第8話 決死のオトリ
文字数 2,800文字
落ちていく。張り上げた声すら瞬く間に落ちていく。
固い風が塊となって後頭部や背中に襲いかかる。しかし今の響が見つめるものは己の死ではない。自分と同じように急降下しながら追いかけてくる毛玉だ。
「ッ、嘘だろ……!?」
そんななか、響はすぐ誤算に気づく。アスカの攻撃を受けて明らかに速度を落としたとはいえ、毛玉はまだまだ速かったのだ。
高層ビルの屋上から落ち、重力を利用すれば時間稼ぎ程度の速度は得られると思っていたが、毛玉はそれ以上だった。あれよあれよという間に距離が詰まっていく。
アスカとも離れ、速度も己が上とあって毛玉は勝利を確信したのかも知れない。雄叫びのようにギイイッと鳴きながらガパリと口を開く。
一体どういう仕掛けだろうか、バスケットボールほどだったはずの毛玉が響を丸呑みできるほどの大穴に変化する。毛に覆われただけの外側に対し、口内は歯や舌があってグロテスクだ。
その奥などまるで深淵のように真っ暗だ。一度捉えられてしまえば確実に助からないのが分かる、呆気なく死んでしまうだろう。そしてその未来は目前だ。
「――!!」
しかし反射的に目を閉じそうになった瞬間、毛玉だったモノは真横に両断された。
眼球の数センチ前を毛玉ごと切り裂く斬撃に何か反応を示す時間はない。
斬撃による突風で身体が空中回転、かと思えば何かに掴まれる感触、それと同時に激しい衝撃、耳が痛くなるような破壊音。何がなんだか分からず響は目を白黒させるのみだ。
「……ッ、あれ?」
どうやら今の響は地面の近くにいるらしい。視線の先にはアスカの足。その足下のアスファルトは派手に割れており、それを見下ろす響はアスカのすぐ隣で宙に浮いているようだった。
しかし視認はできても頭の処理が追いつかない。つい先刻と同じようにアスカの小脇に抱えられているのだと気づくのに、かなりの時間を要してしまった。
「おまっ……あぶッ……なにをっ……」
響がアスカを見上げるのとアスカが口を開いたのは同時だった。その面は狼狽一色に染められており、信じられないものを見るような目で響を見下ろしながらパクパクと口を開閉させている。
それを目の当たりにすれば響もようやく実感が湧いてきた。
自分が今何をして、一歩間違えていればどうなっていたか。今さらながら背筋が凍り、そこを冷や汗が滝のように流れ落ちていく。
「ぼ、僕はなんてことを……生きてて良かった……」
もう終わったことだというのに全身が震え始まる。
高層ビルからの飛び降りはもとより、アスカの一撃が間に合わなければ毛玉に食われていた、あるいは地面に激突していた事実。
生を脅かされることは何故にこうも心をすり減らすのだろう。もっとも、今回は完全に響自身が率先して脅かしたのだが――それでも恐ろしいものは恐ろしい。
アスカは響の反応で気を取り直したらしい。小脇に抱えていた響をゆっくりと地面に下ろし、そのまま四つん這いの姿勢で震え続ける響のすぐ傍らにしゃがみこんでくる。
「……とっさの行動だったというわけか」
「う、うん……自分が離れないとアスカ君は全力を出せないんだって思って、どうせ離れるなら、オトリになってやろうと思って、毛玉にすぐ追いつかれないためには、ここから落ちるしかないって……」
「……そうか」
「勝手なことしてごめんね。助けてくれてありがとう……」
隣でアスカが見守ってくれているせいもあるのだろう、響は少しずつ落ち着きを取り戻していく。同時に今度は申し訳なさが募っていく。
響を守ることを第一に考えていたアスカだ、響の突飛な行いにはさぞ肝を冷やしたに決まっている。
しかしアスカは首を横に振る。
「お前の行動を予測できなかった俺が悪い。俺の不手際でお前に余計な気苦労も負わせた」
「そ、そんなことはないけど……」
「そのうえお前には二度も助けられた。謝罪も感謝も俺がすることだ」
「……? 二度?」
アスカの言葉に響はようよう顔を上げる。響にはそもそもアスカを助けた意識はないのだが、彼が何を指しているか思い当たるフシはあった。しかしそれは自身がオトリになったことだけだ。
アスカは響の困惑の視線を受けると、無言で背後を見るように視線を誘導してくる。促されるまま首だけを動かして背後を見る。
すると――
「……翼?」
自分の背後に翼があったのだ。
翼といっても鳥あるいは虫のように背中から生えているわけではない。背から噴出する突風が一対の翼のように左右に広がっているものだ。
