第30話 立葵

文字数 538文字

 春が過ぎ、長雨の季節も終わったその年の夏は、ことのほか暑かった。
 草薙(くさなぎ)は海に面し、比較的過ごしやすい気候なのだが、それでも城では年かさの重臣たちの何人かは体調を崩したほどである。
 うだるような暑さの中、藤音の乳母である如月は困り果てていた。
「藤音さま、お願いでございますから、少しはお食事を召し上がってくださいまし」
 ここのところ藤音はすっかり食欲がない。如月がどんなにすすめても、ほとんど料理に箸をつけず、ただ気だるげに床についている。
 ぼんやりと天井を見上げ、視線を床の間に移すと、花器に無造作に立葵(たちあおい)が活けてあるのが眼に入る。
 燃えるように鮮やかな赤の花を幾つも咲かせ、天に向かってすっくと立っている。
「あの花は?」
 枕もとで団扇(うちわ)をあおぎ、藤音に風を送っていた如月がつまらなそうに答えやる。
「あれは殿から届けられたものですよ。捨てるわけにもいかないので飾ってありますが」
「きれいね……」
 八重桜や躑躅(つつじ)、紫陽花、立葵。隼人からは折にふれて花が届けられる。その心づかいが少しばかりうれしくて、そして辛い。




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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