第25話 真夜中の説得
文字数 2,505文字
ヤミ属執行者の頂点たるヴァイスは、所持する権能もさることながら身体能力もずば抜けて高い。
それゆえ裁定神殿を走り出たヴァイスをすぐさま追いかけたディルは、再びヴァイスを見失ってしまった。
ヴァイスがディルの存在に気づいて撒いたわけではない。それほどに気が逸っている証左だ。
ヴァイスはエレンフォールが関わると完璧でなくなる。さらに直前までエンラと交わした言葉を鑑みれば、彼がこれまで以上に余裕を失くしているだろうことは想像にたやすかった。
「チィッ、ほんとバカみたいに足速いなアイツ……!」
ディルは常夜のヤミ属界を駆け抜けながら、界隈に忙しなく視線を投げ続けた。
しかしどこにもヴァイスの姿は見つからない。だからこんなときにも悪態と後悔が止まらない。
自分がもう少し鍛えていれば。
ヴァイスと〝神核繋ぎ〟をしていれば。
そもそもヴァイスをひとりで任務に行かせなければ――
しかし今はそんな非生産的な思いで内面を充満させている場合でもなく、ディルは乱暴に頭を振ってヴァイスを見つけることに集中しようとした。
ヴァイスは紋翼を使わず、己の足を使って裁定神殿を出た。これの意味するところは彼がまだヤミ属界に留まっているということだ。
無論、ディルがヴァイスを見失ってすぐに紋翼を展開しヤミ属界を離れた可能性はある。だが、ディルは彼がまだヤミ属界にいると確信していた。
そこには何の根拠もない。ただの長年一緒にいて得られた勘だ。そしてその勘はディルに防衛地帯と職務地帯を逡巡なく走り抜けさせる。
そうやって全力疾走で走り続け、たどり着いた場所は居住地帯にあるヴァイス・アスカ・シエルの家。
常夜のヤミ属界にも時間の概念はあり、現在時刻は皆が寝静まる深夜である。
そのため肩を激しく上下させながら家の前で立ち止まったディルの周囲に他のヤミの姿は皆無だ。
窓から明かりが漏れていないことから、ヴァイスの育て子であるアスカやシエルも眠っていることが察せられる。静かな静かな夜。
しかし、その静謐さも玄関ドアが開いたことで終わりを迎える。
育て子たちの眠りを妨げないためか音もなく開いたドアの隙間からヴァイスの姿を捉えたとき、ディルは己の表情がさらに険しくなったのを自覚した。
ヴァイスもディルにすぐ気づく。数秒見つめ合う。沈黙。
「……ディル。もうすべてを知っている顔だ」
やがてヴァイスは口火を切る。かすれた声で。
「ああ、全部見てた。お前のこと信じてやれなくて悪かったな。だが今回はそれで正解だったみたいだぜ」
そう言うディルは平静に程遠かった。
むしろその右耳にターコイズのピアスが揺らめいているのを見るたびに感情がブクブクと膨れ上がっていった。ディルはヴァイスに歩み寄りながら続ける。
「おいヴァイス、さっさとエレンフォールを執行してこい。今回の件は明らかにお前が間違ってる。
それでもエンラ様が強制的に謹慎領域に閉じこめなかったのは、根っこの部分でお前を信頼してるからだ。お前がやらなくちゃならねぇんだよ」
「……」
「今すぐ執行しろ。期限までに遂げられなくちゃ深刻なことが起きる。
他の執行者が任務失敗して悲惨な事態を招いちまった話は何度も聞いたことがあったろ。執行対象、その周囲……どっちも苦しむんだ。
お前はエレンフォールを不幸にしてぇのかよ?」
「不幸になどしない。だが、執行もしない」
迷いのない口調。半ば予想していた答え。
白の仮面に阻まれ視認できぬ双眸は、それでもまっすぐに数歩先のディルを見つめてくる。それがまた癇に障る。
「お前、何言ってんのか分かってんのか」
「ああ。私は決めた。生物界に下りてエレンフォールを争いの場から逃がす」
「……そのあとは」
「一緒に過ごす。争いのない安全な場所で、彼が残り少ない命を終えるまで」
「はっ……指名勅令を放棄するだけに飽き足らず、一番やっちゃいけねぇ生物の生き方にまで干渉、ヤミ属からも離反しますってか」
「……そうだ」