しかもそれは響とアスカが見ている前で役目を終えたとばかりに勢いを弱めていき、最後には空気に融けるかのごとく消失した。
「な、なに今の? 何で僕のうしろに?」
答えを求めてアスカに視線を戻す。アスカは数秒つぐんでいた口を開いた。
「紋翼だ。お前のな」
「……僕の、紋翼」
「ああ。それならばキララやルリハなしで俺たちが階層移動したことにも、降り立った階層がやけに深かったことにも説明がつく。その様子だと想定外だったみたいだが」
「た、確かに毛玉から逃げてるとき『アスカ君の紋翼を埋め込まれて〝半陰〟になったんだし僕にも階層移動できるかな』と思って試した瞬間はあったけど……。
そもそも階層が何かも分かってなかったし、それからすぐ戦いになって頭から抜けてたし……でも本当に紋翼を持ってたんだ、ちゃんと階層移動できてたんだ。びっくりだよ」
「……紋翼のことはヴァイス先輩に口止めされていたからな。そうなるのも無理はない」
「そ、そうなんだ?」
口止めされていた理由が気になりはしたものの、もしかしたらアスカの心情を慮っての判断だったのかも知れない。
そしてもしそうであるならば、この話を続けるのも得策ではないだろう。響はそう判断した。
「でも、そっか。二回はアスカ君の役に立てたんだな……良かった~」
ほっと吐息をつく。アスカの足手まといばかりだったが、こんな自分でも二度は助けになることができたのだ。
その事実に気が軽くなればすっかり元気を取り戻し、立ち上がることもできた。その隣で同じように並んだアスカは胡乱げだ。
「そんなことを気にしていたのか」
「そりゃあ気にするよ。足引っ張りまくってたからね」
「足を引っ張るも何もない。戦闘に巻き込んだのは俺の落ち度だ」
「いや、毛玉は僕を追いかけてる感じだったし、死なずに済んだのはやっぱりアスカ君のおかげだよ」
「別に感謝されることじゃない。お前を守るのが俺の最優先任務だ」
「うん、ありがとう」
言えばアスカは調子が狂うとでもいうように眉を寄せて頭を掻く。
「……とにかく。毛玉は討伐できた。あとは生物界の階層に帰るだけだ」
「やったー! 早く帰ろう。人気が全然なくて怖かったんだよね、ここ」
気を取り直し話を進めるアスカへ賛成の意を表して大きく頷く響。
しかし反面、アスカは響の返事を受けて苦い表情を浮かべる。
固い風が塊となって後頭部や背中に襲いかかる。しかし今の響が見つめるものは己の死ではない。自分と同じように急降下しながら追いかけてくる毛玉だ。
「ッ、嘘だろ……!?」
そんななか、響はすぐ誤算に気づく。アスカの攻撃を受けて明らかに速度を落としたとはいえ、毛玉はまだまだ速かったのだ。
高層ビルの屋上から落ち、重力を利用すれば時間稼ぎ程度の速度は得られると思っていたが、毛玉はそれ以上だった。あれよあれよという間に距離が詰まっていく。
アスカとも離れ、速度も己が上とあって毛玉は勝利を確信したのかも知れない。雄叫びのようにギイイッと鳴きながらガパリと口を開く。
一体どういう仕掛けだろうか、バスケットボールほどだったはずの毛玉が響を丸呑みできるほどの大穴に変化する。毛に覆われただけの外側に対し、口内は歯や舌があってグロテスクだ。
その奥などまるで深淵のように真っ暗だ。一度捉えられてしまえば確実に助からないのが分かる、呆気なく死んでしまうだろう。そしてその未来は目前だ。
「――!!」
しかし反射的に目を閉じそうになった瞬間、毛玉だったモノは真横に両断された。
眼球の数センチ前を毛玉ごと切り裂く斬撃に何か反応を示す時間はない。
斬撃による突風で身体が空中回転、かと思えば何かに掴まれる感触、それと同時に激しい衝撃、耳が痛くなるような破壊音。何がなんだか分からず響は目を白黒させるのみだ。
「……ッ、あれ?」
どうやら今の響は地面の近くにいるらしい。視線の先にはアスカの足。その足下のアスファルトは派手に割れており、それを見下ろす響はアスカのすぐ隣で宙に浮いているようだった。
しかし視認はできても頭の処理が追いつかない。つい先刻と同じようにアスカの小脇に抱えられているのだと気づくのに、かなりの時間を要してしまった。
「おまっ……あぶッ……なにをっ……」
響がアスカを見上げるのとアスカが口を開いたのは同時だった。その面は狼狽一色に染められており、信じられないものを見るような目で響を見下ろしながらパクパクと口を開閉させている。
それを目の当たりにすれば響もようやく実感が湧いてきた。
