第13話 神の子
文字数 3,035文字
「!」
そんなところでディルは目を見開いた。
一階奥、兵士によって守られた分厚いドア。固く閉じられた先の階段からしか至れぬ邸宅の二階部に、ヴァイスの気配を感じた気がしたからだ。
「――ああ、今日も来てくだったのですね」
階段を登り終え、薄布のベールに覆われた空間へ足を踏み入れようとした矢先、喜色に彩られた声がディルの聴覚に触れた。
ディルは動きを止め、布の隙間からひっそりと中の様子をうかがう。
大して広くもない石造りの部屋だ。窓は開けられないように固められ、唯一の出入り口もディルが今ほど通ってきた階段通路だけ。
光源は数本のロウソクのみ。豪奢な調度品の類は無論ない――というより調度品自体がほぼない。
部屋のすみには皿に乗った小果実がいくつかあるくらいで、まるで牢獄のような空間だ。今声を発した者は罪人として囚われているのか?
「……、」
しかし声の主を視界に収めた瞬間、違うのだとディルは確信した。
年のころ十七歳ほどの少年だ。肌はやや浅黒く、琥珀色の髪は伸ばしっぱなしのように長い。
髪の隙間から垣間見えた左目の位置に眼球はなく、右目は青と黃の入り混じった不思議な色をしていた。
体躯は兵士たちと同様にやせ細り、衣といえば薄汚れた布を腰に一枚巻きつけているだけ。粗末な身なりに反して両耳にはターコイズのピアスをつけているため、その青だけがやけに冴えて見えた。
不思議な魅力をたずさえている。しかしそれ以外に特筆すべき箇所はなく、この土地の人間という域を出ない。
だが、固められた窓に向かい、今の今まで一心に祈りを捧げていたであろうこの少年の存在によって、牢獄のような空間が清らかな聖域に見えてしまう事実にディルは狼狽えた。
ヤミ属の目にそう映ってしまうほど、この少年の放つ善性は強かったのだ。
しかしそこで疑問が沸き起こる。この部屋には少年一人しか確認できない。ディルを認識している気配もない。
だのに『今日も来てくださった』とはどういうことだろうか。彼は気が触れているのだろうか?
「俺の祈りが届いたのですね。死神様」
「……そういうわけではない」
ディルがそう考えていたところで、ふと第三者が呼応した。同時に少年の数歩先の空間が揺らぎ、霊体が出現する。
階段がある小空間と部屋とを分けるベール、その階段側で反射的に気配を押し殺してしまったディルの位置からは現れた者の背中しか見えない。
「……、」
しかしそれがヴァイスであることはすぐに分かった。何百年と共にあったディルが見違えるはずもないのだ。
だが、ディルは目を疑い耳を疑った。十中八九〝魂魄執行〟のためにこの場所へ降り立ったヴァイス。その彼がわざわざ執行対象であろう少年に返答した事実。
これまで遂げてきた任務では、執行対象がどんなに呼びかけても無反応を貫いて粛々と執行してきたのに。
そもそも執行対象に死を与える以外で干渉することは禁じられているのに――
心ざわめくディルとは裏腹に、少年は朗らかな笑顔を身体ごとヴァイスへ向けた。
「あなたにまたお会いしたかった。今日も来てくださるか心配だったのです」
「……、」
「どうか今日はすぐに帰らないで。良かったら話相手になってくださいませんか」
なんとも奇妙な光景だった。少年が霊体のままのヴァイスを肉眼で捉え会話していることが、ではない。
ヴァイスを〝死神〟と認識しながら笑顔で接し、長居すら要求していることがだ。
「……話相手になどならない。以前も言ったはずだ。私は君を殺しにきたのだと」
ヴァイスも似たように感じたらしい。しかし少年はわざわざ訂正するヴァイスへ軽やかに肩を揺らすばかりだった。
「ええ知っています。なのでそれについては懇願しなくてはなりません。どうかまだ心臓を奪うのはお待ちください。この戦争が終わったならすぐにでも捧げますから、死神様」
「……私の名は死神ではない」
ヴァイスはぼそりと言って、左胸にある神核片を活性化させた。彼は今まさに執行用階層へ少年を移動させ、そこで彼を殺そうとしていた。
「では名前を教えていただけますか? 俺の名はエレンフォールです。
エレンフォール・トゥラン……あっ! すみません、名字は奴隷の身分になって以降失くしたんでした」
しかしエレンフォールと名乗った少年が嬉々として名乗った瞬間、ヴァイスはビクリと肩を揺らし、練り上げた神陰力を空気に拡散させてしまう。反射的に後ずさりさえした。
そして長い沈黙。その間もエレンフォールは何の畏れもない瞳でヴァイスを見上げ、今か今かと返事を待っている。
「……ヴァイス」
やがてヴァイスは、静かな夜に己の名を落とした。拒否も偽りもせず、自分という存在をエレンフォールに晒した。
「ヴァイス! 聞き慣れない響きですが、美しい名だ」
