第1話 ひとりぼっち
文字数 2,821文字
『はぁ、はぁ……誰か、誰か助けてください! 変な男に追われてるんですっ、私を殺そうとしてくるんです……誰か、誰か……!』
『乃絵莉!? 間に合って良かった……怖かったね。でも安心して、もう大丈夫。僕が守るから。乃絵莉のことは絶対に――』
『……』
『乃絵莉?』
『あの……どなた、ですか……?』
「――」
どんなに目を閉じどんなに目を開いても悪夢は一向に覚めない。残酷なまでに目の前に在り続ける。
悪夢――それは自分が人間だった事実は生物界からキレイさっぱり消え失せ、家族だった人たちは他人となり、今や完全にひとりぼっちになったという現実だ。
響は今、真っ暗闇の部屋にいた。数日前、妹である乃絵莉や祖父母の困惑や恐怖、敵意の視線で意識を失ったあと。響が目を覚ました場所はこの見知らぬ部屋のなかだった。
しかし当時はそんなことすらどうでも良く、響は寝かせられていたベッドの上でブランケットにくるまり続けて何日も過ごした。
食事も摂らない、トイレにも行かない。
毎日食事を運んできたらしいディルの声にも無反応――このあたりで遅ればせながら自分がヤミ属界という異世界にいることを知った――文字通り一歩も動かない。
ただ真っ暗闇のなかで現実を否定する日々を送り続けていたのだ。
「こんにちは、響くん」
ふと、そんなふうに漫然と過ごす響の鼓膜が揺らされた。
ドアの開閉音、床を踏みしめる音、しかしディルとは違う声。そして響のいる真っ暗闇をノックする音。
「ヴァイスだ、覚えているかな。食事を持ってきたよ。今日のディルはどうしても手が空かないみたいでね」
「……」
ドア越しの語りかけにも響は反応しない。
これまで食事を持ってきてくれたディルに対しても同じように無反応を貫いていたが、彼は『飯ここに置いておくからな。少しでいいから起きて食べなよ』と連日深追いせずに去っていった。しかしヴァイスは違うようだ。
「失礼。調子はどうかな?」
強引に部屋へ足を踏み入り、遠慮なく枕元まで近づいてきてはそんな問いを投げてくる。
「……よく、ないです」
響はブランケットから顔を出すこともなくそれだけ言った。久々の発声は自分でも分かるほどにかすれていた。
「そうか。とりあえず起きよう」
ヴァイスの声と足音が少しばかり遠のくと、次に鼓膜へ響いたのは甲高い音と開閉音。
一体なんだとブランケットの隙間から音の出どころへ視線を向ければ、どうやらヴァイスがカーテンと窓を開けたらしいことが分かった。
言い換えるならそう認識できるくらいの光が入ってきた。日光ではなく月光ではあったが。
「うん、良い風だ」
「……」
「ほら響くん。起きておいで。一緒にご飯を食べようじゃないか」
「……要らないです。帰ってください」
「いいや帰らない」
「……」
「君が一緒にご飯を食べてくれたなら帰ろうと思うが、どうする?」
「…………」
その言葉で、響は重い身体を数日ぶりに持ち上げることとなった。
「リビングルームで食べよう。こっちへおいで、転ばないようにね」
ヴァイスに促されてドアを越える。そのままリビングルームへと足を運ぶ。
ずっと真っ暗な部屋のなかにいたので初めて目にする景色だ。部屋の中央には大きな丸テーブルと三脚のイスが鎮座しており、そのテーブルの上にはスープとパンがふたつずつ、響を手招きするように温かな湯気を立てていた。
棒立ちをしていると、ヴァイスにイスを引かれてしまった。少しの間のあとに頭を下げながら座ればヴァイスも隣に座ってくる。
ふわ、とスープの芳しい香りとパンの香ばしい香りに鼻腔をなで上げられれば、響はそれらを見下ろした。
「料理自慢のアビーというヤミが営んでいる食堂がこの近くにあってね。これはぜひ君に食べてほしいとアビーが腕によりをかけて作ったものだ」
「……」
「スープからゆっくり飲むといい。熱いから気をつけて」
まるで病み上がりの弟にでも言うかのような口調に、響は少しばかり肩の力を抜いた。
ヴァイスはペストマスクとロングコートという出で立ちなので、まず見た目が恐ろしい。何より出会いの印象が最悪だったので――殺されるところだったのだから最悪も最悪だ――恐怖しか感じていなかったが、意外と性情は悪くないことに気づいた。
ヴァイスとその肩に乗っているゼンマイ仕掛けの鳥に見守られながら手に取ったスプーンをスープへ潜り込ませる。
すくい上げた液体を口もとへ持っていき、ふうふうと何度か息を吹きかけたあとで口に含むと味覚は素直に喜んだ。
