第9話 ヤミ属統主・エンラスーロイ

文字数 2,737文字

 エンラは黒い眼球を動かしては赤くなっていく響の面をじろじろ見つめ、そうして笑みを浮かべる。

「多少気弱さはあるが良い面構えだ。底抜けに愛らしい。うむ決めた! 我は今から貴様をこの豊満な肉体で愛し尽くそう!」

「!?」

 高らかに言いながら、エンラは響の頭から離した手を今度は大きく広げた。

「ほれ、遠慮せず我が胸に飛びこんで参れ響よ! 抱いて撫でて接吻をして可愛がってくれよう。

 だがくれぐれも淫気を孕むでないぞ。わずかでも感じたなら完膚なきまでに全身の骨肉を抱き砕いてやろう!」

 言葉の不穏さに響が硬直しているとエンラは自ら抱きしめようとしてくる。

「おわあああ!? 困ります、困ります!」

 背中に手が回る前に逃れたのでギリギリ未遂ではあったが、離れる際に豊満で柔らかな双丘とわずかに接触してしまって響の顔は一気に真っ赤になってしまった。

 しかもエンラは明らかに響の反応を面白がって止めようとしない。響はじりじりと後ずさりしつつ冷や汗をかきはじめた。

 まずい、次は確実に骨の髄まで粉々にされる!!

「エンラ様。この年ごろの少年には刺激が強すぎるかと」

 絶体絶命の心地になっていると傍らに立っているヴァイスが間に入って助け舟を出してくれた。あからさまに安堵する響。

「ふーん。ならばアスカ、」
「遠慮しておきます」

 返事をするアスカを振り返ると彼は涼しい顔をしていた。慣れを感じる。

「なんじゃ、相変わらずつれないのう!」

 とはいえエンラも特段気にしたふうはない。満足げな笑みを浮かべながら踵を返し、どこからか取り出した檜扇で紅の垂れ髪を揺らし玉座前へと戻っていった。

「さて。歓談はここまでだ」

 そして一転、エンラは声色を変えた。今の今までそこにあった笑みもすっかり鳴りを潜めている。その変化に響が驚いていると、エンラは高貴な頭をゆっくりと下げた。

「響よ。魂魄ある限り生死の循環を約束されし神の愛し子よ。貴様を循環の輪から外れさせてしまった事実、あまりに重い。大層にすまぬ」

「……、」

「償いには到底足りずとも、我はこのヤミ属界において貴様に最大限の自由を与えることを約束する。希望はいつ何時でも遠慮なく申せ。ヤミ属統主として貴様の意志を尊重しよう」

「あ、ありがとうございます」

 恐縮しつつ響も頭を下げる。そのあとでこれで良かったのか不安になって傍らのヴァイスを見上げれば、彼もまた肯定するように頷いてくれてホッとする。

 ゆえに響は気づかなかった。背後で密かに目を伏せ唇を噛むアスカのことを。



 その後エンラのそばに控えていた側近長リンリンが「我が主。そろそろ裁定の職務にお戻りくださいませ」とエンラに言上したところで謁見は終了の流れとなった。

「ヴァイスよ、響とともにこのまま神域へ参上せよ」

「よろしいのですか」

「うむ。ヤミ神――生物の礎となられて久しい我らの太母に拝謁を許す。ではな響。いつでも気軽に参るがよい」

「ありがとう、ございます」

 退出し、扉が背後で閉まる音を聞くと響はまず大きな吐息をついた。ようやく最高潮の緊張感から解放された。どうやら知らずのうちに全身に力を込めていたようだ、今さら身体が痛い。

 そんなことを考えながら何度も呼吸を繰り返している響の隣で、ヴァイスはしみじみとしている。

「いやぁ、とても珍しいものを見たな。まさかエンラ様が頭を下げるなんて」

「そうなんですか?」

「そうなんだよ。エンラ様も響くんのことはそれほどに重く受け止めていらっしゃるんだね」

「……あの、アスカさんは残っちゃいましたけど。これから怒られたりするんでしょうか?」

 退出の直前にエンラは「アスカはこのまま残れ」と言い、アスカはまだエンラのもとに留まっている。

 ただの人間だった響が〝混血の禁忌〟によって人間とヤミ属の中間存在〝半陰〟となり、生物界で暮らすことができなくなった事実はアスカの任務失敗が大いに関係している。

 響の身に起こったそれらはヤミ属界を統べ、かつ日頃頭を下げることもないらしいエンラが頭を下げるほどのことなのだ。となれば、残ったアスカに待っているのは重い叱責なのではないだろうか――そう思ったのだ。

「うーん、どうだろうね。エンラ様がアスカを留まらせたのは、アスカが無事退院した報告をする必要があったからだと思うが、叱責を受ける可能性も否定はできないな」

「……」

「大丈夫。例えこっぴどく怒られたとしても、アスカはそれで立ち直れなくなるほど弱い子じゃないよ。それよりも響くん、君は自分のことを心配した方がいい」

「え」

「これから向かう最内の領域、そこにおわす方はヤミ神、つまりこの星の地そのもの。

 君は今から本物の神様にお会いするということだ。油断していると倒れてしまうかもね」

「……あのー、僕さっきから心の準備が」

「大丈夫。さあ行こう」

 ヴァイスは口もとを引きつらせる響を無慈悲な様子で促してくる。

 一体何をもってして大丈夫だと判断したのか。油断していると倒れてしまうかも、などと驚かせた口で言うことではない。

 そう思いつつも、響は先ほどよりはゆっくりとした足取りで歩き始めたヴァイスを追いかけてしまう。

 せっかく案内してくれているんだから、とか。ついていかなかったらヴァイスさんが困るよなぁ、とか。そんなことを考えてしまうのは響の性分だった。



* * *



「――織部 響の〝魂魄執行〟指名勅令任務、および大罪者シエルの〝異分子排除〟指名勅令任務の失敗。

 紋翼を奪われ、生死の境をさまよい、挙げ句二度と執行者に戻れぬ身となった。

 惨憺たる有様ではあるが、こうして生還できたこと自体は大層喜ばしい。ディルは医師として良い働きをしたな」

 響とヴァイスが去ったあとの裁定領域。

 玉座に座り裁定の職務に戻りながらのエンラの言葉だ。

「……はい」

 対するアスカは目を伏せ低い声で返事をした。

「してどうだ。少しは考えたか、今後の身の振り方は。

 我としてはガーディアン入群が順当と判断するがのう。職務地帯での仕事に従事するのも悪くはないが、貴様の戦闘能力は今後も活かしたいところだ。

 まあ基本的には貴様に任せるよ。まだ完治とは行かぬのであろ? 全快までに己が道を決めておけばよい」

「いえ。もう、決めています」

 アスカの言葉にエンラはふと動きを止める。それは言葉の内容に驚いたからではない。アスカの発したその音色を、エンラが今まで耳にしたことがなかったからだ。

 アスカは伏せていた双眸をゆっくりと持ち上げ、エンラへ視線を合わせた。

「守らせてください。俺に――響を」
「……ほう」

 黒瞳に宿る意志。迷いなき音色。静謐なる炎の熱量。

 初めて目の当たりにしたそれらに、エンラは口の端を持ち上げ笑みを浮かべるのだった。
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