第8話 残酷な音は鼓膜を蝕む

文字数 2,635文字

「はぁ~つまんな。つまんなすぎてこっちが死にそ~」

 結果はそれからすぐつくこととなった。

 今、アスカは再び地に伏し、シエルがそれを冷たい碧眼で見下ろしている。

 無傷のシエルとは裏腹に、アスカの受傷は増えていた。まるで何かに絡まっているかのようにモガいてもいるが、まだ諦めてはいないようだった。

 アスカはうつぶせで倒れているため炎のような翼を使って抵抗しようとしている。しかしその動きも緩慢で、炎の射出もできずにいた。

 シエルはそれらを睥睨しながら大きなため息をつく。

「ほんとさぁ、そんなんでオレを殺すとか頭わいてんの?」
「っ……くッ」
「せめてあの〝とっておき〟な権能使えよ。無理やりにでも使わなきゃ成長できねぇぞ?」
「だま、れ」
「お! 反骨精神はまだあるな。その意気だけヨシ」

 ドゴッ!

 懸命に起き上がろうとするアスカの顔をシエルは蹴る。その血が近くまで飛び散ってきて、響は顔を引き歪ませた。胸に充満するのは重く苦しいもの。

 自分も今にあんなふうにされるのか。そういう怖さも確かにある。だが違う。この苦しさはそれだけではない。

 フラッシュバック。血まみれに伏す乃絵莉の残像――

「や、やめろ……!」

 その瞬間、響は声を張り上げていた。

「あん?」

 シエルが響を振り返る。ギラリとした碧眼と目が合ったとき、響は後悔した。心底後悔した。

 言うべきではなかった。というか何を言っている? アスカという男は自分や家族の命を狙っていた張本人なのに、何故自分はとっさに制止した?

 確かに、ほぼ無意識だった。夢で見た血みどろの乃絵莉と重なってしまった。だが同じくらい恐ろしいシエルの意識をわざわざ自らに向けるなど、どう考えても死期を早めている。死にたくない!

 ならばせめて撤回するべきだ。そうでなければ同じ目に遭ってしまう。殺されてしまう。そんなのは嫌だ。今すぐに許しを請うべきだ、上手く立ち回るべきだ!

「もう、勝負は、ついてるじゃないですか……! お、追い打ちをかけるのは――」

 だのに何故か口をついて出てきてしまうのは得にもならない感情。本当に何を言っている。あまりにも愚かだ。だが撤回はできない。

 しかし予想に反して響のそれらはすげなく無視され、シエルはアスカへ視線を注ぎ直した。

「おいアスカ、聞いたろ今の良い子ちゃん発言? オマエ相当ミジメだなぁ……殺すべき対象を殺せず、オレにこっぴどくやられて、そのうえ自分より圧倒的に弱いヤツに庇われてさ。クソザコにもホドがあるって」

「ッ……」

「オマエさ、マジで〝執行者〟名乗る資格ねぇよ」

 言いながらシエルは肩を揺らした。

 そうしてアスカの体躯をまたぎ、前傾姿勢を取り、黒い炎のように揺らめく翼の根本を――何もないように見えるが――掴む。

「だからまぁ、お揃いといこうぜ兄弟」

 そうしてシエルがそのまま上半身ごと思いきり腕を引いた途端。

「っッ、ッッッ…………!!!!」

 ブチブチブチッ。残酷な音が辺りに響いた。

 同時にアスカの黒目がカッと見開かれ、全身が硬直し、限界まで開かれた口からは声にならない叫びが上がった。

 だが無理もない――恐らく体躯の一部を根本から力の限り引きちぎられているのだから。

 それが人に有り得ざるものであったとしても、ビキビキビキブチブチブチと惨い音を立たせながら肉や筋を引きちぎられ、血がそこから吹き出る光景を目の当たりにすればその反応は必然だと分かる。

 響はただ茫然としながら凄惨な一部始終を見ていることしかできなかった。

 制止の言葉、呼吸すら喉を通らない。ビシャビシャと背を濡らしゆく赤、むわりと漂う生臭さに、頭のなかはまるで漂白されてしまったようだ。

「なんだよ、ケッサクな絶叫が聴けるかと思ったのに。つまんねぇな」

 ブツッ――やがて完全に引きちぎられる惨い音が辺りに響く。同時にアスカが糸を切られた人形のように地へ突っ伏した。

 耳が痛くなるような静寂が支配するなか背筋をまっすぐに戻したシエルは、血の点に汚れた頬を歪めて愉悦した。そうして今しがた引きちぎった翼のようなものを空中に持ち上げ、何やら弄くり始める。

 響には彼が何をしているか分からない。だが、一対の翼のようなモノはみるみるうちに圧縮され、シエルの右手の平の上でひとつの球へと変化していく。

 炎をまとい血を滴らせる黒の球体。見るからに不穏なそれを手にしながら、次にシエルが目を向けたのは――

「あ! 良いこと思いついた~」

 やけにあどけない声を上げるシエルと目が合った瞬間、響の心臓は跳ねた。

 知っている。それは絶対に良いことではない。例え彼が神様と同じ顔で笑っていたとしても彼は神様ではない。何故なら彼の足もとには血まみれの男。慈愛に満ちた面には無数の血の点。

 響のもとへ、シエルが近づいてくる。物々しい炎の黒玉から血を滴らせながら、ゆっくりと。

 まずい。逃げなければ。怖い。死ぬ。本能がそう叫んでいる。だが未だに磔の姿勢で宙に繋ぎ止められている響に逃げる術はない。

 いや、きっと身体が動いたとしてもこの男から逃れることはできないだろう。あれほどの大鎌を操っていたアスカが敗北した時点で響の死は確定的だ。

「っやめ、ろ……そいつには、て、を……」

 響の前まで到達したシエル。それに何かを察したかアスカが声を絞り出した。

 ようよう持ち上げた顔面は蒼白だ。恐らく意識をつなぎ止めているのすらやっとなのだ。それでも血の海に沈む身体を懸命に動かそうとしているように見えた。

 しかし、もはや不可能だ。せいぜい指の先で地面を掻くくらいだ。背中からほとばしる赤の量から見ても、彼の命がもう長くないことは見て取れた。

「お、負け犬がなんか吠えてんな~聞こえナイ聞こえナイ」

 それすらシエルは一笑に付した。もはや振り返ることもない。

「ひ……ッ」
「大丈夫、そんなに怯えるなって」

 磔にされた格好のまま、ただ震えるしかない響の肩をシエルは空いている方の手で気軽に叩いてくる。そうして響によく見えるように血濡れの黒玉を持ち上げた。

「シエ、ル……やめ、」

 アスカにはこれから起こることが分かるのか。ハ、ハァと細い細い吐息をしながら懇願する。

「ちゃんと見てろよ、アスカ」

 だがシエルは止まらない。

「オマエが執行できなかったせいでコイツは今から地獄を味わうんだからな」

「っ! たのむ、やめてく――」

 そして次の瞬間。シエルは血濡れの黒玉を持つ手で響の左胸を抉ってきた。

「ッ……!!!!」
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