第28話 揺らぎ
文字数 3,331文字
守りたいと思った。
『ぜったいに助けるよ。かならず守るよ』
だから自分よりも小さな手をぎゅっと握って大きく頷いた。
『約束するね。乃絵莉のこと、ずっとずっと守るから。何があっても絶対に』
もはや夢か現実か定かではない記憶。だが、今でも自分には大事な思い出。何故ならこの記憶が己の芯を形作っているから。
妹を、乃絵莉を守りたい。例えそれがもう叶わないことでも、乃絵莉や祖父母が自分のことを何ひとつ覚えていなくとも。
繋がってもいたかった。細い細い糸でも失いたくなかった。
執行者に志願したのだってその一端だった。ヤミ属として生物の死を守る仕事の手伝いができたなら、ほんの少しだけでも繋がっていられると思った。
『ひいぃ、痛い、痛いィ、誰か、だれ、か……』
――死を守る?
『た、のむ、助け、くれぇ、何でも、する……せめてあと少し、生きたい、生きたい……』
本当に?
『安心してください、これはただの夢ですから。今夜は少し夢見が悪かったんです』
苦しみを少しでも取り除くために真逆の嘘をついた。明日を夢見させて死ぬのを見届けた。
任務のために。生物の死を守るという大義名分をかぶりながら、一人の命を奪った。
『おにいちゃん――どうして?』
「乃絵莉?」
『おにいちゃんの手、どうして血まみれなの……?』
「!!」
繋いでいた手を離された瞬間、ハッと目を見開く。そこでようやく夢を見ていたのだと気づいた。
真っ暗闇のなかで限界まで目を見開き静止している。どうやら息まで止めていたらしく、苦しくなってくれば咳き込むようにして呼吸を繰り返した。
ただの人間でなくなってしまった響にとってこの呼吸運動はただの習慣でしかない。
だが、ヤミ属と生物の中間存在〝半陰〟となった今でも響は呼吸を続けている。答えは簡単だ。響は今も人間でありたかったからだ。
ヤミ属界の、最近では自宅と呼ぶことにも違和感を覚えなくなってきた家屋の自室。
明かりはなくカーテンも締め切ったなか、浅い眠りから覚醒した響は茫然と虚空を見つめている。
ここ数日、満足に眠れていない。どんなに目をつぶっても眠気は一向にやってきてくれず、ようやく入眠できたとしても悪夢に阻まれてすぐに目を覚ましてしまう。そしてそれ以降は輪をかけて眠れなくなる。
この数日間は部屋の外にすら出ていない。
何もする気が起きずブランケットに包まっているのみで、頭も身体も使っていない。眠れないのはもちろんそのせいもあるだろう。しかしもっと大きな理由があった。
フラッシュバックしてくるのだ。あのときのことが。
「……」
響はため息に似た吐息をひとつつくと、ゆっくりと起き上がった。
常夜のヤミ属界にも時間の概念はある。カーテンの隙間から垣間見た居住地帯の景色には道行くヤミが数名。
あくびをしている者や果実水を売る者を見て、現在時刻が朝であることを察する。
しかしカーテンをさっぱりと開けて部屋の掛け時計を確認する気にまではなれなかった。
窓際を離れると再びベッドへ倒れ込み、ドロリとした額の汗もそのままに虚ろな視線を暗闇へと漂わせる。
充分な睡眠を摂れないせいで脳内は緩慢だ。だが、そんな頭にも先日の記憶は当たり前のように流れ続けるのだ。
ヤミ神より受けた指名勅令。ヤミ属執行者として生物界へ下り、初任務〝魂魄執行〟を行った日の記憶が。
「……」
執行対象はアメリカ人男性、ジョン・スミス。ニューヨークのとある病院に入院していた老人。
病に侵されていたのだろう、その身はやせ細っていたというのに緑色の双眸だけが生命力をギラギラと放っていたのが印象的だった。
転生前に契約した寿命は七十三歳。それを半年も過ぎてなお、彼は生きることを強く願っていた。
執行行為を担当するアスカが心臓を撃っても『生きたい』と繰り返した。あと一ヶ月で妻との五十回目の結婚記念日だからと。明日は娘と孫たちが見舞いに来るからと。
響はそんな彼に近づき、これが夢であると嘘をついた。老人の冷たく震える手を握り、愛する家族の話を聞き、最後にはその死を看取った。
その後のことはよく覚えていない。
アスカの指示を受けて再び紋翼を展開し階層を戻したこと、アスカがジョン・スミスの魂魄を回収したこと。
それと彼の亡骸を看護師が発見したのを窓の外から確認したことまではようよう思い出せるのだが、ヤミ属界へ帰還した後のことは記憶になかった。
