第4話 日常は破られた

文字数 2,516文字

 もし月を背にするその男がただの変質者や乱暴者であったなら、響はここまでの動揺は覚えなかっただろう。

 しかし、今の彼は目を見開き硬直することしかできない。

 何故なら直感で悟っていた。数歩先の男、初めて目にするこの男が放つ視線は、ここ一週間のうちに何度となく感じたあの視線だと。

「――階層降下(レイヤ・ダウン)」

 男が低音で何か言葉を囁いた。同時に辺りが一瞬ブレた、気がした。違和感に周囲を見回す響。男はそんな彼のもとへ一歩踏み出し距離を縮めてくる。

 街灯の光によって識別できた男の外見は、アップバングにした短めの黒髪、不機嫌そうに寄せられた眉に黒目、灰色のツナギにエンジニアブーツと、一見すれば響同様仕事帰りに見える。年頃も響と変わらないだろう若者だ。

 無論これだけならば心臓を掴まれるような視線の主が彼だと確信できる要素はない。

 だが、一歩踏み出したと同時に自身の左胸へ伸ばした右手がいつの間にか物々しい銃を握り、逡巡なく響へと銃口を向けたとき、響は直感が合っていたことを理解した。

「これより〝魂魄執行〟を開始する」

 ――ガウン!!

「っ!?」

 反射的に動く。同時に男の銃が発砲される。響が今の今まで立っていたところを弾丸が突き抜けていく。

 響はとっさに横へ動いており、鼓膜をつんざく不快な音を聞いて弾丸を間一髪避けられたことを知る。

 だが喜んでいる暇などあるはずもない。勢いのまま身を投げ出したせいで家の屏に肩をハデにぶつけた。痛い。だがそれにすら構っていられない。

 響は素早く身を切り返すと黒髪の男に背を向けて走り出した。ガウン!! すると再びけたたましい銃声。

 自分のすぐ傍らを通り抜けていく弾丸に追い打ちをかけられれば立ち止まるという選択肢などありはしない。一目散に道路を駆けるしかなかった。

「ッなんだあれ!? やばい、やばいやばい……!!」

 必死で逃げた。少しでも速度を緩めたら撃たれる、死ぬ、嫌だ死にたくない!

 角を曲がる直前に男を振り返る。予想に反して男は響を追いかけるでもなく、しかし銃を構えたままの姿勢でそこに立ち続けていた。

 だが安堵などできるはずがない。角を曲がりきり、さらに足へ力を込めて逃亡を図る。

「はぁっ、はぁ、はぁッ……!」

 何度も何度も背後を確認し走り続ける。依然として動揺、混乱、恐怖に埋め尽くされていたが、すべきことは分かっている。

 とにかく誰かに助けを求めなければ!

 しかし今、声高々に騒ぐことは得策ではないだろう。黒髪の男に自分の居場所を知らせるようなものだ。

 一番は警察がいい。幸いにも近くに交番がある、まずはそこに向かおう。それなら助かる、銃を持っていた挙げ句二度も発砲したのだ。あの男をすぐ捕まえてくれるはずだ。

「いや、待て」

 しかしふと、まとまりかけていた計画がフラッシュバックに塗りつぶされる。腹に貫通した大穴、血まみれで倒れる乃絵莉。ここ最近ずっと頭から離れなかった嫌な夢。

「……」

 もし、もしだ。もしあれがただの悪夢ではなく予知夢だったとしたら――そんなバカげた憶測、しかし無視できない可能性が頭をもたげた。

 何故ならすべての始まりはあの悪夢だった。あの悪夢を見てから響は不運に見舞われ、あの男の視線も感じるようになったのだ。ならば因果関係がないとは言い切れないのではないか。

 一連の不運と腑に落ちない違和感、あの悪夢。視線の主が今まさに自分を殺しにかかった事実――ならば次にあの男が狙うのは乃絵莉という可能性もあるのではないか?

「っ!!」

 そう思い至った途端、響は進路を変更した。まずは帰宅して乃絵莉や祖父母の安全を確保すべきだ!

 先ほど歩いていた道は男と出くわす可能性が高いため別の道を選んだ。遠回りにはなるがこのまま走ればすぐに着く。

 警察にも行かなければならないが、響はとにかく家族の安否を第一優先にしなければならないと思った。

 この一週間感じてきた心臓を掴まれるような嫌な視線、つまりあの黒髪の男が響に注いできた視線は時間も場所も関係がなかった。

 無論、響にはその理由も方法も分からない。だが実際に学校でもバイト先でも帰路でも、家のなかですら視線を感じていた。

 それの意味するところはただひとつ。男はきっと響の家を知っている。だから男が襲来する前に自宅へたどり着かなくてはならないのだ。

「乃絵莉……!!」

 必死の思いで家の前に到着した。念のため周囲を見回したが男の気配は感じられない。
 間に合った! ひとまず胸を撫でおろしながら鍵を開ければ土足で廊下に上がった。

「じいちゃん、ばあちゃん!!」

 まずはリビングルームへ続くドアを開けて祖父母を呼ぶ。この時間帯の二人は寝巻姿でソファに座り、テレビを観ながら響の帰りを待っている。だから想像では、突然の大声にテレビへ注いでいた目を丸くして響を見上げてくるはずだった。

「……、?」

 だがいない。明かりもテレビもついている。しかし祖父母のどちらもいない。リビングルームのすぐ隣にあるキッチンも無人だ。

 ならばと廊下の反対側にある和室へと向かう。だが二人の寝床であるそこを確認しても結果は同じだ。強烈な違和感。

「ッ乃絵莉、乃絵莉!!」

 二階へ駆け上がる。乃絵莉の部屋のドアを開く。しかし電気はついていても乃絵莉の姿がない。

 部屋は暖房によって温まっており、ベッドには人が寝そべっていたあともある。スマホも枕元に転がっている。

 だがいない。まるで人間だけが抜け落ちたかのようにいないのだ。

「!」

 そのとき、すぐ近くで人の気配を感じた。気づいたと同時に響は乃絵莉の部屋を飛び出た。気配は向かい側にある自分の部屋から。響はそこで安堵した。こっちに居たのかと。

 乃絵莉はマンガを読みに無断で響の部屋を訪れることがよくあった。
 年頃の響にも一応見られたくないものがあるので不在のときはやめてくれと言っているのだが、ナマイキな妹がそんなものを聞くはずもなく、バイト帰りの響は自室でたびたび乃絵莉と出くわしていたのだ。

 いつもなら「またか」と嘆息することも非常時の今は喜びでしかない。響は自室のドアノブをひねり、部屋へ足を踏み入れ――

「……、」
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