第3話 底に降臨するは
文字数 2,049文字
〝それ〟は延々と繰り返される抵抗に飽きたとでも言うように、彼をいとも容易く呑み込みにかかった。
「……、――……」
一瞬だった。気づいたときには真っ黒だ。
否、気づく自我ももはやなし。まぶたも力を失ったようにハタリと閉じられている。
「――コロセ」
やがて再度開かれたまぶたが生んだのは青。しかし光がすっかり失われた、陰鬱な黒に塗りつぶされし青。
血の涙の途絶えた青を半月の形にして彼は笑う。
「コロセ。アイ……、コロセ……」
もはや彼は彼を失った。彼を彼たらしめる記憶は無惨に葬られ尽くした。
今にも事切れそうなのは変わらない。だが彼の頭のなかを満たす慈愛の声は彼を突き動かす。まるで傀儡のように。
殺そう全員今すぐ殺そう頭を潰して首を切り落として神核片を砕いて育て親だった■■■■はもちろん弟の■■■も■とかいう半端者も全部ぜんぶ全部。
一体何に抵抗していたのか。何を必死に繋ぎ止める必要があったのか。
忘れてしまった。全部失くなってしまった。今の彼のなかに在るのは内に響き続ける声のみ。
だからユラリと亡霊のごとく立ち上がる。禁忌の烙印は緩まない。自害を急かすように締まったままだ。それでも狂おしい殺戮衝動によって身体が動く。
きっと傀儡となった彼はすべてを殺すまで、いや、息の根を完全に止められるまで止まらない。
彼の堕ちに堕ちた一生、その最期は確定したのだ。
「――オマエ。〝堕天の子〟だな」
その、はずだった。暗闇で第三者の声が鳴らなければ。
聞き慣れぬ音色。すべてを失った彼には聞き慣れぬも何もありはしないが、とにかくここに響くはずもない声が放たれたのは突然だった。
まるで下水の濁流音が自ら避けるかのように響く這いずり音も彼の聴覚に触れる。ズルズル。ズルズル。
「ああ覚えてる、忘れねぇワ。俺サマが兄上に抗議してた間に捨てられた哀れな子」
気だるそうな声が少しずつ近づいてくる。
忘却の彼はフラフラと揺れながらそれを聞いている。しかし両手指だけは殺意をもって動いている。
ギョン、と。不意に真っ暗闇でふたつの鋭い光が灯った。だからわずかに彼の正気が戻る。碧眼に光が差し込んでくる。
しかしすぐに引き戻されて、碧眼はギロリとふたつの妖光を睨んだ。
気だるげな音色は好戦的な笑い声を上げる。
「いいねぇその殺気。この俺サマの神気を前にして怖気づかねぇとは。ま、怖気づくほどの意志が残ってねぇといった方が正しいか?」
「……ダ、れだ。ダレが、殺されに、きタ」
「ジョーダン。オマエが殺すより俺サマが殺す方が何千倍も早ェよ?」
声が終わるや否や重い打撃音が鳴った。あとから追いかけてくるのは呻き声。
「こんなのも避けられねぇほど摩耗してんのにご苦労なこった」
気だるげな声の主は倒れ伏した彼の髪をつかんだか、強制的に上を向かせた。どこを向かせられようが広がるのはただの暗闇。しかしそこに再び鋭い光が灯る。
よくよく見れば光は十以上あり、その中心には縦長の何かが確認できた。
爬虫類の眼光にも見える。それにしては数が多いが、なんにしろ点々と灯る光はすべて彼に注がれ、彼はそれでわずかばかりの正気を取り戻した。
「オマエよぉ、なーに企んでやがる? あぁ否定は無意味だぜ。ずっとこの〝眼〟で見てきたからな」
「……、」
「オマエがすすんで人間に〝混血の禁忌〟を犯したのも、復讐に身を焦がしたヤミを殺さず去ったのも、自分に〝断罪〟を使うよう黒髪のヤミをわざわざ誘導しやがったのも、俺サマは眺めてきた」
「……オレを、殺す、のか」
「そのつもりだったがな、辞めた。俺サマの本能がここにきて〝殺すべきじゃない〟と訴えかけてきてる。こんなのァ初めてでな」
光は不思議な力を有していた。彼に自分が自分であることを次々と取り戻させていく。
そうだ――オレの名は〝シエル〟
あるべき場所から追放された者。ひとりのヤミに救い出され、束の間ヤミ属として生きた者。そして重罪を犯し離反したヒカリ属。
そうだ。そうだった――
「オマエのことが気に入ったよ堕天の子。だから力を貸してやる。今よりこの〝処刑者セラフィマ〟がオマエについてやろう」
「……待、て。セラフィマだと?」
「だがその前に――」
「っ、ガッ!?」
ドゴ、ガツンッ!
