第17話 詭弁
文字数 2,508文字
「神の子エレンフォール。ご無事で何よりでした」
「イスマ!! なんッ、どうして皆を……!!」
「すべてはあなた様のため。この下賤な者どもがあなた様を部屋からさらったのでしょう?」
「ちが、違うッ、皆は何も関係ない! 俺は自分の意志でここまで来たんだ、傷ついた皆を少しでも癒やせればと思って! なのにどうして、彼らの話も聞かずにこんな……!!」
「責めますか? こつ然と消えたあなた様の安否を心配し駆けつけたこのイスマを?」
「っ……」
「あなた様があの部屋を抜け出さなければ、このイスマは彼らを殺す必要がありませんでした。ならば神の子エレンフォール。これは、この現状は他ならぬあなた様の罪では?」
「………………」
「さぁ、あの部屋に帰りましょう。このような場所、長居するものではありません。
ご安心ください。すべては順調です……このイスマが敵との話しあいの場を設けられたなら、あなた様の奇跡のお力で戦争は必ず終結いたします」
イスマの言葉に俯くばかりになってしまったエレンフォール。
イスマはぞんざいに顎をしゃくり、そんな彼を歩かせるよう周囲の兵に命じた。それに後ずさっても無意味だ。エレンフォールは兵に担がれ、強引に邸宅への帰路へつかされる。
「……ッ」
一連を黙って眺めていたヴァイスは、そこで唐突に動きを見せた。
左手を突き出し、神核片を活性化させ、神陰力を練り上げ、紋翼を展開しようとした。執行用の階層にエレンフォールを移動し、己の任務を全うしようとしたのだ。
だが、いつまで経ってもヴァイスの背には紋翼が表出しない。
そればかりか突き出した左手を下ろし、面を下げた。兵に連れられていくエレンフォールは既に遠く。
――ディルはヴァイスの背中を見つめるしかない。
ヴァイスの足もとにはつい先刻まで確かに生きていた人間の骸。そしてヤミ属界へ還っていく魂魄。エレンフォールが逃がそうとした罪人の魂魄も遠くで還っていった。
凄惨で残酷な状況であることには間違いがない。しかしこれはある意味〝正しい〟ことだった。
何故ならイスマの命令によって殺された人々は、契約寿命を今に終える予定の者たちだったからだ。
牢獄に繋がれていた敵方の罪人。傷つきはてた者たち。彼らを救おうとエレンフォールへ寄ってきた者たち――彼らは、彼らの魂魄は転生する前に決めた寿命の契約を履行しようとしていた。
だがそれをエレンフォールは反故させようとした。契約のまま死ぬはずだった生物を無理に生かした。
だからイスマの殺戮は〝正しい〟
契約寿命のまま、あるいは少し過ぎた程度で死ぬことで、彼らの魂魄が歪む恐れはなくなったのだから。
どんなに惨たらしくとも、苦しくとも。神の手足たるヤミ属は生物と同じ目線に立ってはならない。無論ヴァイスもそれを知っている。
生物の魂魄をこれ以上歪ませないために自分が何をすべきかも知っている。だからこそヴァイスは今、エレンフォールを殺そうとしたのだ。
だができない。できなかった。
これまでも今も。
もしかしたらこの先も――
「よう。なかなか帰還してこねぇから様子見に来てやったぞ」
動かないヴァイスをこれ以上見ていられず、ディルはとっさに声をかけてしまった。足を動かし、近づいていく。
ヴァイスは驚きの隠せない様子で振り返ってきた。
「ディル……」
名を呼ぶヴァイスの声は低く重い。ディルは何も知らぬふりをしながら、足もとに散らばる血まみれの遺骸を見下ろす。
「今終わったのか?」
「……いや」
「冗談だろ。どんなに強い罪科獣でも一瞬で終わらせちまうお前らしくねぇ」
「……」
「何か問題でもあったのかよ」
「ない。何もない」
即答だった。直前まで淀んだ音色だったというのに、まるで下手な隠しごとをする子どものように頑なな態度で、ヴァイスは首を横に振る。
「……じゃあ、なんで今執行しなかった」
ゆえに追求が口をついて出てきた。たった今この地に降り立ったテイで通そうと思っていたのに、抑えられなかった。
ヴァイスは数秒黙ったあとで再び口を開く。