うつむくヴァイス。そこに冷静な一片が垣間見えて、だからこそ彼の出した結論が完全なる忘我の果てのモノではないと分かってしまって、ディルは舌を打つ。
ヴァイスは自分の決断がヤミ属執行者として大罪であると分かっている。そのうえで決断してしまったのだ。
ディルは初めてこんなヴァイスを目の当たりにした。バディを組んで何百年、彼は常に白であり続け、己の願望も持ってこなかった。ただひたすら、淡々とそつなく任務をこなすだけだった。
「ふざけんな……俺がそれを許すと思ってんのか」
そんなヴァイスがひとつ欲を持った。願いを持った。
愛のあるディルがうらやましい、自分は真っ白で空っぽだと以前こぼしていた彼が色を持ったのだ。
それ自体はディルにも喜ばしいことだ。しかし情を向けた相手が執行対象であり、願いがヤミ属の在り方と真逆とあれば話はまったく違ってくる。
「もういい、話にならねぇ。お前は属界で待機してろ。俺が代わりにやる」
だからディルが言うと、ヴァイスは俯かせていた顔を勢いよく持ち上げた。
「エレンフォールの執行は俺がやるって言ってんだ。一瞬で終わらせてきてやるよ」
「ッ断る」
「断るも何もねぇ。お前ができねぇなら俺が責任取ってやる」
「ッやめろ!!」
ヴァイスがディルに掴みかかった。聴覚をつんざくがごとき大声量、激しい剣幕。
「エレンフォールを殺すな! 例えお前でもそれだけは許さない、絶対に!!」
ゆえにディルもギリギリ取り繕えていた最後の皮が剥がれてしまう。きしむほどに歯を噛みしめ、同じように胸ぐらをつかんでは至近距離で睨めつけた。
「テメェっ、どこまで頭わいてんだよ!? 再起不能になるまで俺の猛毒食らいてぇのか!!」
「私は殺さない……殺させない! 必ずエレンフォールの道を守る、残り少ない命の終わりまで!」
「あぁ!?」
「約束したんだッ次はとっておきの話をすると! きっと喜んでくれるはずなんだ……!!」
「ッ!」
ドゴッ!!
肉に肉が打ちつけられた重々しい音が界隈に響いた。
それと同時にヴァイスの体躯は大きく吹き飛び、今度は背中が地面に叩きつけられる音が響く。
それゆえ裁定神殿を走り出たヴァイスをすぐさま追いかけたディルは、再びヴァイスを見失ってしまった。
ヴァイスがディルの存在に気づいて撒いたわけではない。それほどに気が逸っている証左だ。
ヴァイスはエレンフォールが関わると完璧でなくなる。さらに直前までエンラと交わした言葉を鑑みれば、彼がこれまで以上に余裕を失くしているだろうことは想像にたやすかった。
「チィッ、ほんとバカみたいに足速いなアイツ……!」
ディルは常夜のヤミ属界を駆け抜けながら、界隈に忙しなく視線を投げ続けた。
しかしどこにもヴァイスの姿は見つからない。だからこんなときにも悪態と後悔が止まらない。
自分がもう少し鍛えていれば。
ヴァイスと〝神核繋ぎ〟をしていれば。
そもそもヴァイスをひとりで任務に行かせなければ――
しかし今はそんな非生産的な思いで内面を充満させている場合でもなく、ディルは乱暴に頭を振ってヴァイスを見つけることに集中しようとした。
ヴァイスは紋翼を使わず、己の足を使って裁定神殿を出た。これの意味するところは彼がまだヤミ属界に留まっているということだ。
無論、ディルがヴァイスを見失ってすぐに紋翼を展開しヤミ属界を離れた可能性はある。だが、ディルは彼がまだヤミ属界にいると確信していた。
そこには何の根拠もない。ただの長年一緒にいて得られた勘だ。そしてその勘はディルに防衛地帯と職務地帯を逡巡なく走り抜けさせる。
そうやって全力疾走で走り続け、たどり着いた場所は居住地帯にあるヴァイス・アスカ・シエルの家。
常夜のヤミ属界にも時間の概念はあり、現在時刻は皆が寝静まる深夜である。
そのため肩を激しく上下させながら家の前で立ち止まったディルの周囲に他のヤミの姿は皆無だ。
窓から明かりが漏れていないことから、ヴァイスの育て子であるアスカやシエルも眠っていることが察せられる。静かな静かな夜。
しかし、その静謐さも玄関ドアが開いたことで終わりを迎える。
