第9話 楽しみの終わりに
文字数 2,732文字
そんなわけでファッションビルを出るころの空は橙に染まっており、ファミリーレストランで談笑しながら夕食を摂り終えればすっかり紺碧の帳に覆われていた。そろそろヤミ属界に帰還しなくてはならない頃合いだ。
「はー、今日はすごく満喫したなぁ……」
ギラつく大通りを四名でまた闊歩しながら響は吐息をつく。
ものすごい充足感だ。それは単純に生物としての存在養分が満たされたことによるものなのかも知れない。
しかし思い入れのある場所を楽しく歩けたのだ、心が満たされたのもあるだろう。
ヤミ属界は住みよい場所であるものの、今も半分は生物である響にとって生物界、特に故郷である東京は特別で忘れられない場所なのだ。
「本当に満喫できましたか? ほぼキララの買い物に付き合っただけだったのに」
響の言葉が引っかかったのか、ルリハは胡乱げな顔で響の方へ身を乗り出してきた。
「満喫しましたよ。ああいうところ、ほとんど入ったことがなかったので楽しかったです」
「そう。奇特なのね」
「えへへ、響クンは優しいな~! 元から好きだけど、大大大好きになっちゃいそう♡」
「は、はう……」
満面の笑みを浮かべたキララが響の腕を抱きしめてきて、腕の一部に当たる柔らかな感触と骨が折れる危機感にまた変な声が漏れてしまう。
キララは本当にカワイイ。色んな意味で幸せだ。だが気恥ずかしい。響は慌てて反対側の傍らを歩くアスカを見上げた。
「ア、アスカ君も気分転換になったかな?」
「……そうだな。お前の表情が明るくなったのを見て安心した」
ぼそ、と相変わらず無愛想な様子でそれだけ返してくる。
質問の答えになっていない気はするが、思えば今回の生物界訪問は、生物としての存在養分摂取の他に〝悪魔神ウル〟討伐任務で気落ちした響を元気にする、というアスカの望みもあった。
ならば生物の――人の営みを目の当たりにし、元気を取り戻した響を見て安心できた、というのはアスカにとっても悪いことではないだろう。だから響もまた胸を撫でおろす。
こうして大通りを進んでいるのは繁華街を抜けて人気のない場所に向かうためだ。人気のない場所に向かうのは紋翼を展開してヤミ属界へ戻るためだった。
正直、帰還するのが惜しい。本当に良い休暇だった――響はそんなことを思いながら、未練を引きずるように周囲を大きく見渡した。
「……、」
そしてすぐ、ある一点に目が留まる。
繁華街のかたすみ、古ビルの外付け階段に広がって座る集団。そこに混ざるよく見知った顔に。
「響クンどうしたのー?」
ふと足を止めた響を振り返ったキララが問うてきた。だがそれにも返事ができない。
色とりどりの髪とファッション。酒缶を転がし、ゴミを周囲に投げ捨て、ギャハハと喧騒にも負けない笑い声を響かせる彼ら――そのなかにいるのは妹だった乃絵莉だから。
乃絵莉は〝窓〟で眺め続けてきたとおり様変わりをしていた。
金に近いほど明るい茶髪。きつい化粧をし、露出の多い服装をして隣に座る男に肩を抱かれている。
その顔はぎこちない笑みを浮かべ、首は誰かが喋るごとにコクコクとしきりに頷くばかりだ。
「知り合いですか?」
だから響は思わず乃絵莉に向かって一歩を踏み出しかける。しかしルリハが鋭く声をかけてきて我に返った。足を引き、頭を掻いて苦笑する。
「あー……えっと。妹……妹だった子がいて、ちょっと」
「え、見たーい♡ 響クンの妹なんて絶対カワイイに決まってるもん!」
キララが近づいてきた。そうして響の視線を追うように意気揚々と動く。しかし一呼吸のあとでその細い首は傾げられ、戻ってきた視線はまた響の視線を追う。
「あの微妙に馴染めていない子でしょう」
「そうです。ルリハさん、よく分かりますね」
「的を射るのは得意なの」
「……この短期間でずいぶん変わったな」
アスカもまた響の傍らでぼそりと言う。
彼は〝魂魄執行〟で響の命を狙った折に純朴だった乃絵莉も見ているはずなので、それゆえに出てきた言葉だろう。
「あの子が響クンの妹ちゃんだった子かぁ。ちょっと意外かも。すごくカワイイのは意外じゃないけどさ、もうちょっとこう、響クンの女の子版みたいなの想像してた~」
「あんた安直すぎない?」
「ルリハうーるーさーいー」
「……でも、確かに最近の乃絵莉は一気に変わった気がするんです」
