第20話 天国の地獄
文字数 2,233文字
「さーて、カナリアを待ってるうちに日がとっぷり暮れたわけだが」
時間軸は現代に戻る。
つまり外見年齢が二十七歳の〝ヤミ属執行者の頂点〟となって久しいヴァイスと、普段はヤミ属界で医師業に勤しむ外見年齢三十二歳のディル。
ふたりが〝天国の地獄〟特別任務のために某国へ降り立ち、カナリアにありったけの悪性を集めさせてきた現在だ。
ヴァイスはカナリアを己の肩に乗せ、腹を撫でて労いながら頷く。
「ずいぶん遅かったが、この大量の悪性なら納得だ。おかげで私たちを完全に覆えている。これなら〝天国の地獄〟も私たちの前に現れてくれるだろう」
「仮定が正しければ、だけどな。うへぇ、しかし悪性ってのは気分悪いぜ。やっぱり俺たちの肌には合わないもんだ」
ディルは嘆息しながら青みが勝り始めた夕焼け空の下を歩いている。
ヴァイスはその隣だ。依然としてディルは実体、ヴァイスは霊体であり、会話は念話を使っている。
カナリアを待っている間は都市の中心部で観光を兼ねつつ情報収集に勤しんでいたが、悪性をまとう今は中心部を離れ、人気のない場所を選んで闊歩していた。
〝天国の地獄〟に遭って行方不明になったとされる人物は失踪途中の目撃情報が一切ない。それゆえ、どこでどのように遭遇できるかも不明だった。
情報収集を続けてもその事実は動かなかった。ただ、目撃情報がないならば人気のない場所で起こっていると考えるのが自然だろう。
〝天国の地獄〟によって消えるのは単身で行動する旅行客や異国人が大多数だ。ひとり実体化しているディルはこれにも当てはまる。ならば現状考えられる限りの好条件が揃っている。
「……、」
時刻は紺碧の帳が下りたころ。
都市の外れも外れ、肉眼では自分以外誰もない路地裏を歩いていたディルは、前方の空間が歪み始めたことに気づいた。足を止めて歪みが大きくなっていく空間を見据える。
「ビンゴ」
読みが当たったのだとディルは確信した。ならばここからが任務本番ということだ。
〝天国の地獄〟に遭うと、当人にとって非常に魅力的なもの、渇望するものの幻がまず目の前に現れるらしい。
それに抗えず近づいたが最後、まるで初めから存在しなかったかのように消えるのだと。
無論ディルたちは〝天国と地獄〟を解決するためこの地へ下りた。ゆえに欲望のまま近づいてはいけない。まずは冷静な判断と観察眼が求められる。
「っエレンフォール……!」
だのに、傍らのヴァイスは一歩を踏み出しかけた。しかしディルはまるで予想していたかのようにヴァイスの前へ腕を伸ばし進行を阻んだ。ヴァイスは我に返る。
「……すまない。引っ張られかけた」
「大丈夫だ。そのための相棒だからな。むしろお前まで抗えきれないくらい〝天国の地獄〟には強制力があるって分かって収穫だ」
その面を覆うペストマスクがわずかにうつむく。
ディルはそれに気づかないふりをした。かけている黒縁メガネのツルに触れ、何やら操作すると左のグラス面が解析装置に変わる。
これは過去にディルがヤミ属医療用に開発したモノだが――〝メガネスコーピオン〟というダサい名前が付いている――こうして任務にも転用できるのだ。
「さらに情報収集させてくれ。お前には具体的に何が見えている?」
「……エレンフォールが、苦しんでいる。助けてくれと私に手を伸ばしている」
「なるほどな。何を犠牲にしてでも手に入れたいもの、その幻を見せるために悪性を利用してるのか。だが幻自体はただの釣り餌でしかない。地獄は天国の足もとにあるってことだ」
ディルがヴァイスの目線を促すと、ヴァイスも素直に幻の下方へ視線を移す。