自分が今何をして、一歩間違えていればどうなっていたか。今さらながら背筋が凍り、そこを冷や汗が滝のように流れ落ちていく。
「ぼ、僕はなんてことを……生きてて良かった……」
もう終わったことだというのに全身が震え始まる。
高層ビルからの飛び降りはもとより、アスカの一撃が間に合わなければ毛玉に食われていた、あるいは地面に激突していた事実。
生を脅かされることは何故にこうも心をすり減らすのだろう。もっとも、今回は完全に響自身が率先して脅かしたのだが――それでも恐ろしいものは恐ろしい。
アスカは響の反応で気を取り直したらしい。小脇に抱えていた響をゆっくりと地面に下ろし、そのまま四つん這いの姿勢で震え続ける響のすぐ傍らにしゃがみこんでくる。
「……とっさの行動だったというわけか」
「う、うん……自分が離れないとアスカ君は全力を出せないんだって思って、どうせ離れるなら、オトリになってやろうと思って、毛玉にすぐ追いつかれないためには、ここから落ちるしかないって……」
「……そうか」
「勝手なことしてごめんね。助けてくれてありがとう……」
隣でアスカが見守ってくれているせいもあるのだろう、響は少しずつ落ち着きを取り戻していく。同時に今度は申し訳なさが募っていく。
響を守ることを第一に考えていたアスカだ、響の突飛な行いにはさぞ肝を冷やしたに決まっている。
しかしアスカは首を横に振る。
「お前の行動を予測できなかった俺が悪い。俺の不手際でお前に余計な気苦労も負わせた」
「そ、そんなことはないけど……」
「そのうえお前には二度も助けられた。謝罪も感謝も俺がすることだ」
「……? 二度?」
アスカの言葉に響はようよう顔を上げる。響にはそもそもアスカを助けた意識はないのだが、彼が何を指しているか思い当たるフシはあった。しかしそれは自身がオトリになったことだけだ。
アスカは響の困惑の視線を受けると、無言で背後を見るように視線を誘導してくる。促されるまま首だけを動かして背後を見る。
すると――
「……翼?」
自分の背後に翼があったのだ。
翼といっても鳥あるいは虫のように背中から生えているわけではない。背から噴出する突風が一対の翼のように左右に広がっているものだ。
しかもそれは響とアスカが見ている前で役目を終えたとばかりに勢いを弱めていき、最後には空気に融けるかのごとく消失した。
「な、なに今の? 何で僕のうしろに?」
答えを求めてアスカに視線を戻す。アスカは数秒つぐんでいた口を開いた。
「紋翼だ。お前のな」
「……僕の、紋翼」
「ああ。それならばキララやルリハなしで俺たちが階層移動したことにも、降り立った階層がやけに深かったことにも説明がつく。その様子だと想定外だったみたいだが」
「た、確かに毛玉から逃げてるとき『アスカ君の紋翼を埋め込まれて〝半陰〟になったんだし僕にも階層移動できるかな』と思って試した瞬間はあったけど……。
そもそも階層が何かも分かってなかったし、それからすぐ戦いになって頭から抜けてたし……でも本当に紋翼を持ってたんだ、ちゃんと階層移動できてたんだ。びっくりだよ」
「……紋翼のことはヴァイス先輩に口止めされていたからな。そうなるのも無理はない」
「そ、そうなんだ?」
口止めされていた理由が気になりはしたものの、もしかしたらアスカの心情を慮っての判断だったのかも知れない。
そしてもしそうであるならば、この話を続けるのも得策ではないだろう。響はそう判断した。
「でも、そっか。二回はアスカ君の役に立てたんだな……良かった~」
ほっと吐息をつく。アスカの足手まといばかりだったが、こんな自分でも二度は助けになることができたのだ。
その事実に気が軽くなればすっかり元気を取り戻し、立ち上がることもできた。その隣で同じように並んだアスカは胡乱げだ。
「そんなことを気にしていたのか」
「そりゃあ気にするよ。足引っ張りまくってたからね」
「足を引っ張るも何もない。戦闘に巻き込んだのは俺の落ち度だ」
「いや、毛玉は僕を追いかけてる感じだったし、死なずに済んだのはやっぱりアスカ君のおかげだよ」
「別に感謝されることじゃない。お前を守るのが俺の最優先任務だ」
「うん、ありがとう」
言えばアスカは調子が狂うとでもいうように眉を寄せて頭を掻く。
「……とにかく。毛玉は討伐できた。あとは生物界の階層に帰るだけだ」
「やったー! 早く帰ろう。人気が全然なくて怖かったんだよね、ここ」
気を取り直し話を進めるアスカへ賛成の意を表して大きく頷く響。
しかし反面、アスカは響の返事を受けて苦い表情を浮かべる。