。




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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