第15話 それは救済なき

文字数 2,962文字

 というか、気づかざるを得なかった。

 八尾のキツネ型罪科獣。今しがたヴァイスに討伐され、少しずつ消えていくはずの身体の端々が、どこからともなく現れた禍々しい黒泥に侵食され始めたからだ。

「……、」

 その変化自体はまだ始まったばかりだ。

 腐食にも、捕食にも見える。速度も遅々としている。

 しかし黒泥は両断された部位と部位をゆっくり結び、ひとつの獣の形状に戻していく。

 先ほどの自己治癒の類ではない。黒泥はただ骸と骸を結び、八尾のキツネを少しずつ黒き塊にしていく。

 身の毛がよだつ光景だった。八尾のキツネが扱っていた鬼火も背筋が凍る不穏さを持っていたが比較にならない。

 すべての悪感情を詰め込んだかと思えるほどの禍々しさ。本能が見ることすら拒否している。

「な、なんでヤンスかあれ……ゾゾゾってするでヤンス……」

 響は吐き気と全身の毛穴から瞬時に溢れ出てきた冷や汗をこらえながらユエ助に頷いた。

 アスカは響の下で唇を引き結び、身を硬直させていた。

 響は依然としてアスカの手首を掴み上空へと繋いでいたが、その手が明確に温度を失くしていくのに気づく。見下ろした先には顔色を悪くしたアスカの面。

「…………あれは、呪禍だ」

 アスカは珍しくヨレた声で言葉を発した。響は口を開く。

「じゅか……?」

「生物や罪科獣が味わった法外な苦痛、憎悪、怨嗟、赫怒――あらゆる悪事象から生み出される救済なき呪いのことだ」

「……、」

「そうそう目にするものじゃない……俺も初めて見たが……これは……」

 アスカの動揺が並大抵ではなかった。

 確かに鬼火の上をいく禍々しさであり、響もあの黒泥がこの世にあってはならないモノだと感じている。

 しかしそれを加味してもアスカの様子は響の想像の遥か上をいっていた。

 一尾のキツネ型罪科獣を相手にしたときも、己の死を悟りながら八尾のキツネをひとり相手にしようとしたときも、実際に八尾のキツネの恐るべき戦闘能力を見たときも。アスカは基本的に一定以上の感情を表出してこなかった。

 だのに今は激しい動揺を隠せずにいる。

「だ、大丈夫? アスカ君」

「……もし、もしあのとき。お前に奇跡が起きなければ……お前も呪禍に飲まれてしまうところ、だった」

「え?」

「これは自発的な呪禍だが……〝混血の禁忌〟による苦痛は、生物を容易く呪禍に変えてしまうほどのものだと、聞いている」

「……!」

 ――数ヶ月前。ただの人間でしかなかった響はアスカの紋翼を心臓、その内にある魂魄に埋め込まれたことで〝混血の禁忌〟に遭った。

 響は何故か奇跡的に生きながらえたが、普通ならば〝混血の禁忌〟に見舞われた生物は苦痛の果てに魂魄もろとも壊れてしまうらしい。

 確かにあのとき出会った苦痛はこれまで出会ったあらゆる苦痛と比べものにならず、刹那だったのに永遠にも思え、自我も崩壊しかかり、すべてが意味不明になるほどのものだった。