「幻のすぐ下の石畳に穴が空いて抜け落ちたようになっているのか。しかも物理的な穴じゃない。階層に穴が空いているんだな」
「そうだ。階層の違いは薄皮一枚程度だが、落ちたらこつ然と失踪して戻ってこられないのにも合点がいく」
「……ディル。お前には何が見えている」
「ん?」
「お前にだって、幻が見えているんじゃないのか」
「いや? あいにく俺は常に満たされてるんでね」
――そう言って笑うディルの視線の先には、小さな薬瓶があった。
とはいえ外面だけではただの小瓶でしかない。しかしディルには薬瓶だという確信がある。そしてその瓶には今まで必死に追い求めてきた薬が入っているという確信――そんな幻影。
だが、ディルにはヴァイスにあったような強制力は働かなかった。軽々と視線を外し、傍らのヴァイスを見上げる。
「しかし、ここからだと穴の奥が詳しく解析できないな」
「ならば相手の思惑どおりに穴へ飛びこむしかないということだ」
「丁寧にやるなら外部から解析を進める方がいいんだが、結局そっちの方が手っ取り早いんだよな。まぁ色々大丈夫だろ。お前と俺だし」
「……お前は時々私のことを脳筋と言うが、お前も大概だぞ」
ディルに軽口を叩き返す余裕がヴァイスにも戻ってきたらしい。とはいえ幻を視界に収めるたびに一定の緊張感は発している。
それはそうだろう――ディルは思いつつ、ヴァイスを先導するように〝天国の地獄〟へと足を進めた。
ヴァイスは最初の一歩だけ遅れつつもすぐにディルの隣へ並ぶ。
「ヴァイス。待ち構えてるのが何であれすぐには討伐しないでくれ。合成キメラだった場合は一部を持ち帰りたい」
「了解した」
交わす言葉はそれくらいで、ふたりは同時に穴へ落ちた。途端、階層が自動的に降下する。
しかしそれだけではなかった。
「……、なんだこりゃ」
時間軸は現代に戻る。
つまり外見年齢が二十七歳の〝ヤミ属執行者の頂点〟となって久しいヴァイスと、普段はヤミ属界で医師業に勤しむ外見年齢三十二歳のディル。
ふたりが〝天国の地獄〟特別任務のために某国へ降り立ち、カナリアにありったけの悪性を集めさせてきた現在だ。
ヴァイスはカナリアを己の肩に乗せ、腹を撫でて労いながら頷く。
「ずいぶん遅かったが、この大量の悪性なら納得だ。おかげで私たちを完全に覆えている。これなら〝天国の地獄〟も私たちの前に現れてくれるだろう」
「仮定が正しければ、だけどな。うへぇ、しかし悪性ってのは気分悪いぜ。やっぱり俺たちの肌には合わないもんだ」
ディルは嘆息しながら青みが勝り始めた夕焼け空の下を歩いている。
ヴァイスはその隣だ。依然としてディルは実体、ヴァイスは霊体であり、会話は念話を使っている。
カナリアを待っている間は都市の中心部で観光を兼ねつつ情報収集に勤しんでいたが、悪性をまとう今は中心部を離れ、人気のない場所を選んで闊歩していた。
〝天国の地獄〟に遭って行方不明になったとされる人物は失踪途中の目撃情報が一切ない。それゆえ、どこでどのように遭遇できるかも不明だった。
情報収集を続けてもその事実は動かなかった。ただ、目撃情報がないならば人気のない場所で起こっていると考えるのが自然だろう。
〝天国の地獄〟によって消えるのは単身で行動する旅行客や異国人が大多数だ。ひとり実体化しているディルはこれにも当てはまる。ならば現状考えられる限りの好条件が揃っている。
「……、」
時刻は紺碧の帳が下りたころ。
都市の外れも外れ、肉眼では自分以外誰もない路地裏を歩いていたディルは、前方の空間が歪み始めたことに気づいた。足を止めて歪みが大きくなっていく空間を見据える。
