第2話 蝕
文字数 2,495文字
目を覚ましたとはいえ、彼はもう瀕死だ。以前の戦闘によって深手を負った外殻は権能〝水〟を用いて完治させている。しかし中身はそうもいかなかったのだ。
権能〝断罪〟で真っ向から打ち砕かれた神核片は、もうひとつの権能〝傀儡の糸〟で縫い合わせて表面上の体裁を保っているだけだった。その糸も砕けた神核片から作り上げたものとあればすぐ切れる。
ゆえにその都度繋ぎ直す。傍らを流れる汚水で補強しながら――もはや彼は堕ちるところまで堕ちたのだ。
「あ、アぁ……ぐ、ぅ……」
青が咲いたということは意識を取り戻したということだ。己を己だと認識し直し、五感を取り戻したということだ。
覚醒と同時にこぼれた苦鳴。臓物をすりつぶすがごとき音色は水の濁流音に隠され、ドクドクと流れ続ける血の涙もこの闇では誰にも認識されない。
堕ちきった彼は自ら発光することもない。この場所には彼以外誰も存在しない。とあれば、その存在は既に無に等しい。
だが咲いた青空が、光を取り戻した彼の双眸だけが彼の存在をここに繋ぎ止めていた。もっとも、それだって風前の灯ではあったが。
「ぐ、ぅ……ぅ、う……ウぁア、ア……」
己を取り戻した彼に待っていたものはさらなる苦だった。白首に刻まれた三本の禁忌の烙印が、赤黒く発光しながらギリギリと彼の首を絞り上げている。
このような所業に見舞われるほどのことを彼は犯したというのだろうか。
応。彼は大罪者であった。
ひとつ、〝堕天の子〟である。
ひとつ、仲間だった三名を無惨に殺した。
ひとつ、過去に己を救った弟分を死の一歩手前まで害した。
ひとつ、ただの人間に〝混血の禁忌〟を犯した。
ゆえにこの辛苦は自業自得であった。禁忌の烙印はまるで自害を急かすように彼の首を締め尽くす。しかし、彼を何より追いつめるのはそれではなかった。
「は、はぁ、は、あ、ぁ、……」
――声が聞こえる。慈愛に満ちた声が聞こえる。
「ふ、うぅウ、コ……ロセ、コロセ……あ、する……コロ、セ……」
瞬間、ぐら、と碧眼が再び閉ざされそうになって。
〝シエル〟
しかし脳裏にひらめいたその声でハッと光を取り戻す。同時に思い返されるのは幼いころの記憶。
『うぅ、いたい、いたい……!』
『シ、シエル!? どうしたの、どこが痛いの!?』
それは深夜、同じベッドで眠っていたときのこと。背中のあたりが唐突に痛くなって、熱くなって、弾けたゴムのように背を丸めたのだ。
あまりの苦しみに何も答えられないでいると、弟は不安げな表情を浮かべながらも必死に声をかけ撫でてくれた。
自分の一部が失われるような心地が怖くて、縋るように手を伸ばせば力いっぱい抱きしめてくれた。痛いくらいだった。
普段は弱虫、泣き虫で、意気地なし。そのときだって彼以上に涙をためていた。なのにその腕のなかは温かくて、妙に頼もしくて。
「ッ――!」
だから双眸は抗う。今にも途切れそうな意識を寄り集めて、血の涙をボタボタとこぼし、唇を噛みしめながら。
だが〝それ〟はそんな彼の懸命さをあざ笑うのだ。内から湧き上がってくる狂おしい衝動はさらに苛んでくるのだ。
『――シエル。知らないヤミに因縁つけられたって本当か』
『あー……誰かから聞いたのか? さっきエンラ様の呼びつけから帰ってきたときに少しな。
〝堕天の子〟がヤミ属の執行者になったのがカンにさわったんだろ。でも別に大したことじゃねぇよ』
ヒカリながらヤミ属界に身を置くこととなった彼を、大抵のヤミは快く受け入れた。しかし大罪を犯し紋翼をもがれた〝堕天の子〟を嫌悪するヤミもゼロではなかった。
さらにヤミ属執行者にまでなったとあれば、ヤミ属の誇りを汚されたと思う者まで出てきた。
『大したこと、ある。石を投げられて腕に当たったんだろ』
『まぁそうだけど……こんなのすぐ治る』
ヒカリであるがゆえか。そういう暗い思いが手に取るように分かってしまったからこそ、そして実害が及ぶであろうことを予測できたからこそ、今回だけは適当な理由をつけ単独で外出した。しかし他の者から伝わってしまったなら作戦は失敗だ。
