第15話 聖人向かうは
文字数 2,824文字
「さすがにもう終わっただろうと思いたいが、肝心のヴァイスはまだ帰ってこねぇ。ったく、何だってんだよ……」
月が大量の雲にむせかえり、界隈がいっそう闇を濃くするなかでディルは毒づいた。そうでもしないと胸のモヤモヤから目を逸らせそうになかったからだ。
一度己の任務へ戻ったディルだったが、一向に帰還してこないヴァイスの様子を見るために二日後の今日、再びこの地へ降り立ったのが現在だ。
これまでどんな任務も文字どおり一瞬で終わらせてきたヴァイス。そんな彼が易しい〝魂魄執行〟に時間を食われている理由――神核片を活性化させてなお執行しなかった理由を、ディルはこれまでずっと考えていた。
「確かに珍しいよ、契約寿命を過ぎてもねぇのに執行するケースは。執行対象が生に執着してねぇのも。だから狼狽えて執行できないってか? まさかな」
大抵の場合、〝魂魄執行〟とは生前に契約した寿命を反故して生き続ける者の命を強制的に終わらせる仕事だ。しかし今回は違う。エレンフォールはまだ寿命を超えていなかった。
加えてエレンフォールはヴァイスを〝死神〟と認識しながらも恐れず、『目的を遂げたならすぐに心臓を捧げる』と言った。『またお会いしたかった』とも言った。ヴァイスの来訪を待ち望んですらいた。
かなりのレアケースだ。しかしだからといってあのヴァイスが躊躇する理由にはなり得ない。そのはずなのだ。
「〝原初返り〟してるから……? そんなわけねぇか」
生物は天地の狭間の子、つまり天たるヒカリ神と地たるヤミ神の子どもである。
最初期の原初生物は神の血が濃く、神に近い潜在能力を持っていたという。しかし生物が何十億と生き死にを繰り返すなかで、神の血は限りなく薄くなっていった。今ではほぼゼロといっても過言でないほどに薄い。
だが、ごくまれに神の血が一際濃い生物が生まれることがある。これをヤミ属やヒカリ属は〝原初返り〟と呼ぶ。
〝原初返り〟のある生物は霊体が見える、天気を変えられる、テレパシーを使えるなど特異能力を備えていることが多かった。
霊体のヴァイスを視認したことから鑑みても、エレンフォールは確実に〝原初返り〟の個体だ。彼の場合はさらに治癒の能力という形で表出したのだろう。
だが、これだって執行しない理由とするには弱い。
「……実はあの治癒の能力に罪科獣が絡んでて、執行のタイミングを見計らってるとか? だがその場合は〝罪科獣執行〟の指名勅令も下りるはずだし、それこそヴァイスなら一瞬だよな」
何百年何千年と生きながらえて高次存在に成り上がった罪科獣は神に近い雰囲気と力を有するようになる。
そういった罪科獣は生物へ奇跡的な力を与えたりする。ただの気まぐれなこともあるが、大抵は下心があってのことだ。
しかし今回は〝罪科獣執行〟の指名勅令が出ていない。エレンフォールの能力が罪科獣によるものならば、エレンフォールが観測された時点で罪科獣も観測されているはずなのだ。
だからエレンフォールの持つ治癒の能力は罪科獣によるものではなく〝原初返り〟によるものだろう、というのがディルの見解だ。
「……どんなにしろ、生物には出過ぎた力だ。治癒の力なんか持ったせいで、苦しむ人間を助けたせいで、エレンフォールは寿命の契約をたくさん破らせるなんて罪を犯すことになっちまった」
一見善良に見えるエレンフォール。彼に〝魂魄執行〟が下ったのは、他者の契約寿命を強制反故させたのが理由に違いない。
エレンフォールの行いが生物の目から見れば尊い善行だとしても、神の目線から見れば悪行、大罪だ。契約寿命を破らせるということは、魂魄を汚し歪ませることと同義なのだから。
「だからこそ早く執行しなくちゃならねぇのによ……」
ディルはぼそりと言う。
今の状況を続けることは誰の得にもならない。良かれと思って他者を救うエレンフォールは確かに不憫だが、既に大罪を犯してしまった彼は執行を免れない。
まさかヴァイスはそれを気に病んでいるのか?