軽いケンカが始まろうとしていたところで響は言う。視線は未だ乃絵莉に注がれている。
「僕がまだそばにいたころの乃絵莉は、人懐こくて、優しくて、素直で、志望校に合格したいからって勉強しすぎて体調を崩しちゃうような真面目な子でした」
響が立っている地点は乃絵莉のいる集団からは死角だ。
だから凝視していても因縁をつけられることはないが、万が一気づかれてしまえばただでは済まされないように見えた。どう考えても響の知る乃絵莉には似つかわしくない。
「最近は見た目も友だち関係もすごく変わって、大好きだったはずのじいちゃんやばあちゃんにも強く当たるようになって……どうしたんだろうって、心配してるんです」
「あ、そっか。響クンは〝窓〟を貸し与えられてるから生物界を好きなときに見られるんだっけ」
「人間は二次性徴のあたりで反抗期になったりするんでしょう。そのせいじゃないのかしら」
「多分そうなんだと思います。きっと性根は変わってないし、長い目で見れば笑い話になるのかも知れません。
でも……じいちゃんばあちゃんに怒鳴ったり財布からお金を抜き取ったりするのは、見ていられなくて」
「……それは……確かに響クンの立場だと苦しいね」
「僕たち、じいちゃんとばあちゃんに育てられてさ。お母さんは乃絵莉を生んだときに死んじゃって。
お父さんはお母さんが亡くなってから自暴自棄になって、悪いことした挙げ句突然行方不明になって……残された僕たちを一生懸命育ててくれたのがじいちゃんとばあちゃんだから――」
「待って」
ふと切れ味鋭い声に止められて、響は反射的に乃絵莉から声の主へ視線を移した。
するとそこにはルリハではなくキララ。彼女は今の今まで漂わせていた可憐な雰囲気を消していた。
響はもちろん狼狽える。
「ど、どうしたの突然?」
「話切っちゃってゴメンね。でもちょっと質問。響クンのお父さんて結構ワルい人だった感じ?」
突拍子のない質問に響は鼻白みつつも口を開く。
「えっ……た、多分? 僕自身は顔も覚えてないから親戚の人たちが話してるのを偶然聞いたくらいだけど……自暴自棄になってからは怖い人たちとつるんでお酒とギャンブルに溺れてたみたいだし、暴力癖もあったらしいよ」
「行方不明になったってどんなふうにか分かる?」
「分からない。でも、本当に突然だったみたいだ」
「……」
「……」
「はー、今日はすごく満喫したなぁ……」
ギラつく大通りを四名でまた闊歩しながら響は吐息をつく。
ものすごい充足感だ。それは単純に生物としての存在養分が満たされたことによるものなのかも知れない。
しかし思い入れのある場所を楽しく歩けたのだ、心が満たされたのもあるだろう。
ヤミ属界は住みよい場所であるものの、今も半分は生物である響にとって生物界、特に故郷である東京は特別で忘れられない場所なのだ。
「本当に満喫できましたか? ほぼキララの買い物に付き合っただけだったのに」
響の言葉が引っかかったのか、ルリハは胡乱げな顔で響の方へ身を乗り出してきた。
「満喫しましたよ。ああいうところ、ほとんど入ったことがなかったので楽しかったです」
「そう。奇特なのね」
「えへへ、響クンは優しいな~! 元から好きだけど、大大大好きになっちゃいそう♡」
「は、はう……」
満面の笑みを浮かべたキララが響の腕を抱きしめてきて、腕の一部に当たる柔らかな感触と骨が折れる危機感にまた変な声が漏れてしまう。
キララは本当にカワイイ。色んな意味で幸せだ。だが気恥ずかしい。響は慌てて反対側の傍らを歩くアスカを見上げた。
「ア、アスカ君も気分転換になったかな?」
「……そうだな。お前の表情が明るくなったのを見て安心した」
ぼそ、と相変わらず無愛想な様子でそれだけ返してくる。
質問の答えになっていない気はするが、思えば今回の生物界訪問は、生物としての存在養分摂取の他に〝悪魔神ウル〟討伐任務で気落ちした響を元気にする、というアスカの望みもあった。
ならば生物の――人の営みを目の当たりにし、元気を取り戻した響を見て安心できた、というのはアスカにとっても悪いことではないだろう。だから響もまた胸を撫でおろす。
こうして大通りを進んでいるのは繁華街を抜けて人気のない場所に向かうためだ。人気のない場所に向かうのは紋翼を展開してヤミ属界へ戻るためだった。
正直、帰還するのが惜しい。本当に良い休暇だった――響はそんなことを思いながら、未練を引きずるように周囲を大きく見渡した。