「そうか……見ていたんだな」
「執行期限がすぐそこだぜ。お前も知ってるとおり期限なんてのは最低ラインでな、お前がグズグズしてる間にもエレンフォールは他の魂魄を歪ませて問題を大きくしてる。実際は早急な遂行が求められてんだ」
「……」
「ヤミ神はお前の執行者としての力を信頼してる。だからわざわざエレンフォールの〝魂魄執行〟にお前を指名したんだろう。だが、誰が遂行するかなんてのは実際二の次だ」
「……」
「言ってる意味分かるよな。お前ができないなら俺がやってやるよ。俺の毒で、エレンフォールを苦しませず終わらせてやる」
「ッいいや私がやる」
急いで首を振るヴァイス。
重苦しい足を一歩踏み出してディルを制止させようとする動作――それを視野に収めるディルは胸のモヤモヤがヒリついていくのを感じていた。
「ディル、お前は手を出すな。これは私がヤミ神に与えられた任務だ。私がエレンフォールを殺す。次は必ず。絶対に」
「本当かよ」
「本当だ」
「信じていいんだな」
「属界で待っていてほしい。……すぐに執行して、帰還する」
まるで自分に言い聞かせるようだ。ディルはヴァイスをしばらく見つめ続け、やがて返事もせず紋翼を展開、生物界を離れた。
疑念を強引に無視した。ひとつの可能性から目を背けた。
何故ならディルは信じたかったのだ。〝ヤミ属執行者の頂点〟たるヴァイスを。何百年と共に任務をこなしてきた相棒を。だから懸命にオトナを装って、ヒリつく心を無視したのだ。
――エレンフォールの〝魂魄執行〟期限まであとわずか。
それから少し後。ディルが去り、少々ののちにヴァイスも去った血まみれの暗黒夜。
「ふうん。今夜こそはと思って楽しみにしていたけれど、今回もダメだったんだ」
どこからか声が鳴った。救いの光がごとき慈愛の声が。
「やっぱり彼は違うね。リヴィアタと全然違う。期待していたのに残念だ」
そして冷ややかな失望を最後に、美しい音色もまた消えた。
だからそこに残ったのは惨たらしい残骸だけ。
それと残酷のなか、まだ生きねばならない者たちだけ。
「イスマ!! なんッ、どうして皆を……!!」
「すべてはあなた様のため。この下賤な者どもがあなた様を部屋からさらったのでしょう?」
「ちが、違うッ、皆は何も関係ない! 俺は自分の意志でここまで来たんだ、傷ついた皆を少しでも癒やせればと思って! なのにどうして、彼らの話も聞かずにこんな……!!」
「責めますか? こつ然と消えたあなた様の安否を心配し駆けつけたこのイスマを?」
「っ……」
「あなた様があの部屋を抜け出さなければ、このイスマは彼らを殺す必要がありませんでした。ならば神の子エレンフォール。これは、この現状は他ならぬあなた様の罪では?」
「………………」
「さぁ、あの部屋に帰りましょう。このような場所、長居するものではありません。
ご安心ください。すべては順調です……このイスマが敵との話しあいの場を設けられたなら、あなた様の奇跡のお力で戦争は必ず終結いたします」
イスマの言葉に俯くばかりになってしまったエレンフォール。
イスマはぞんざいに顎をしゃくり、そんな彼を歩かせるよう周囲の兵に命じた。それに後ずさっても無意味だ。エレンフォールは兵に担がれ、強引に邸宅への帰路へつかされる。
「……ッ」
一連を黙って眺めていたヴァイスは、そこで唐突に動きを見せた。
左手を突き出し、神核片を活性化させ、神陰力を練り上げ、紋翼を展開しようとした。執行用の階層にエレンフォールを移動し、己の任務を全うしようとしたのだ。
だが、いつまで経ってもヴァイスの背には紋翼が表出しない。
そればかりか突き出した左手を下ろし、面を下げた。兵に連れられていくエレンフォールは既に遠く。
――ディルはヴァイスの背中を見つめるしかない。
ヴァイスの足もとにはつい先刻まで確かに生きていた人間の骸。そしてヤミ属界へ還っていく魂魄。エレンフォールが逃がそうとした罪人の魂魄も遠くで還っていった。
凄惨で残酷な状況であることには間違いがない。しかしこれはある意味〝正しい〟ことだった。