『……悪い。俺もついていけば良かった』
『大丈夫だって。なんでオマエが謝るんだよ』
『……』
『言っとくけどさ。オレ本気でこんなの痛くもかゆくもねぇんだよ。でも、オマエがオレのことで苦しむのは痛くてたまんねぇの。だから気にしないでくれよ』
『……』
『もしオマエが笑ってくれたら、オレはさっきのこともすぐ忘れるし傷も一瞬で治るよ』
『……っ』
『ぷっ、はは、ははははは! なんだよその顔。全然笑えてねーじゃん!』
『な、笑うことないだろ……!』
こらえきれず腹を抱えて笑った。すると段々と笑顔まがいの顔が本当の笑顔になってくる。
しまいにはふたりで意味もなく笑い合った。年ごろになってきたせいか最近妙に素っ気なくなった弟の貴重な笑顔だ。
だから少しだけ苦いけれど幸せな記憶。本当は心配してもらえて嬉しかった思い出。
「! は、はぁ――」
ゆえにまた我に返ることができて、そしてだからこそ現実を目の当たりにする。
真っ暗な汚濁のなか自業自得に苛まれる現実を。何度も何度も襲ってくる残酷な慈愛の声を。
「うぅ……ぅううう……グうッ、ハ、ハァッ……たまる、か……死んで、たまるかよ……」
かすれた声で紡ぐそれは虚勢でしかない。終わりは刻一刻と近づいてきていた。
すべてはもはや限界だった。抗う力はとうに尽き、気力だけが彼の双眸に光を灯らせている。
すべてを終わらせる権能〝断罪〟はそれほどの威力だった。かつて弱虫で、泣き虫で、意気地なしだった弟は本当に強くなった。
「く、く……ぜったいに、ころす……殺して、やる……待ってろ……」
だが、だが。だからこそ死ぬわけにはいかない。ここで終わるわけにはいけない。
何故なら彼には成すべきことがあった。重ねてきた執念をなかったことにはできなかった。ここで無様に死ぬわけにはいかなかった。
殺さなければ。跡形も残らず。
その心に宿るのは鋭利な氷のごとき殺意。炎とは真逆の冷徹な愛と慈愛。
――だが。己を認識できたのはそこまでだった。
権能〝断罪〟で真っ向から打ち砕かれた神核片は、もうひとつの権能〝傀儡の糸〟で縫い合わせて表面上の体裁を保っているだけだった。その糸も砕けた神核片から作り上げたものとあればすぐ切れる。
ゆえにその都度繋ぎ直す。傍らを流れる汚水で補強しながら――もはや彼は堕ちるところまで堕ちたのだ。
「あ、アぁ……ぐ、ぅ……」
青が咲いたということは意識を取り戻したということだ。己を己だと認識し直し、五感を取り戻したということだ。
覚醒と同時にこぼれた苦鳴。臓物をすりつぶすがごとき音色は水の濁流音に隠され、ドクドクと流れ続ける血の涙もこの闇では誰にも認識されない。
堕ちきった彼は自ら発光することもない。この場所には彼以外誰も存在しない。とあれば、その存在は既に無に等しい。
だが咲いた青空が、光を取り戻した彼の双眸だけが彼の存在をここに繋ぎ止めていた。もっとも、それだって風前の灯ではあったが。
「ぐ、ぅ……ぅ、う……ウぁア、ア……」
己を取り戻した彼に待っていたものはさらなる苦だった。白首に刻まれた三本の禁忌の烙印が、赤黒く発光しながらギリギリと彼の首を絞り上げている。
このような所業に見舞われるほどのことを彼は犯したというのだろうか。
応。彼は大罪者であった。
ひとつ、〝堕天の子〟である。
ひとつ、仲間だった三名を無惨に殺した。
ひとつ、過去に己を救った弟分を死の一歩手前まで害した。
ひとつ、ただの人間に〝混血の禁忌〟を犯した。
ゆえにこの辛苦は自業自得であった。禁忌の烙印はまるで自害を急かすように彼の首を締め尽くす。しかし、彼を何より追いつめるのはそれではなかった。
「は、はぁ、は、あ、ぁ、……」
――声が聞こえる。慈愛に満ちた声が聞こえる。
「ふ、うぅウ、コ……ロセ、コロセ……あ、する……コロ、セ……」
瞬間、ぐら、と碧眼が再び閉ざされそうになって。
〝シエル〟