コンソメスープのような馴染みのある味わいだ。色々な角切りの野菜がたっぷり入っている。数日間まったく食事をしなかったせいもあるだろう、ことさらに美味く感じた。
しかし響が唇を噛みしめたのはそんな理由からではない。二口、三口と胃の腑に収めていくうちに響の頭へ取りとめのない思い出が飛来してきたからだ。
それは祖母が作ってくれたスープの思い出だ。
恐らくコンソメキューブと野菜を放り込んだだけのそれを、野菜嫌いを公言していた妹の乃絵莉は口を尖らせながら食べた。
特に嫌いな野菜は密かに押しつけてきて、祖母の手料理が大好きだった響はそれを受け入れ完食した。
祖父はそんな二人を苦笑しながらも微笑ましく眺めていた。幼いころの――今となってはとても幸せな記憶。
「……おいしい、です。なんだか妙に、懐かしい味で」
だから響は言う。涙をぼろぼろとこぼし始めながら。記憶のなかでだけは今も生き続ける〝家族〟を噛みしめながら。
その隣で、ヴァイスはマスクを外すことも食器に手を伸ばすこともなく響を見守っていた。
「いつか元気になったらアビーの食堂に行こうか。君が会いに行ったらきっと喜ぶよ」
「これから行ってもいいですか」
「……、」
「お礼を言いたいです……ほんとにすごく、すごく美味しいから」
よれよれの声で続ければ、ヴァイスは柔らかな声で「そうか」とだけ言った。
* * *
ゆっくり食事を終え、軽く身だしなみを整えて出入り口のドア前に立った。ノブに手をかけ力をこめる。
外に出るのには多少の勇気が要った。しかしひとたび屋外へ出れば、待っていたのはたくさんの心配そうな、あるいは優しげな視線だった。響はそれらに見送られながらヴァイスの後をついていく。
アビー食堂の店主・アビーのもとへたどり着いて「美味しかったです」と礼を述べると、ふくよかな母親然とした容姿の彼女は心底喜び、温かな手で響を抱きしめた。
「お腹が空いたらおいで。お腹が空いていなくてもおいで」――優しい声と温度に響は照れくさくなりながらも久々に笑うことができた。
「無事お礼ができて良かったね」
「はい。突然ですみませんでしたが、ありがとうございます」
食堂を出て街路を歩きながら言う。すると傍らのヴァイスは首を横に振る。
「君が少しでも元気になったならいいんだ。もし良ければこのまま散歩でもどうかな」
「……ちょっとだけなら」
『乃絵莉!? 間に合って良かった……怖かったね。でも安心して、もう大丈夫。僕が守るから。乃絵莉のことは絶対に――』
『……』
『乃絵莉?』
『あの……どなた、ですか……?』
「――」
どんなに目を閉じどんなに目を開いても悪夢は一向に覚めない。残酷なまでに目の前に在り続ける。
悪夢――それは自分が人間だった事実は生物界からキレイさっぱり消え失せ、家族だった人たちは他人となり、今や完全にひとりぼっちになったという現実だ。
響は今、真っ暗闇の部屋にいた。数日前、妹である乃絵莉や祖父母の困惑や恐怖、敵意の視線で意識を失ったあと。響が目を覚ました場所はこの見知らぬ部屋のなかだった。
しかし当時はそんなことすらどうでも良く、響は寝かせられていたベッドの上でブランケットにくるまり続けて何日も過ごした。
食事も摂らない、トイレにも行かない。
毎日食事を運んできたらしいディルの声にも無反応――このあたりで遅ればせながら自分がヤミ属界という異世界にいることを知った――文字通り一歩も動かない。
ただ真っ暗闇のなかで現実を否定する日々を送り続けていたのだ。
「こんにちは、響くん」
ふと、そんなふうに漫然と過ごす響の鼓膜が揺らされた。
ドアの開閉音、床を踏みしめる音、しかしディルとは違う声。そして響のいる真っ暗闇をノックする音。
「ヴァイスだ、覚えているかな。食事を持ってきたよ。今日のディルはどうしても手が空かないみたいでね」
「……」
ドア越しの語りかけにも響は反応しない。
これまで食事を持ってきてくれたディルに対しても同じように無反応を貫いていたが、彼は『飯ここに置いておくからな。少しでいいから起きて食べなよ』と連日深追いせずに去っていった。しかしヴァイスは違うようだ。
「失礼。調子はどうかな?」
強引に部屋へ足を踏み入り、遠慮なく枕元まで近づいてきてはそんな問いを投げてくる。
「……よく、ないです」
響はブランケットから顔を出すこともなくそれだけ言った。久々の発声は自分でも分かるほどにかすれていた。
「そうか。とりあえず起きよう」
ヴァイスの声と足音が少しばかり遠のくと、次に鼓膜へ響いたのは甲高い音と開閉音。