育て子たちの眠りを妨げないためか音もなく開いたドアの隙間からヴァイスの姿を捉えたとき、ディルは己の表情がさらに険しくなったのを自覚した。
ヴァイスもディルにすぐ気づく。数秒見つめ合う。沈黙。
「……ディル。もうすべてを知っている顔だ」
やがてヴァイスは口火を切る。かすれた声で。
「ああ、全部見てた。お前のこと信じてやれなくて悪かったな。だが今回はそれで正解だったみたいだぜ」
そう言うディルは平静に程遠かった。
むしろその右耳にターコイズのピアスが揺らめいているのを見るたびに感情がブクブクと膨れ上がっていった。ディルはヴァイスに歩み寄りながら続ける。
「おいヴァイス、さっさとエレンフォールを執行してこい。今回の件は明らかにお前が間違ってる。
それでもエンラ様が強制的に謹慎領域に閉じこめなかったのは、根っこの部分でお前を信頼してるからだ。お前がやらなくちゃならねぇんだよ」
「……」
「今すぐ執行しろ。期限までに遂げられなくちゃ深刻なことが起きる。
他の執行者が任務失敗して悲惨な事態を招いちまった話は何度も聞いたことがあったろ。執行対象、その周囲……どっちも苦しむんだ。
お前はエレンフォールを不幸にしてぇのかよ?」
「不幸になどしない。だが、執行もしない」
迷いのない口調。半ば予想していた答え。
白の仮面に阻まれ視認できぬ双眸は、それでもまっすぐに数歩先のディルを見つめてくる。それがまた癇に障る。
「お前、何言ってんのか分かってんのか」
「ああ。私は決めた。生物界に下りてエレンフォールを争いの場から逃がす」
「……そのあとは」
「一緒に過ごす。争いのない安全な場所で、彼が残り少ない命を終えるまで」
「はっ……指名勅令を放棄するだけに飽き足らず、一番やっちゃいけねぇ生物の生き方にまで干渉、ヤミ属からも離反しますってか」
「……そうだ」
うつむくヴァイス。そこに冷静な一片が垣間見えて、だからこそ彼の出した結論が完全なる忘我の果てのモノではないと分かってしまって、ディルは舌を打つ。
ヴァイスは自分の決断がヤミ属執行者として大罪であると分かっている。そのうえで決断してしまったのだ。
ディルは初めてこんなヴァイスを目の当たりにした。バディを組んで何百年、彼は常に白であり続け、己の願望も持ってこなかった。ただひたすら、淡々とそつなく任務をこなすだけだった。
「ふざけんな……俺がそれを許すと思ってんのか」
そんなヴァイスがひとつ欲を持った。願いを持った。
愛のあるディルがうらやましい、自分は真っ白で空っぽだと以前こぼしていた彼が色を持ったのだ。
それ自体はディルにも喜ばしいことだ。しかし情を向けた相手が執行対象であり、願いがヤミ属の在り方と真逆とあれば話はまったく違ってくる。
「もういい、話にならねぇ。お前は属界で待機してろ。俺が代わりにやる」
だからディルが言うと、ヴァイスは俯かせていた顔を勢いよく持ち上げた。
「エレンフォールの執行は俺がやるって言ってんだ。一瞬で終わらせてきてやるよ」
「ッ断る」
「断るも何もねぇ。お前ができねぇなら俺が責任取ってやる」
「ッやめろ!!」
ヴァイスがディルに掴みかかった。聴覚をつんざくがごとき大声量、激しい剣幕。
「エレンフォールを殺すな! 例えお前でもそれだけは許さない、絶対に!!」
ゆえにディルもギリギリ取り繕えていた最後の皮が剥がれてしまう。きしむほどに歯を噛みしめ、同じように胸ぐらをつかんでは至近距離で睨めつけた。
「テメェっ、どこまで頭わいてんだよ!? 再起不能になるまで俺の猛毒食らいてぇのか!!」
「私は殺さない……殺させない! 必ずエレンフォールの道を守る、残り少ない命の終わりまで!」
「あぁ!?」
「約束したんだッ次はとっておきの話をすると! きっと喜んでくれるはずなんだ……!!」
「ッ!」
ドゴッ!!
肉に肉が打ちつけられた重々しい音が界隈に響いた。
それと同時にヴァイスの体躯は大きく吹き飛び、今度は背中が地面に叩きつけられる音が響く。