「ビンゴ」
読みが当たったのだとディルは確信した。ならばここからが任務本番ということだ。
〝天国の地獄〟に遭うと、当人にとって非常に魅力的なもの、渇望するものの幻がまず目の前に現れるらしい。
それに抗えず近づいたが最後、まるで初めから存在しなかったかのように消えるのだと。
無論ディルたちは〝天国と地獄〟を解決するためこの地へ下りた。ゆえに欲望のまま近づいてはいけない。まずは冷静な判断と観察眼が求められる。
「っエレンフォール……!」
だのに、傍らのヴァイスは一歩を踏み出しかけた。しかしディルはまるで予想していたかのようにヴァイスの前へ腕を伸ばし進行を阻んだ。ヴァイスは我に返る。
「……すまない。引っ張られかけた」
「大丈夫だ。そのための相棒だからな。むしろお前まで抗えきれないくらい〝天国の地獄〟には強制力があるって分かって収穫だ」
その面を覆うペストマスクがわずかにうつむく。
ディルはそれに気づかないふりをした。かけている黒縁メガネのツルに触れ、何やら操作すると左のグラス面が解析装置に変わる。
これは過去にディルがヤミ属医療用に開発したモノだが――〝メガネスコーピオン〟というダサい名前が付いている――こうして任務にも転用できるのだ。
「さらに情報収集させてくれ。お前には具体的に何が見えている?」
「……エレンフォールが、苦しんでいる。助けてくれと私に手を伸ばしている」
「なるほどな。何を犠牲にしてでも手に入れたいもの、その幻を見せるために悪性を利用してるのか。だが幻自体はただの釣り餌でしかない。地獄は天国の足もとにあるってことだ」
ディルがヴァイスの目線を促すと、ヴァイスも素直に幻の下方へ視線を移す。
「幻のすぐ下の石畳に穴が空いて抜け落ちたようになっているのか。しかも物理的な穴じゃない。階層に穴が空いているんだな」
「そうだ。階層の違いは薄皮一枚程度だが、落ちたらこつ然と失踪して戻ってこられないのにも合点がいく」
「……ディル。お前には何が見えている」
「ん?」
「お前にだって、幻が見えているんじゃないのか」
「いや? あいにく俺は常に満たされてるんでね」
――そう言って笑うディルの視線の先には、小さな薬瓶があった。
とはいえ外面だけではただの小瓶でしかない。しかしディルには薬瓶だという確信がある。そしてその瓶には今まで必死に追い求めてきた薬が入っているという確信――そんな幻影。
だが、ディルにはヴァイスにあったような強制力は働かなかった。軽々と視線を外し、傍らのヴァイスを見上げる。
「しかし、ここからだと穴の奥が詳しく解析できないな」
「ならば相手の思惑どおりに穴へ飛びこむしかないということだ」
「丁寧にやるなら外部から解析を進める方がいいんだが、結局そっちの方が手っ取り早いんだよな。まぁ色々大丈夫だろ。お前と俺だし」
「……お前は時々私のことを脳筋と言うが、お前も大概だぞ」
ディルに軽口を叩き返す余裕がヴァイスにも戻ってきたらしい。とはいえ幻を視界に収めるたびに一定の緊張感は発している。
それはそうだろう――ディルは思いつつ、ヴァイスを先導するように〝天国の地獄〟へと足を進めた。
ヴァイスは最初の一歩だけ遅れつつもすぐにディルの隣へ並ぶ。
「ヴァイス。待ち構えてるのが何であれすぐには討伐しないでくれ。合成キメラだった場合は一部を持ち帰りたい」
「了解した」
交わす言葉はそれくらいで、ふたりは同時に穴へ落ちた。途端、階層が自動的に降下する。
しかしそれだけではなかった。
「……、なんだこりゃ」