「……、」
そしてすぐ、ある一点に目が留まる。
繁華街のかたすみ、古ビルの外付け階段に広がって座る集団。そこに混ざるよく見知った顔に。
「響クンどうしたのー?」
ふと足を止めた響を振り返ったキララが問うてきた。だがそれにも返事ができない。
色とりどりの髪とファッション。酒缶を転がし、ゴミを周囲に投げ捨て、ギャハハと喧騒にも負けない笑い声を響かせる彼ら――そのなかにいるのは妹だった乃絵莉だから。
乃絵莉は〝窓〟で眺め続けてきたとおり様変わりをしていた。
金に近いほど明るい茶髪。きつい化粧をし、露出の多い服装をして隣に座る男に肩を抱かれている。
その顔はぎこちない笑みを浮かべ、首は誰かが喋るごとにコクコクとしきりに頷くばかりだ。
「知り合いですか?」
だから響は思わず乃絵莉に向かって一歩を踏み出しかける。しかしルリハが鋭く声をかけてきて我に返った。足を引き、頭を掻いて苦笑する。
「あー……えっと。妹……妹だった子がいて、ちょっと」
「え、見たーい♡ 響クンの妹なんて絶対カワイイに決まってるもん!」
キララが近づいてきた。そうして響の視線を追うように意気揚々と動く。しかし一呼吸のあとでその細い首は傾げられ、戻ってきた視線はまた響の視線を追う。
「あの微妙に馴染めていない子でしょう」
「そうです。ルリハさん、よく分かりますね」
「的を射るのは得意なの」
「……この短期間でずいぶん変わったな」
アスカもまた響の傍らでぼそりと言う。
彼は〝魂魄執行〟で響の命を狙った折に純朴だった乃絵莉も見ているはずなので、それゆえに出てきた言葉だろう。
「あの子が響クンの妹ちゃんだった子かぁ。ちょっと意外かも。すごくカワイイのは意外じゃないけどさ、もうちょっとこう、響クンの女の子版みたいなの想像してた~」
「あんた安直すぎない?」
「ルリハうーるーさーいー」
「……でも、確かに最近の乃絵莉は一気に変わった気がするんです」
軽いケンカが始まろうとしていたところで響は言う。視線は未だ乃絵莉に注がれている。
「僕がまだそばにいたころの乃絵莉は、人懐こくて、優しくて、素直で、志望校に合格したいからって勉強しすぎて体調を崩しちゃうような真面目な子でした」
響が立っている地点は乃絵莉のいる集団からは死角だ。
だから凝視していても因縁をつけられることはないが、万が一気づかれてしまえばただでは済まされないように見えた。どう考えても響の知る乃絵莉には似つかわしくない。
「最近は見た目も友だち関係もすごく変わって、大好きだったはずのじいちゃんやばあちゃんにも強く当たるようになって……どうしたんだろうって、心配してるんです」
「あ、そっか。響クンは〝窓〟を貸し与えられてるから生物界を好きなときに見られるんだっけ」
「人間は二次性徴のあたりで反抗期になったりするんでしょう。そのせいじゃないのかしら」
「多分そうなんだと思います。きっと性根は変わってないし、長い目で見れば笑い話になるのかも知れません。
でも……じいちゃんばあちゃんに怒鳴ったり財布からお金を抜き取ったりするのは、見ていられなくて」
「……それは……確かに響クンの立場だと苦しいね」
「僕たち、じいちゃんとばあちゃんに育てられてさ。お母さんは乃絵莉を生んだときに死んじゃって。
お父さんはお母さんが亡くなってから自暴自棄になって、悪いことした挙げ句突然行方不明になって……残された僕たちを一生懸命育ててくれたのがじいちゃんとばあちゃんだから――」
「待って」
ふと切れ味鋭い声に止められて、響は反射的に乃絵莉から声の主へ視線を移した。
するとそこにはルリハではなくキララ。彼女は今の今まで漂わせていた可憐な雰囲気を消していた。
響はもちろん狼狽える。
「ど、どうしたの突然?」
「話切っちゃってゴメンね。でもちょっと質問。響クンのお父さんて結構ワルい人だった感じ?」
突拍子のない質問に響は鼻白みつつも口を開く。
「えっ……た、多分? 僕自身は顔も覚えてないから親戚の人たちが話してるのを偶然聞いたくらいだけど……自暴自棄になってからは怖い人たちとつるんでお酒とギャンブルに溺れてたみたいだし、暴力癖もあったらしいよ」
「行方不明になったってどんなふうにか分かる?」
「分からない。でも、本当に突然だったみたいだ」
「……」
「……」