 だから響はアスカの言葉に驚く一方で納得してしまった。

 一歩間違えたなら、奇跡が起きなかったなら。

 自分もあの恐ろしい呪禍に飲み込まれてしまっていたのだ――

「だ、大丈夫なんだよね、ヴァイスさん……?」

 不安のあまり問いを重ねるも、アスカは返事をしない。先ほどは確信を持って頷いていたアスカが黙り込んでいる。むしろそれが答えなのか。

 しかし視線の先のヴァイスは逃げもせず、未だ同じ場所に佇み続け、巨大な呪いになっていくキツネを見上げていた。



「――ふむ。死を悟るや否や自ら呪禍に飲まれるとは、相当に執念深いね。素直に死んだ方がマシなくらい苦しいだろうに」

 ヴァイスは相変わらず淡々とした様子だ。ドロドロと漏れ出す悪性感情、荒いヤスリで削られるかのような大気も意に介さない。

 生物がこの場所に存在したなら一心不乱に逃げるか失神するだろうが、あいにくヴァイスは生物でもなければ経験の浅い執行者でもないからだ。

「……呪禍。それは地たるヤミ神と天たるヒカリ神双方、つまりこの星にとって最も悲痛な事象とされている。

 『我が子たる生物がそれほどに苦を重ねてしまったということだから』なんていうのが一般的な理由だが、本当のところは分からない。

 神にはもう自我がないからね、尋ねようがないんだ」

 コオオォ、ゴポポ、と黒い泥が増殖していく。

 呪禍はそれ自体が意志を持つかのように蠢いている。あと少しで地面にまでこぼれ落ちそうだ。

「どんなにしろ問題点はそこじゃない。呪禍に触れると容易く伝染するのも今さら驚くことじゃない。

 一番の問題は君が現在進行形で生み出している呪禍――それが地にこぼれ落ちたとき、この星が不治の傷を負って星の寿命が奪われてしまうことだ。

 ……生物すべての生きる時間、そして命を繋げられる時間を君のために縮められるわけにはいかない」

 ヴァイスは言いながら再び権能〝クロノス〟を展開した。

 しかし金古美色の巨大な歯車時計が姿を現したのは対象の真上ではない。己の背後だ。

 長針や短針、秒針はそれぞれの速度で時を刻んでいるが、ヴァイスが両手を真横に伸ばすと動きを止め、三本すべてが数字を差す方を支点にして垂直方向へ末端を向けた。つまりヴァイスへ自身を捧げるように動いた。

「生物は生きることを本能とするのだから〝この星の傷になってでもしがみついてやる〟という執着はある程度肯定しよう。ただ――」

 ヴァイスの両手が長針と短針をそれぞれ掴む。秒針は自ら動いて空中に浮遊する。

「理解と感情はまた別でね。私は君を強く叱らねば気が収まらなくなってしまった」

 ――果たしてヴァイスの言葉は前に発されたものであったのか、後に発されたものであったのか。

 とにもかくにも響に認識できたのは呪禍キツネの前方にいたはずのヴァイスではなく、いつの間にか後方に移動したヴァイスの姿であった。

 何の音もなかった。しかし両手に握られた長針と短針は既に振り下ろされていた。

 一瞬の間を空けて細かく切り裂かれた呪禍キツネ。

 ズゥウウン――と重々しい音を立てながら倒れていく。

 右手に持つ長針は片手槍ローセ。左手に持つ短針は片手剣クライ。すぐ傍らを浮遊する秒針は短剣ゼク――これらは権能〝クロノス〟の近接武器形態である。

 三本は一様に透き通った刀身と柄を有し、所々に金古美色の精巧で繊細な意匠を施されている美しい武器であるものの、切れ味は恐ろしく鋭い。

 〝茨〟や〝クロノス〟の遠隔武器形態で大半の戦闘を終わらせてしまうヴァイスがこれら刀剣を使用する機会は非常に稀有だ。

「〝停止〟」

 ヴァイスは続けて権能を発動した。

 対象が強者であればあるほど効力が鈍くなる権能〝クロノス〟の時間操作だが、三本の針のいずれかで直接攻撃を与えた場合の効力は大幅に上昇する。

 ヴァイスが刀剣を扱った最大の理由はそこにあった。呪禍の動きを最大効力で阻み、地に落ちる前に回収するのだ。

 とはいえ、ヴァイスは呪禍の完全なる停止が不可能であることを知っている。

 目にも留まらぬ斬撃によって八尾のキツネは完全に終わり、新たな呪禍の生成は止められたものの、一度生み出されてしまった呪禍は〝逆行〟をもってしてもなかったことにできない。せいぜいが呪禍の進行を遅らせる程度だ。

 しかしそれで問題はなかった。

「――カナリア。呪禍を封印しろ」
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登場人物紹介

◯◆響

普通の男子高校生だった17歳。

アスカに命を狙われ、シエルに〝混血の禁忌〟を犯されて

生物とヤミ属の中間存在〝半陰〟となった結果、

生物界での居場所を根底から奪われた過去を持つ。

◆アスカ

物語当初は響の命を狙う任務に就いていたヤミ属執行者。

シエルに紋翼を奪われて執行者の資格を失ったが、

響が志願したことにより彼も執行者に復帰することとなった。

以降は響の守護を最優先の使命とする。

◇シエル

〝悪夢のなかで出会った神様〟と響が誤認した相手。

アスカの紋翼を無惨に引きちぎり、

響に〝混血の禁忌〟を犯した相手でもある。

アスカと因縁があるようだが……?

◆ヴァイス

ヤミ属執行者。

〝混血の禁忌〟に遭った響の首を切り落とそうとした。

長身かつ顔面をペストマスクで覆った容姿はシンプルに恐ろしい。

アスカの元育て親、ディルの相棒。

◆ディル

ヤミ属執行者。

しかし軍医的位置づけであるため執行行為はご無沙汰。

ヴァイスの相棒かつ響の担当医、キララの元育て親でもある。

素晴らしい薬の開発者でもあるが、ネーミングセンスがことごとくダサい。

◯乃絵莉

響の妹、だった少女。

響にとって何よりも守りたい存在。

響が〝半陰〟となって以降は一人っ子と再定義された。

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