第98話 もどかしさ

文字数 584文字

「もし藤音さまが出かけられるとしても、もっと遅い時刻になってからだろう。何かあったらすぐ呼ぶから、桜花はその時まで休んでいるといい」
 ありがとう、と桜花は素直に感謝を伝えた。正直、身体がだるくて頭が重い。
「なら、少し休ませてもらうわね」
 部屋の奥に移動しようと立ち上がった時だ。軽い眩暈(めまい)がして桜花はふらっとした。
「桜花 !?
 とっさに伊織は腕を伸ばし、支えようとしたが、
「わわっ!」
「きゃっ!」
 均衡を崩し、二人は折り重なるように畳の上に倒れこむ。
 互いの鼓動が伝わり、ひととき、息がかかるほど間近で瞳を見かわす。
 桜花が腕の中にいる──伊織は不意に、華奢な身体を抱きしめたい衝動にかられた。
 もしも、このまま抱きしめたら。
 桜花をどこへもやらずに……他の男に渡さずにすむだろうか。
「……伊織?」
 が、桜花の無垢な声が冷静さを取り戻させ、伊織は感情を押し殺した。
 桜花は九条家に仕える巫女であり、しかも今は自分の兄に求婚されている身だ。軽はずみな真似は許されない。
「す、すまん」
 あわてて起き上がり、桜花の手を取る。桜花は黙って身体を起こし、眼を伏せる。
 胸の音は正直にどくんどくん鳴っているのに、言葉にできないもどかしさ。
 



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登場人物紹介

天宮桜花(あまみやおうか)


始祖が天女と言われる家系に生まれた巫女。

破魔の力を受け継ぐ可憐な少女。

大切な人たちを守るため、鬼と対峙していく。

桐生伊織(きりゅういおり)


始祖が龍であったと言われる家系に生まれる。桜花とは幼馴染。

桜花を想っているが、異母兄への遠慮もあり、口にできない。

九条隼人(くじょうはやと)


草薙の若き聡明な領主。趣味は学問と錬金術。

心優しい少年で藤音を案じているが、どう接してよいかわからず、気持ちを伝えられないでいる。

藤音(ふじね)


和睦の証として人質同然に嫁いできた姫。

隼人の誠実さに惹かれながらも、戦死した弟が忘れられず、心を閉ざしている。

鬼伝承が残る海辺の村で、いつしか魔に魅入られていく……。

浅葱(あさぎ)

愛しい姫を奪われた鬼。世を呪い、九条家に復讐を誓う。

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