第79話 遠い記憶

文字数 708文字

 桜花は固唾をのんで見守っている母親の方を振り向いた。
「これで熱は下がったと思います。後で天宮の屋敷に来てください。祖父に頼んで薬草を調合してもらいます。それと……」
 一度、言葉を切り、真剣な口調で告げる。
「今後、あの大岩に近づいてはなりません。あれは鬼のひそむ場所。身も心も瘴気を受けてしまいます。くれぐれもよく言ってきかせてください」
 母親は、はい、とうなずくと、両手をつき、深く頭を下げた。
「薬師でさえ治せなかったものを、何とお礼を言ってよいか……。さすがは天宮の巫女さま、まさしく天女のごときお方」
 感激する母親に桜花は困り顔になる。この少女はこんな風に賛美される時、いつも決まって居心地の悪そうな表情を見せるのだ。
 何度も頭を下げる母親に屋敷への道順を教えると、桜花と伊織は漁師の家を後にした。
 薄暗い屋内から外に出ると、桜花はほうっと大きな息をついた。
 再び、二人は天宮の屋敷の方角へ、波打ち際を歩き出す。
「すごいな、桜花は」
 肩を並べて歩きながら、伊織は心底、感嘆した声を出した。
「伝承には聞いていたが、本当に桜花は人を癒す力を持った存在なのだな」
 しかし桜花は、いいえ、と小さく首を横に振った。 
「昔、母さまがやっていたのを思い出したの。もしかしたら、と思って真似してみただけ。幸い、うまくいったけど」
 遠い記憶をたどるように桜花は眼を細めた。
 母が逝ってしまったのは、桜花がまだ十歳の時。ほとんど何も教わらないうちで、今となっては面影もだいぶおぼろげになってしまっている。




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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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