第153話 一度だけ

文字数 678文字

 ──あなたが父に味方してくださると?
 ──いかにも。そして父君の願いがかなった暁には、そなたを妻にと望んでもよいだろうか……?
 ためらいがちにたずねる浅葱に唯姫は小さく、けれどはっきりとうなずいた。
 暖かな胸に顔を埋めると規則正しい鼓動が伝わってくる。唯姫は眼を閉じ、その音に耳をかたむける。彼と自分には何の違いもない。
 己でも不思議な愛しさという感情に心をゆだねつつ、浅葱は艶やかな黒髪を撫でた。
 ──人と関わってはならぬ。
 母の遺言は片時も忘れたことはなかった。子供の頃、人間たちに受けた(むご)い仕打ちも。
 でも今は。自分を必要としている者がいる。そして愛してくれる者がいる。
 不安がないといえば嘘になった。自分もまた父と母のように、唯姫を不幸にしてしまうのではないかと。
 それでも、もはや姫と離れて生きていくなど考えられなかった。一度だけ、と浅葱は自分に言いきかせた。
 一度だけ、人間を信じてみよう。
 姫と共にいられるなのら何があろうと(いと)わない。
 辰人の願いを受諾した時、彼は涙を流して感謝の念を表したものだ。
「浅葱どののお力があれば、勝利は確実ですぞ」
 辰人は城下に戻り、まだ自分を慕ってくれる家臣たちに密かに連絡を取り、軍勢を集めた。
「我は唯姫の父のために鬼の力を使い、幻術で敵の軍を惑わせて打ち破った」
 異能の力を使える浅葱にとっては、人間の軍を壊滅させるなど、赤子の手をひねるより簡単だった。
 だが、勝利した浅葱を待っていたのは残酷な現実だった。
「あの男は領主の座を取り戻したとたん、手のひらを返したように我を疎んじ、あまつさえ殺めようとした」




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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