本来であればヤミ属界へ帰還後は回収したジョン・スミスの魂魄を速やかに裁定領域にいるエンラへ届け、そこでようやく任務完遂となるはずだ。
しかし響には裁定領域へ赴いた実感がない。気がついたときには自室のベッドの上でブランケットに包まっていたので、恐らくアスカがひとりでエンラのもとへ参じたのだろう。
任務を終えてからのアスカは、部屋に引きこもり続ける響へドア越しに一日数回声をかけてくれた。
体調はどうか、何か欲しいものはないか。響はそれに小さく短い返事しかできなかった。
情けない――そうは思っても響はどうにも立ち直れなかった。
一人の人間が死んだ。いや、殺した。生きようともがく彼に嘘をつき、明日を信じさせた。騙して見殺しにした。
脳裏には今も焼きつく鮮烈な赤。少しずつか細くなっていくしわがれ声――これらの事実はひとりの人間の精神性しか持ち得ない響にはあまりに重すぎたのだ。
例えヤミ神から直々に勅令任務を与えられても、三日間の特訓を及第点で乗り越えられても。
響はヤミ属執行者ではなかった。ただの人間でしかなかった。
「……響」
また考えに没頭している響の鼓膜を、不意に聞き慣れた声が揺らした。アスカが今日もドア越しに声をかけに来てくれたのだ。
だから響は少しだけ身をこわばらせる。
「お前が部屋のなかで少し移動したのを感知した。起きたんだろう」
返事をできないでいると、アスカは続けてそんなことを言ってくる。
彼は響の現在位置を常に把握できる。それは響がアスカの紋翼をその内に持っているためだ。
アスカの身体から離れ、響に適したカタチを取るようになった今も紋翼は元の持ち主のことを忘れておらず、アスカは紋翼の位置を辿ることで響がどこに居るかを知ることができるのだ。
「……うん、起きたよ。おはよう」
ドアを開けることもせず響が短く返答すると、アスカも遅れて「おはよう」と返してくる。
そしてそれから数秒の沈黙。
ここ数日の流れならばアスカは響の体調や欲しいものを問うて、響が言葉少なに返答した以降はそっとしておいてくれたのだが、今回は違ったようだ。
「響。お前と話がしたいんだが、顔出せるか」
「……、」
「無理ならいい。だが、可能なら話したい。お前のことや、今後のことを」
「…………分かった」
響は苦心して重い唇を動かす。そうしてベッドから立ち上がり、ドアノブをひねった。
ガチャリと何の変哲もない音を立てながら久々に開くドア。その先には数日ぶりに見る整った仏頂面――黒瞳に灯る憂慮。
目が合う。しかしアスカの瞳に映る己がひどい顔をしていることに気づくと目を逸らす。本当に情けない。
アスカは基本的に口数が少なく、会話も上手くはない。今も久々に顔を合わせた響に何と声をかけるべきか迷っているのだろう、唇を数回まごつかせるのが視界のすみに映った。
「……話もしたいんだが、その前に、まずは食事をしないか」
「え……?」
アスカの提案に響は眉根を寄せる。
「ケガしたとき、元気が出ないときは積極的に食事や睡眠を摂るのがいいとアビーさんが言っていた。生物ならなおさら、そうなんだろう」
「あ……うん。そうかも……」
思わず頷いてしまう響。正直なところ外で食事を摂る元気はまだなかったのだが、その内容に納得がいってしまったのだ。
『そういえばじいちゃんも同じようなこと言ってたな』と記憶と記憶が結びつけば思わずの返事も肯定できた。
アスカは響が提案に乗ったことに少し眉を持ち上げつつも、わずかに安堵の表情を浮かべる。
どうやら相当に心配をかけていたらしく、申し訳ない気持ちが募る。
だから響は自ら玄関のドアへ近づいてノブに手をかけると、アスカを促すように再び視線を合わせた。
『ぜったいに助けるよ。かならず守るよ』
だから自分よりも小さな手をぎゅっと握って大きく頷いた。
『約束するね。乃絵莉のこと、ずっとずっと守るから。何があっても絶対に』
もはや夢か現実か定かではない記憶。だが、今でも自分には大事な思い出。何故ならこの記憶が己の芯を形作っているから。
妹を、乃絵莉を守りたい。例えそれがもう叶わないことでも、乃絵莉や祖父母が自分のことを何ひとつ覚えていなくとも。
繋がってもいたかった。細い細い糸でも失いたくなかった。
執行者に志願したのだってその一端だった。ヤミ属として生物の死を守る仕事の手伝いができたなら、ほんの少しだけでも繋がっていられると思った。
『ひいぃ、痛い、痛いィ、誰か、だれ、か……』
――死を守る?