何故ならイスマの命令によって殺された人々は、契約寿命を今に終える予定の者たちだったからだ。
牢獄に繋がれていた敵方の罪人。傷つきはてた者たち。彼らを救おうとエレンフォールへ寄ってきた者たち――彼らは、彼らの魂魄は転生する前に決めた寿命の契約を履行しようとしていた。
だがそれをエレンフォールは反故させようとした。契約のまま死ぬはずだった生物を無理に生かした。
だからイスマの殺戮は〝正しい〟
契約寿命のまま、あるいは少し過ぎた程度で死ぬことで、彼らの魂魄が歪む恐れはなくなったのだから。
どんなに惨たらしくとも、苦しくとも。神の手足たるヤミ属は生物と同じ目線に立ってはならない。無論ヴァイスもそれを知っている。
生物の魂魄をこれ以上歪ませないために自分が何をすべきかも知っている。だからこそヴァイスは今、エレンフォールを殺そうとしたのだ。
だができない。できなかった。
これまでも今も。
もしかしたらこの先も――
「よう。なかなか帰還してこねぇから様子見に来てやったぞ」
動かないヴァイスをこれ以上見ていられず、ディルはとっさに声をかけてしまった。足を動かし、近づいていく。
ヴァイスは驚きの隠せない様子で振り返ってきた。
「ディル……」
名を呼ぶヴァイスの声は低く重い。ディルは何も知らぬふりをしながら、足もとに散らばる血まみれの遺骸を見下ろす。
「今終わったのか?」
「……いや」
「冗談だろ。どんなに強い罪科獣でも一瞬で終わらせちまうお前らしくねぇ」
「……」
「何か問題でもあったのかよ」
「ない。何もない」
即答だった。直前まで淀んだ音色だったというのに、まるで下手な隠しごとをする子どものように頑なな態度で、ヴァイスは首を横に振る。
「……じゃあ、なんで今執行しなかった」
ゆえに追求が口をついて出てきた。たった今この地に降り立ったテイで通そうと思っていたのに、抑えられなかった。
ヴァイスは数秒黙ったあとで再び口を開く。
「そうか……見ていたんだな」
「執行期限がすぐそこだぜ。お前も知ってるとおり期限なんてのは最低ラインでな、お前がグズグズしてる間にもエレンフォールは他の魂魄を歪ませて問題を大きくしてる。実際は早急な遂行が求められてんだ」
「……」
「ヤミ神はお前の執行者としての力を信頼してる。だからわざわざエレンフォールの〝魂魄執行〟にお前を指名したんだろう。だが、誰が遂行するかなんてのは実際二の次だ」
「……」
「言ってる意味分かるよな。お前ができないなら俺がやってやるよ。俺の毒で、エレンフォールを苦しませず終わらせてやる」
「ッいいや私がやる」
急いで首を振るヴァイス。
重苦しい足を一歩踏み出してディルを制止させようとする動作――それを視野に収めるディルは胸のモヤモヤがヒリついていくのを感じていた。
「ディル、お前は手を出すな。これは私がヤミ神に与えられた任務だ。私がエレンフォールを殺す。次は必ず。絶対に」
「本当かよ」
「本当だ」
「信じていいんだな」
「属界で待っていてほしい。……すぐに執行して、帰還する」
まるで自分に言い聞かせるようだ。ディルはヴァイスをしばらく見つめ続け、やがて返事もせず紋翼を展開、生物界を離れた。
疑念を強引に無視した。ひとつの可能性から目を背けた。
何故ならディルは信じたかったのだ。〝ヤミ属執行者の頂点〟たるヴァイスを。何百年と共に任務をこなしてきた相棒を。だから懸命にオトナを装って、ヒリつく心を無視したのだ。
――エレンフォールの〝魂魄執行〟期限まであとわずか。
それから少し後。ディルが去り、少々ののちにヴァイスも去った血まみれの暗黒夜。
「ふうん。今夜こそはと思って楽しみにしていたけれど、今回もダメだったんだ」
どこからか声が鳴った。救いの光がごとき慈愛の声が。
「やっぱり彼は違うね。リヴィアタと全然違う。期待していたのに残念だ」
そして冷ややかな失望を最後に、美しい音色もまた消えた。
だからそこに残ったのは惨たらしい残骸だけ。
それと残酷のなか、まだ生きねばならない者たちだけ。