第76話 癒す力

文字数 673文字

 今日も勤めを終えて、伊織は桜花のところへ来てくれたのだ。
 桜花は立ち上がり、帰り仕度を始めた。といってもほとんど身ひとつだ。
 二人は門番に挨拶すると館を後にした。
 少し歩けばすぐに広々とした海辺に出る。
 潮風が以前より涼しく感じられた。もう盛夏も過ぎようとしている。
 波の音を聞きながら、二人は並んでゆっくりと足を運んでいく。
「あの、もし……」
 おずおずとした細い声を耳にしたのは、屋敷まで半分ほどの距離に来た時だった。
 歩みを止めて振り返ると、そこには質素な身なりの女が立っていた。
 反射的に伊織は刀の柄に手をかけたが、相手を確認するとすぐに手を放した。ひと目で地元の者とわかる。おそらくは漁師の女房だろう。
「もしや、あなたさまは天宮の巫女、桜花さまではございませんか?」
 女は胸の前で両手を合わせ、おそるおそるたずねかける。
 とまどいつつも、ええ、と桜花が返答すると、女はすがるように訴えてきた。
「子供が熱を出して苦しんでおります。家中の銭をかき集めて薬師にも診せましたが、原因がわかりません。天宮の巫女は病を癒す力があると聞いております。桜花さま、どうかお助けくださいませ!」
「子供が……?」
 桜花は当惑して伊織の方を見た。が、とまどっているのは伊織も同じだ。
 天宮と桐生、二つの家は親しかったから、幼い頃から桜花を知っている。
 だが伊織は桜花が病気を癒すところなど見たことがない。桜花自身、やったことがない。




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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