否、あり得ないとディルは心中で否定する。だから他の理由を見つけようとするも、あらゆる可能性を探し終えている彼の頭には新しい理由など浮かんでこない。
「……くそっ」
ディルは悪態をついて考えを振り払った。
イスマの邸宅へ到着し、エレンフォールが幽閉されている二階の部屋へ気配を殺しながら侵入したディルだったが、そこはモヌケの空であった。
ヴァイスはおろかエレンフォールもいない。この部屋と他をつなぐ出入り口は一階奥にある金属製の分厚いドアのみだが、その前には常に兵士が置かれていたはずだ。
しかし当の兵士は自分がモヌケの空を守っていることなど知るよしもない顔をしている。
「っ、気配が遠のいてる?」
意識を集中させると、先刻はもう少し近くに感じられたヤミ属の――つまりヴァイスの気配が遠くへ動いていくのが分かった。
ディルは急いでそれを追いかける。まさかエレンフォールを逃しているのかと、そんなことを考えてしまったからだ。
程なくしてヴァイスは見つかった。イスマ邸宅の眼下、荒涼とした街の外れも外れ。そこに霊体のままひっそりと佇んでいた。ディルは再び気配を殺しながら様子をうかがう。
街全体が壊滅に等しかったものの、この界隈はさらに悲惨な状態だ。
戦の爪痕も色濃いが、元から被差別階級が暮らしていた場所だったのだろう、生気のなさ陰鬱さ粗末さ――どれと取っても他よりずっとひどい。
一体何故こんな場所にと思ったのも束の間、ディルは気づく。エレンフォールも一緒だったことに。彼はヴァイスの数歩先に、背を向けるカタチでひざまずいていた。
「ありがとう、ヴァイス。俺一人では絶対にあの部屋を出られなかったから」
そう言うエレンフォールは、傷つき果てたボロキレのような人間の前で治癒を施している最中だった。
「イスマは俺を絶対に外に出したくないみたいでね。前、街の人々の傷を癒やしたいって言ったときは取りつく島もなかったんだ」
「……そうか」
二日前は確かに敬語だったはずだが、今のエレンフォールの口調はくだけていた。
ヴァイスもそれに低い声で応じている。ディルが様子を見に来られなかった二日間に彼らの間で何か変化があったらしい。
ディルがその事実に形容できないものを感じているうちに、エレンフォールの治癒を受けていた者がすっかり回復し、何度も感謝を述べる。
この場に似つかわしくない歓喜の声につられたか、今度は物陰からひっそりとエレンフォールの行いを見ていた他の者たちがおずおずと出てきた。
「あ、あなたは本当に……神の子エレンフォール、で?」
「どんな傷も治癒するという、あの?」
「何故このようなところに……ああでも」
「どうか、お救いください。『膿んだ傷が痛い』と泣きわめくこともできなくなった我が子を」
「兵の鬱憤晴らしで殴られ尽くした姉を」
「腐りながら死を待つばかりのおじい様を、どうか」
月が大量の雲にむせかえり、界隈がいっそう闇を濃くするなかでディルは毒づいた。そうでもしないと胸のモヤモヤから目を逸らせそうになかったからだ。
一度己の任務へ戻ったディルだったが、一向に帰還してこないヴァイスの様子を見るために二日後の今日、再びこの地へ降り立ったのが現在だ。
これまでどんな任務も文字どおり一瞬で終わらせてきたヴァイス。そんな彼が易しい〝魂魄執行〟に時間を食われている理由――神核片を活性化させてなお執行しなかった理由を、ディルはこれまでずっと考えていた。
「確かに珍しいよ、契約寿命を過ぎてもねぇのに執行するケースは。執行対象が生に執着してねぇのも。だから狼狽えて執行できないってか? まさかな」
大抵の場合、〝魂魄執行〟とは生前に契約した寿命を反故して生き続ける者の命を強制的に終わらせる仕事だ。しかし今回は違う。エレンフォールはまだ寿命を超えていなかった。
加えてエレンフォールはヴァイスを〝死神〟と認識しながらも恐れず、『目的を遂げたならすぐに心臓を捧げる』と言った。『またお会いしたかった』とも言った。ヴァイスの来訪を待ち望んですらいた。
かなりのレアケースだ。しかしだからといってあのヴァイスが躊躇する理由にはなり得ない。そのはずなのだ。
「〝原初返り〟してるから……? そんなわけねぇか」
生物は天地の狭間の子、つまり天たるヒカリ神と地たるヤミ神の子どもである。
最初期の原初生物は神の血が濃く、神に近い潜在能力を持っていたという。しかし生物が何十億と生き死にを繰り返すなかで、神の血は限りなく薄くなっていった。今ではほぼゼロといっても過言でないほどに薄い。
だが、ごくまれに神の血が一際濃い生物が生まれることがある。これをヤミ属やヒカリ属は〝原初返り〟と呼ぶ。
〝原初返り〟のある生物は霊体が見える、天気を変えられる、テレパシーを使えるなど特異能力を備えていることが多かった。