一体なんだとブランケットの隙間から音の出どころへ視線を向ければ、どうやらヴァイスがカーテンと窓を開けたらしいことが分かった。
言い換えるならそう認識できるくらいの光が入ってきた。日光ではなく月光ではあったが。
「うん、良い風だ」
「……」
「ほら響くん。起きておいで。一緒にご飯を食べようじゃないか」
「……要らないです。帰ってください」
「いいや帰らない」
「……」
「君が一緒にご飯を食べてくれたなら帰ろうと思うが、どうする?」
「…………」
その言葉で、響は重い身体を数日ぶりに持ち上げることとなった。
「リビングルームで食べよう。こっちへおいで、転ばないようにね」
ヴァイスに促されてドアを越える。そのままリビングルームへと足を運ぶ。
ずっと真っ暗な部屋のなかにいたので初めて目にする景色だ。部屋の中央には大きな丸テーブルと三脚のイスが鎮座しており、そのテーブルの上にはスープとパンがふたつずつ、響を手招きするように温かな湯気を立てていた。
棒立ちをしていると、ヴァイスにイスを引かれてしまった。少しの間のあとに頭を下げながら座ればヴァイスも隣に座ってくる。
ふわ、とスープの芳しい香りとパンの香ばしい香りに鼻腔をなで上げられれば、響はそれらを見下ろした。
「料理自慢のアビーというヤミが営んでいる食堂がこの近くにあってね。これはぜひ君に食べてほしいとアビーが腕によりをかけて作ったものだ」
「……」
「スープからゆっくり飲むといい。熱いから気をつけて」
まるで病み上がりの弟にでも言うかのような口調に、響は少しばかり肩の力を抜いた。
ヴァイスはペストマスクとロングコートという出で立ちなので、まず見た目が恐ろしい。何より出会いの印象が最悪だったので――殺されるところだったのだから最悪も最悪だ――恐怖しか感じていなかったが、意外と性情は悪くないことに気づいた。
ヴァイスとその肩に乗っているゼンマイ仕掛けの鳥に見守られながら手に取ったスプーンをスープへ潜り込ませる。
すくい上げた液体を口もとへ持っていき、ふうふうと何度か息を吹きかけたあとで口に含むと味覚は素直に喜んだ。
コンソメスープのような馴染みのある味わいだ。色々な角切りの野菜がたっぷり入っている。数日間まったく食事をしなかったせいもあるだろう、ことさらに美味く感じた。
しかし響が唇を噛みしめたのはそんな理由からではない。二口、三口と胃の腑に収めていくうちに響の頭へ取りとめのない思い出が飛来してきたからだ。
それは祖母が作ってくれたスープの思い出だ。
恐らくコンソメキューブと野菜を放り込んだだけのそれを、野菜嫌いを公言していた妹の乃絵莉は口を尖らせながら食べた。
特に嫌いな野菜は密かに押しつけてきて、祖母の手料理が大好きだった響はそれを受け入れ完食した。
祖父はそんな二人を苦笑しながらも微笑ましく眺めていた。幼いころの――今となってはとても幸せな記憶。
「……おいしい、です。なんだか妙に、懐かしい味で」
だから響は言う。涙をぼろぼろとこぼし始めながら。記憶のなかでだけは今も生き続ける〝家族〟を噛みしめながら。
その隣で、ヴァイスはマスクを外すことも食器に手を伸ばすこともなく響を見守っていた。
「いつか元気になったらアビーの食堂に行こうか。君が会いに行ったらきっと喜ぶよ」
「これから行ってもいいですか」
「……、」
「お礼を言いたいです……ほんとにすごく、すごく美味しいから」
よれよれの声で続ければ、ヴァイスは柔らかな声で「そうか」とだけ言った。
* * *
ゆっくり食事を終え、軽く身だしなみを整えて出入り口のドア前に立った。ノブに手をかけ力をこめる。
外に出るのには多少の勇気が要った。しかしひとたび屋外へ出れば、待っていたのはたくさんの心配そうな、あるいは優しげな視線だった。響はそれらに見送られながらヴァイスの後をついていく。
アビー食堂の店主・アビーのもとへたどり着いて「美味しかったです」と礼を述べると、ふくよかな母親然とした容姿の彼女は心底喜び、温かな手で響を抱きしめた。
「お腹が空いたらおいで。お腹が空いていなくてもおいで」――優しい声と温度に響は照れくさくなりながらも久々に笑うことができた。
「無事お礼ができて良かったね」
「はい。突然ですみませんでしたが、ありがとうございます」
食堂を出て街路を歩きながら言う。すると傍らのヴァイスは首を横に振る。
「君が少しでも元気になったならいいんだ。もし良ければこのまま散歩でもどうかな」
「……ちょっとだけなら」