「……」
「ああ、とても嬉しい。教えてくださってありがとうございます。これからはヴァイス様と呼ばせてください」
「これからなど――」
そこでヴァイスは再度神核片を活性化させようとした。ゆえに今度こそ執行が成されるはずだった。
――だが。
「神の子エレンフォール。何を話されているのですか?」
ヴァイスの動きは部屋に別の人間が入ってきたことで中断されることになる。ディルはハッとして背後の階段を振り返った。
そこから姿を現したのは中年の男と傷ついた若い兵士だ。
どちらもこの土地に住まう者たちと同じ人種、似たような向きの装いをしている。
傷ついた若い兵士の方は階下で見た者たちと同様に痩せ細り、粗末で汚い。
さらに腹にはなかなか深い裂傷があり、簡易的に手当はされているもののダラダラと流血している。訓練で受傷したのだろうか、空腹にも見えて、足もともおぼつかない。
反対に、若い兵士の前に立つ中年の男の方は豊かな体躯をしていた。
獰猛な視線、顔の中心に鎮座するワシ鼻は目立つほど高く、長いひげは口周りを支配的に彩る。
装いも民族衣装なのだろうが、痩せ細って憔悴していた兵士たちや街の人々とは違い、上質で一点の汚れもない。首や腕にある金のアクセサリはロウソクの光に照らされるたびにキラキラと瞬いた。
「失礼いたします。よもや敵襲かと焦りましたが、誰もおらず安心しました」
「あなたが来たということは今は夜なのですね。イスマ」
イスマと呼ばれた男は、ベールを越えて入室する否や部屋のすみずみに視線を投げていた。
しかし問われればエレンフォールに視線を改め、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「ええ、はい。一日の終わりは神の子たるあなた様へ祈りを捧げると決めておりますから」
ちなみにヴァイスやディルはそれぞれ変わらぬ位置に立っているが、霊体なので彼らには見えていない。
ディルはこの中年の男を先刻も目にしていた。兵士を取りまとめている家来にぞんざいな指示を出し、寝室へ向かう女と親しげに言葉を交わしていた彼は恐らくこの邸宅の主――つまりこの土地を支配する豪族だろう。
と、ディルがそんな推理をしているところでエレンフォールがイスマの背後にてふらつく兵士に気づいた。
「ナージー、大変な傷だ。すぐ横になって」
言って身を投げ出すように近づき、兵士をその場へ寝かせると傷のすぐ上へ手を当てる。
「! ……」
その直後、ディルは息を呑むことになる。
何故ならエレンフォールが目をつぶり、口のなかで何かを唱えた途端。
その両手の平から光があふれ、腹の傷がみるみるうちに治癒されていったからだ。
そんなところでディルは目を見開いた。
一階奥、兵士によって守られた分厚いドア。固く閉じられた先の階段からしか至れぬ邸宅の二階部に、ヴァイスの気配を感じた気がしたからだ。
「――ああ、今日も来てくだったのですね」
階段を登り終え、薄布のベールに覆われた空間へ足を踏み入れようとした矢先、喜色に彩られた声がディルの聴覚に触れた。
ディルは動きを止め、布の隙間からひっそりと中の様子をうかがう。
大して広くもない石造りの部屋だ。窓は開けられないように固められ、唯一の出入り口もディルが今ほど通ってきた階段通路だけ。
光源は数本のロウソクのみ。豪奢な調度品の類は無論ない――というより調度品自体がほぼない。
部屋のすみには皿に乗った小果実がいくつかあるくらいで、まるで牢獄のような空間だ。今声を発した者は罪人として囚われているのか?
「……、」
しかし声の主を視界に収めた瞬間、違うのだとディルは確信した。
年のころ十七歳ほどの少年だ。肌はやや浅黒く、琥珀色の髪は伸ばしっぱなしのように長い。
髪の隙間から垣間見えた左目の位置に眼球はなく、右目は青と黃の入り混じった不思議な色をしていた。
体躯は兵士たちと同様にやせ細り、衣といえば薄汚れた布を腰に一枚巻きつけているだけ。粗末な身なりに反して両耳にはターコイズのピアスをつけているため、その青だけがやけに冴えて見えた。
不思議な魅力をたずさえている。しかしそれ以外に特筆すべき箇所はなく、この土地の人間という域を出ない。
だが、固められた窓に向かい、今の今まで一心に祈りを捧げていたであろうこの少年の存在によって、牢獄のような空間が清らかな聖域に見えてしまう事実にディルは狼狽えた。
ヤミ属の目にそう映ってしまうほど、この少年の放つ善性は強かったのだ。
しかしそこで疑問が沸き起こる。この部屋には少年一人しか確認できない。ディルを認識している気配もない。
だのに『今日も来てくださった』とはどういうことだろうか。彼は気が触れているのだろうか?