霊体のヴァイスを視認したことから鑑みても、エレンフォールは確実に〝原初返り〟の個体だ。彼の場合はさらに治癒の能力という形で表出したのだろう。
だが、これだって執行しない理由とするには弱い。
「……実はあの治癒の能力に罪科獣が絡んでて、執行のタイミングを見計らってるとか? だがその場合は〝罪科獣執行〟の指名勅令も下りるはずだし、それこそヴァイスなら一瞬だよな」
何百年何千年と生きながらえて高次存在に成り上がった罪科獣は神に近い雰囲気と力を有するようになる。
そういった罪科獣は生物へ奇跡的な力を与えたりする。ただの気まぐれなこともあるが、大抵は下心があってのことだ。
しかし今回は〝罪科獣執行〟の指名勅令が出ていない。エレンフォールの能力が罪科獣によるものならば、エレンフォールが観測された時点で罪科獣も観測されているはずなのだ。
だからエレンフォールの持つ治癒の能力は罪科獣によるものではなく〝原初返り〟によるものだろう、というのがディルの見解だ。
「……どんなにしろ、生物には出過ぎた力だ。治癒の力なんか持ったせいで、苦しむ人間を助けたせいで、エレンフォールは寿命の契約をたくさん破らせるなんて罪を犯すことになっちまった」
一見善良に見えるエレンフォール。彼に〝魂魄執行〟が下ったのは、他者の契約寿命を強制反故させたのが理由に違いない。
エレンフォールの行いが生物の目から見れば尊い善行だとしても、神の目線から見れば悪行、大罪だ。契約寿命を破らせるということは、魂魄を汚し歪ませることと同義なのだから。
「だからこそ早く執行しなくちゃならねぇのによ……」
ディルはぼそりと言う。
今の状況を続けることは誰の得にもならない。良かれと思って他者を救うエレンフォールは確かに不憫だが、既に大罪を犯してしまった彼は執行を免れない。
まさかヴァイスはそれを気に病んでいるのか?
否、あり得ないとディルは心中で否定する。だから他の理由を見つけようとするも、あらゆる可能性を探し終えている彼の頭には新しい理由など浮かんでこない。
「……くそっ」
ディルは悪態をついて考えを振り払った。
イスマの邸宅へ到着し、エレンフォールが幽閉されている二階の部屋へ気配を殺しながら侵入したディルだったが、そこはモヌケの空であった。
ヴァイスはおろかエレンフォールもいない。この部屋と他をつなぐ出入り口は一階奥にある金属製の分厚いドアのみだが、その前には常に兵士が置かれていたはずだ。
しかし当の兵士は自分がモヌケの空を守っていることなど知るよしもない顔をしている。
「っ、気配が遠のいてる?」
意識を集中させると、先刻はもう少し近くに感じられたヤミ属の――つまりヴァイスの気配が遠くへ動いていくのが分かった。
ディルは急いでそれを追いかける。まさかエレンフォールを逃しているのかと、そんなことを考えてしまったからだ。
程なくしてヴァイスは見つかった。イスマ邸宅の眼下、荒涼とした街の外れも外れ。そこに霊体のままひっそりと佇んでいた。ディルは再び気配を殺しながら様子をうかがう。
街全体が壊滅に等しかったものの、この界隈はさらに悲惨な状態だ。
戦の爪痕も色濃いが、元から被差別階級が暮らしていた場所だったのだろう、生気のなさ陰鬱さ粗末さ――どれと取っても他よりずっとひどい。
一体何故こんな場所にと思ったのも束の間、ディルは気づく。エレンフォールも一緒だったことに。彼はヴァイスの数歩先に、背を向けるカタチでひざまずいていた。
「ありがとう、ヴァイス。俺一人では絶対にあの部屋を出られなかったから」
そう言うエレンフォールは、傷つき果てたボロキレのような人間の前で治癒を施している最中だった。
「イスマは俺を絶対に外に出したくないみたいでね。前、街の人々の傷を癒やしたいって言ったときは取りつく島もなかったんだ」
「……そうか」
二日前は確かに敬語だったはずだが、今のエレンフォールの口調はくだけていた。
ヴァイスもそれに低い声で応じている。ディルが様子を見に来られなかった二日間に彼らの間で何か変化があったらしい。
ディルがその事実に形容できないものを感じているうちに、エレンフォールの治癒を受けていた者がすっかり回復し、何度も感謝を述べる。
この場に似つかわしくない歓喜の声につられたか、今度は物陰からひっそりとエレンフォールの行いを見ていた他の者たちがおずおずと出てきた。
「あ、あなたは本当に……神の子エレンフォール、で?」
「どんな傷も治癒するという、あの?」
「何故このようなところに……ああでも」
「どうか、お救いください。『膿んだ傷が痛い』と泣きわめくこともできなくなった我が子を」
「兵の鬱憤晴らしで殴られ尽くした姉を」
「腐りながら死を待つばかりのおじい様を、どうか」