第142話 ゆらぎ

文字数 569文字

 最後の指が離れると、懐剣は藤音の手から音もなくすべり落ちていった。
 同時に鬼の張った負の結界も消滅していく。
 ようやく解けた結界に、刀を構える伊織を桜花が引き止める。
「だめよ! 今、刀を使ったら藤音さまも傷つけてしまうわ!」
 どうにかして鬼と藤音を引き離さなければ。
 それができるのは隼人と、藤音自身の意志だけなのだ。
 隼人は藤音を包みこむように抱きしめ、秘めてきた想いを伝える。
「勇気がなくて今まで言えなかったけれど、わたしは藤音が好きだ。初めて会った時からずっと」
 隼人の言の葉が、腕のぬくもりが、凍てついた藤音の心を溶かしていく。
 本当はこのひとの笑顔が大好きだった。暖かな太陽のようで、自分に笑いかけてくれる姿を大切に胸にしまっていた。
「すまない……もっと早くきちんと打ち明けていれば、こんなにも藤音を苦しめることはなかっただろうに」
 抱きしめる腕に力をこめ、隼人は愛しい者へ呼びかける。
「戻っておいで、わたしのところへ。わたしたちはまだお互いさえよく知らない。わたしは藤音と語りたいことがたくさんある。いろいろな話をして、笑って、一緒に生きていきたい」
「あ……」
 藤音は両手で頭を押さえた。自分の中の鬼と葛藤しているのだ。
 桜花にはその背後に黒い影がゆらめくのが見えた。今まで藤音の心と重なっていた鬼に、ずれが生じてきている。




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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