「俺の祈りが届いたのですね。死神様」
「……そういうわけではない」
ディルがそう考えていたところで、ふと第三者が呼応した。同時に少年の数歩先の空間が揺らぎ、霊体が出現する。
階段がある小空間と部屋とを分けるベール、その階段側で反射的に気配を押し殺してしまったディルの位置からは現れた者の背中しか見えない。
「……、」
しかしそれがヴァイスであることはすぐに分かった。何百年と共にあったディルが見違えるはずもないのだ。
だが、ディルは目を疑い耳を疑った。十中八九〝魂魄執行〟のためにこの場所へ降り立ったヴァイス。その彼がわざわざ執行対象であろう少年に返答した事実。
これまで遂げてきた任務では、執行対象がどんなに呼びかけても無反応を貫いて粛々と執行してきたのに。
そもそも執行対象に死を与える以外で干渉することは禁じられているのに――
心ざわめくディルとは裏腹に、少年は朗らかな笑顔を身体ごとヴァイスへ向けた。
「あなたにまたお会いしたかった。今日も来てくださるか心配だったのです」
「……、」
「どうか今日はすぐに帰らないで。良かったら話相手になってくださいませんか」
なんとも奇妙な光景だった。少年が霊体のままのヴァイスを肉眼で捉え会話していることが、ではない。
ヴァイスを〝死神〟と認識しながら笑顔で接し、長居すら要求していることがだ。
「……話相手になどならない。以前も言ったはずだ。私は君を殺しにきたのだと」
ヴァイスも似たように感じたらしい。しかし少年はわざわざ訂正するヴァイスへ軽やかに肩を揺らすばかりだった。
「ええ知っています。なのでそれについては懇願しなくてはなりません。どうかまだ心臓を奪うのはお待ちください。この戦争が終わったならすぐにでも捧げますから、死神様」
「……私の名は死神ではない」
ヴァイスはぼそりと言って、左胸にある神核片を活性化させた。彼は今まさに執行用階層へ少年を移動させ、そこで彼を殺そうとしていた。
「では名前を教えていただけますか? 俺の名はエレンフォールです。
エレンフォール・トゥラン……あっ! すみません、名字は奴隷の身分になって以降失くしたんでした」
しかしエレンフォールと名乗った少年が嬉々として名乗った瞬間、ヴァイスはビクリと肩を揺らし、練り上げた神陰力を空気に拡散させてしまう。反射的に後ずさりさえした。
そして長い沈黙。その間もエレンフォールは何の畏れもない瞳でヴァイスを見上げ、今か今かと返事を待っている。
「……ヴァイス」
やがてヴァイスは、静かな夜に己の名を落とした。拒否も偽りもせず、自分という存在をエレンフォールに晒した。
「ヴァイス! 聞き慣れない響きですが、美しい名だ」
「……」
「ああ、とても嬉しい。教えてくださってありがとうございます。これからはヴァイス様と呼ばせてください」
「これからなど――」
そこでヴァイスは再度神核片を活性化させようとした。ゆえに今度こそ執行が成されるはずだった。
――だが。
「神の子エレンフォール。何を話されているのですか?」
ヴァイスの動きは部屋に別の人間が入ってきたことで中断されることになる。ディルはハッとして背後の階段を振り返った。
そこから姿を現したのは中年の男と傷ついた若い兵士だ。
どちらもこの土地に住まう者たちと同じ人種、似たような向きの装いをしている。
傷ついた若い兵士の方は階下で見た者たちと同様に痩せ細り、粗末で汚い。
さらに腹にはなかなか深い裂傷があり、簡易的に手当はされているもののダラダラと流血している。訓練で受傷したのだろうか、空腹にも見えて、足もともおぼつかない。
反対に、若い兵士の前に立つ中年の男の方は豊かな体躯をしていた。
獰猛な視線、顔の中心に鎮座するワシ鼻は目立つほど高く、長いひげは口周りを支配的に彩る。
装いも民族衣装なのだろうが、痩せ細って憔悴していた兵士たちや街の人々とは違い、上質で一点の汚れもない。首や腕にある金のアクセサリはロウソクの光に照らされるたびにキラキラと瞬いた。
「失礼いたします。よもや敵襲かと焦りましたが、誰もおらず安心しました」
「あなたが来たということは今は夜なのですね。イスマ」
イスマと呼ばれた男は、ベールを越えて入室する否や部屋のすみずみに視線を投げていた。
しかし問われればエレンフォールに視線を改め、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「ええ、はい。一日の終わりは神の子たるあなた様へ祈りを捧げると決めておりますから」
ちなみにヴァイスやディルはそれぞれ変わらぬ位置に立っているが、霊体なので彼らには見えていない。
ディルはこの中年の男を先刻も目にしていた。兵士を取りまとめている家来にぞんざいな指示を出し、寝室へ向かう女と親しげに言葉を交わしていた彼は恐らくこの邸宅の主――つまりこの土地を支配する豪族だろう。
と、ディルがそんな推理をしているところでエレンフォールがイスマの背後にてふらつく兵士に気づいた。
「ナージー、大変な傷だ。すぐ横になって」
言って身を投げ出すように近づき、兵士をその場へ寝かせると傷のすぐ上へ手を当てる。
「! ……」
その直後、ディルは息を呑むことになる。
何故ならエレンフォールが目をつぶり、口のなかで何かを唱えた途端。
その両手の平から光があふれ、腹の傷がみるみるうちに治癒されていったからだ。