『た、のむ、助け、くれぇ、何でも、する……せめてあと少し、生きたい、生きたい……』
本当に?
『安心してください、これはただの夢ですから。今夜は少し夢見が悪かったんです』
苦しみを少しでも取り除くために真逆の嘘をついた。明日を夢見させて死ぬのを見届けた。
任務のために。生物の死を守るという大義名分をかぶりながら、一人の命を奪った。
『おにいちゃん――どうして?』
「乃絵莉?」
『おにいちゃんの手、どうして血まみれなの……?』
「!!」
繋いでいた手を離された瞬間、ハッと目を見開く。そこでようやく夢を見ていたのだと気づいた。
真っ暗闇のなかで限界まで目を見開き静止している。どうやら息まで止めていたらしく、苦しくなってくれば咳き込むようにして呼吸を繰り返した。
ただの人間でなくなってしまった響にとってこの呼吸運動はただの習慣でしかない。
だが、ヤミ属と生物の中間存在〝半陰〟となった今でも響は呼吸を続けている。答えは簡単だ。響は今も人間でありたかったからだ。
ヤミ属界の、最近では自宅と呼ぶことにも違和感を覚えなくなってきた家屋の自室。
明かりはなくカーテンも締め切ったなか、浅い眠りから覚醒した響は茫然と虚空を見つめている。
ここ数日、満足に眠れていない。どんなに目をつぶっても眠気は一向にやってきてくれず、ようやく入眠できたとしても悪夢に阻まれてすぐに目を覚ましてしまう。そしてそれ以降は輪をかけて眠れなくなる。
この数日間は部屋の外にすら出ていない。
何もする気が起きずブランケットに包まっているのみで、頭も身体も使っていない。眠れないのはもちろんそのせいもあるだろう。しかしもっと大きな理由があった。
フラッシュバックしてくるのだ。あのときのことが。
「……」
響はため息に似た吐息をひとつつくと、ゆっくりと起き上がった。
常夜のヤミ属界にも時間の概念はある。カーテンの隙間から垣間見た居住地帯の景色には道行くヤミが数名。
あくびをしている者や果実水を売る者を見て、現在時刻が朝であることを察する。
しかしカーテンをさっぱりと開けて部屋の掛け時計を確認する気にまではなれなかった。
窓際を離れると再びベッドへ倒れ込み、ドロリとした額の汗もそのままに虚ろな視線を暗闇へと漂わせる。
充分な睡眠を摂れないせいで脳内は緩慢だ。だが、そんな頭にも先日の記憶は当たり前のように流れ続けるのだ。
ヤミ神より受けた指名勅令。ヤミ属執行者として生物界へ下り、初任務〝魂魄執行〟を行った日の記憶が。
「……」
執行対象はアメリカ人男性、ジョン・スミス。ニューヨークのとある病院に入院していた老人。
病に侵されていたのだろう、その身はやせ細っていたというのに緑色の双眸だけが生命力をギラギラと放っていたのが印象的だった。
転生前に契約した寿命は七十三歳。それを半年も過ぎてなお、彼は生きることを強く願っていた。
執行行為を担当するアスカが心臓を撃っても『生きたい』と繰り返した。あと一ヶ月で妻との五十回目の結婚記念日だからと。明日は娘と孫たちが見舞いに来るからと。
響はそんな彼に近づき、これが夢であると嘘をついた。老人の冷たく震える手を握り、愛する家族の話を聞き、最後にはその死を看取った。
その後のことはよく覚えていない。
アスカの指示を受けて再び紋翼を展開し階層を戻したこと、アスカがジョン・スミスの魂魄を回収したこと。
それと彼の亡骸を看護師が発見したのを窓の外から確認したことまではようよう思い出せるのだが、ヤミ属界へ帰還した後のことは記憶になかった。