しかし脳裏にひらめいたその声でハッと光を取り戻す。同時に思い返されるのは幼いころの記憶。
『うぅ、いたい、いたい……!』
『シ、シエル!? どうしたの、どこが痛いの!?』
それは深夜、同じベッドで眠っていたときのこと。背中のあたりが唐突に痛くなって、熱くなって、弾けたゴムのように背を丸めたのだ。
あまりの苦しみに何も答えられないでいると、弟は不安げな表情を浮かべながらも必死に声をかけ撫でてくれた。
自分の一部が失われるような心地が怖くて、縋るように手を伸ばせば力いっぱい抱きしめてくれた。痛いくらいだった。
普段は弱虫、泣き虫で、意気地なし。そのときだって彼以上に涙をためていた。なのにその腕のなかは温かくて、妙に頼もしくて。
「ッ――!」
だから双眸は抗う。今にも途切れそうな意識を寄り集めて、血の涙をボタボタとこぼし、唇を噛みしめながら。
だが〝それ〟はそんな彼の懸命さをあざ笑うのだ。内から湧き上がってくる狂おしい衝動はさらに苛んでくるのだ。
『――シエル。知らないヤミに因縁つけられたって本当か』
『あー……誰かから聞いたのか? さっきエンラ様の呼びつけから帰ってきたときに少しな。
〝堕天の子〟がヤミ属の執行者になったのがカンにさわったんだろ。でも別に大したことじゃねぇよ』
ヒカリながらヤミ属界に身を置くこととなった彼を、大抵のヤミは快く受け入れた。しかし大罪を犯し紋翼をもがれた〝堕天の子〟を嫌悪するヤミもゼロではなかった。
さらにヤミ属執行者にまでなったとあれば、ヤミ属の誇りを汚されたと思う者まで出てきた。
『大したこと、ある。石を投げられて腕に当たったんだろ』
『まぁそうだけど……こんなのすぐ治る』
ヒカリであるがゆえか。そういう暗い思いが手に取るように分かってしまったからこそ、そして実害が及ぶであろうことを予測できたからこそ、今回だけは適当な理由をつけ単独で外出した。しかし他の者から伝わってしまったなら作戦は失敗だ。
『……悪い。俺もついていけば良かった』
『大丈夫だって。なんでオマエが謝るんだよ』
『……』
『言っとくけどさ。オレ本気でこんなの痛くもかゆくもねぇんだよ。でも、オマエがオレのことで苦しむのは痛くてたまんねぇの。だから気にしないでくれよ』
『……』
『もしオマエが笑ってくれたら、オレはさっきのこともすぐ忘れるし傷も一瞬で治るよ』
『……っ』
『ぷっ、はは、ははははは! なんだよその顔。全然笑えてねーじゃん!』
『な、笑うことないだろ……!』
こらえきれず腹を抱えて笑った。すると段々と笑顔まがいの顔が本当の笑顔になってくる。
しまいにはふたりで意味もなく笑い合った。年ごろになってきたせいか最近妙に素っ気なくなった弟の貴重な笑顔だ。
だから少しだけ苦いけれど幸せな記憶。本当は心配してもらえて嬉しかった思い出。
「! は、はぁ――」
ゆえにまた我に返ることができて、そしてだからこそ現実を目の当たりにする。
真っ暗な汚濁のなか自業自得に苛まれる現実を。何度も何度も襲ってくる残酷な慈愛の声を。
「うぅ……ぅううう……グうッ、ハ、ハァッ……たまる、か……死んで、たまるかよ……」
かすれた声で紡ぐそれは虚勢でしかない。終わりは刻一刻と近づいてきていた。
すべてはもはや限界だった。抗う力はとうに尽き、気力だけが彼の双眸に光を灯らせている。
すべてを終わらせる権能〝断罪〟はそれほどの威力だった。かつて弱虫で、泣き虫で、意気地なしだった弟は本当に強くなった。
「く、く……ぜったいに、ころす……殺して、やる……待ってろ……」
だが、だが。だからこそ死ぬわけにはいかない。ここで終わるわけにはいけない。
何故なら彼には成すべきことがあった。重ねてきた執念をなかったことにはできなかった。ここで無様に死ぬわけにはいかなかった。
殺さなければ。跡形も残らず。
その心に宿るのは鋭利な氷のごとき殺意。炎とは真逆の冷徹な愛と慈愛。
――だが。己を認識できたのはそこまでだった。