本来であればヤミ属界へ帰還後は回収したジョン・スミスの魂魄を速やかに裁定領域にいるエンラへ届け、そこでようやく任務完遂となるはずだ。
しかし響には裁定領域へ赴いた実感がない。気がついたときには自室のベッドの上でブランケットに包まっていたので、恐らくアスカがひとりでエンラのもとへ参じたのだろう。
任務を終えてからのアスカは、部屋に引きこもり続ける響へドア越しに一日数回声をかけてくれた。
体調はどうか、何か欲しいものはないか。響はそれに小さく短い返事しかできなかった。
情けない――そうは思っても響はどうにも立ち直れなかった。
一人の人間が死んだ。いや、殺した。生きようともがく彼に嘘をつき、明日を信じさせた。騙して見殺しにした。
脳裏には今も焼きつく鮮烈な赤。少しずつか細くなっていくしわがれ声――これらの事実はひとりの人間の精神性しか持ち得ない響にはあまりに重すぎたのだ。
例えヤミ神から直々に勅令任務を与えられても、三日間の特訓を及第点で乗り越えられても。
響はヤミ属執行者ではなかった。ただの人間でしかなかった。
「……響」
また考えに没頭している響の鼓膜を、不意に聞き慣れた声が揺らした。アスカが今日もドア越しに声をかけに来てくれたのだ。
だから響は少しだけ身をこわばらせる。
「お前が部屋のなかで少し移動したのを感知した。起きたんだろう」
返事をできないでいると、アスカは続けてそんなことを言ってくる。
彼は響の現在位置を常に把握できる。それは響がアスカの紋翼をその内に持っているためだ。
アスカの身体から離れ、響に適したカタチを取るようになった今も紋翼は元の持ち主のことを忘れておらず、アスカは紋翼の位置を辿ることで響がどこに居るかを知ることができるのだ。
「……うん、起きたよ。おはよう」
ドアを開けることもせず響が短く返答すると、アスカも遅れて「おはよう」と返してくる。
そしてそれから数秒の沈黙。
ここ数日の流れならばアスカは響の体調や欲しいものを問うて、響が言葉少なに返答した以降はそっとしておいてくれたのだが、今回は違ったようだ。
「響。お前と話がしたいんだが、顔出せるか」
「……、」
「無理ならいい。だが、可能なら話したい。お前のことや、今後のことを」
「…………分かった」
響は苦心して重い唇を動かす。そうしてベッドから立ち上がり、ドアノブをひねった。
ガチャリと何の変哲もない音を立てながら久々に開くドア。その先には数日ぶりに見る整った仏頂面――黒瞳に灯る憂慮。
目が合う。しかしアスカの瞳に映る己がひどい顔をしていることに気づくと目を逸らす。本当に情けない。
アスカは基本的に口数が少なく、会話も上手くはない。今も久々に顔を合わせた響に何と声をかけるべきか迷っているのだろう、唇を数回まごつかせるのが視界のすみに映った。
「……話もしたいんだが、その前に、まずは食事をしないか」
「え……?」
アスカの提案に響は眉根を寄せる。
「ケガしたとき、元気が出ないときは積極的に食事や睡眠を摂るのがいいとアビーさんが言っていた。生物ならなおさら、そうなんだろう」
「あ……うん。そうかも……」
思わず頷いてしまう響。正直なところ外で食事を摂る元気はまだなかったのだが、その内容に納得がいってしまったのだ。
『そういえばじいちゃんも同じようなこと言ってたな』と記憶と記憶が結びつけば思わずの返事も肯定できた。
アスカは響が提案に乗ったことに少し眉を持ち上げつつも、わずかに安堵の表情を浮かべる。
どうやら相当に心配をかけていたらしく、申し訳ない気持ちが募る。
だから響は自ら玄関のドアへ近づいてノブに手をかけると、アスカを促すように再び視線を合わせた。