痛々しい音、身体が宙に投げ出され激しくぶつかる感覚。
一体何がどうなったのか分からない。しかし全身が痛んだことで攻撃を受けたのだと気づいた。
同時に声の主の身体が光を放ち、清浄なる明かりが絶対的な闇を一瞬にして消し去った。
シエルは口から血を流しながら彼を見上げ、そして目を見開いた。
上半身はひょろりとした人型の男性体。下半身は大蛇。
灰色の髪、ところどころ銀のウロコに彩られた白肌、顔中に散りばめられた黄金多眼。見ている前で蛇の下半身がヒトの下半身へと変貌する様――何より目がつぶれるほどの光を発する者。
そんな神々しい彼は今、似つかわしくない笑みを浮かべている。
「限界までヌいてやるよ。その狂った殺戮衝動をナァ」
「……、――……」
一瞬だった。気づいたときには真っ黒だ。
否、気づく自我ももはやなし。まぶたも力を失ったようにハタリと閉じられている。
「――コロセ」
やがて再度開かれたまぶたが生んだのは青。しかし光がすっかり失われた、陰鬱な黒に塗りつぶされし青。
血の涙の途絶えた青を半月の形にして彼は笑う。
「コロセ。アイ……、コロセ……」
もはや彼は彼を失った。彼を彼たらしめる記憶は無惨に葬られ尽くした。
今にも事切れそうなのは変わらない。だが彼の頭のなかを満たす慈愛の声は彼を突き動かす。まるで傀儡のように。
殺そう全員今すぐ殺そう頭を潰して首を切り落として神核片を砕いて育て親だった■■■■はもちろん弟の■■■も■とかいう半端者も全部ぜんぶ全部。
一体何に抵抗していたのか。何を必死に繋ぎ止める必要があったのか。
忘れてしまった。全部失くなってしまった。今の彼のなかに在るのは内に響き続ける声のみ。
だからユラリと亡霊のごとく立ち上がる。禁忌の烙印は緩まない。自害を急かすように締まったままだ。それでも狂おしい殺戮衝動によって身体が動く。
きっと傀儡となった彼はすべてを殺すまで、いや、息の根を完全に止められるまで止まらない。
彼の堕ちに堕ちた一生、その最期は確定したのだ。
「――オマエ。〝堕天の子〟だな」
その、はずだった。暗闇で第三者の声が鳴らなければ。
聞き慣れぬ音色。すべてを失った彼には聞き慣れぬも何もありはしないが、とにかくここに響くはずもない声が放たれたのは突然だった。
まるで下水の濁流音が自ら避けるかのように響く這いずり音も彼の聴覚に触れる。ズルズル。ズルズル。
「ああ覚えてる、忘れねぇワ。俺サマが兄上に抗議してた間に捨てられた哀れな子」
気だるそうな声が少しずつ近づいてくる。
忘却の彼はフラフラと揺れながらそれを聞いている。しかし両手指だけは殺意をもって動いている。
ギョン、と。不意に真っ暗闇でふたつの鋭い光が灯った。だからわずかに彼の正気が戻る。碧眼に光が差し込んでくる。
しかしすぐに引き戻されて、碧眼はギロリとふたつの妖光を睨んだ。
気だるげな音色は好戦的な笑い声を上げる。
「いいねぇその殺気。この俺サマの神気を前にして怖気づかねぇとは。ま、怖気づくほどの意志が残ってねぇといった方が正しいか?」
「……ダ、れだ。ダレが、殺されに、きタ」
「ジョーダン。オマエが殺すより俺サマが殺す方が何千倍も早ェよ?」
声が終わるや否や重い打撃音が鳴った。あとから追いかけてくるのは呻き声。
「こんなのも避けられねぇほど摩耗してんのにご苦労なこった」
気だるげな声の主は倒れ伏した彼の髪をつかんだか、強制的に上を向かせた。どこを向かせられようが広がるのはただの暗闇。しかしそこに再び鋭い光が灯る。
よくよく見れば光は十以上あり、その中心には縦長の何かが確認できた。
爬虫類の眼光にも見える。それにしては数が多いが、なんにしろ点々と灯る光はすべて彼に注がれ、彼はそれでわずかばかりの正気を取り戻した。
「オマエよぉ、なーに企んでやがる? あぁ否定は無意味だぜ。ずっとこの〝眼〟で見てきたからな」
「……、」
「オマエがすすんで人間に〝混血の禁忌〟を犯したのも、復讐に身を焦がしたヤミを殺さず去ったのも、自分に〝断罪〟を使うよう黒髪のヤミをわざわざ誘導しやがったのも、俺サマは眺めてきた」
「……オレを、殺す、のか」
「そのつもりだったがな、辞めた。俺サマの本能がここにきて〝殺すべきじゃない〟と訴えかけてきてる。こんなのァ初めてでな」
光は不思議な力を有していた。彼に自分が自分であることを次々と取り戻させていく。
そうだ――オレの名は〝シエル〟
あるべき場所から追放された者。ひとりのヤミに救い出され、束の間ヤミ属として生きた者。そして重罪を犯し離反したヒカリ属。
そうだ。そうだった――
「オマエのことが気に入ったよ堕天の子。だから力を貸してやる。今よりこの〝処刑者セラフィマ〟がオマエについてやろう」
「……待、て。セラフィマだと?」
「だがその前に――」
「っ、ガッ!?」
ドゴ、ガツンッ!
痛々しい音、身体が宙に投げ出され激しくぶつかる感覚。
一体何がどうなったのか分からない。しかし全身が痛んだことで攻撃を受けたのだと気づいた。
同時に声の主の身体が光を放ち、清浄なる明かりが絶対的な闇を一瞬にして消し去った。
シエルは口から血を流しながら彼を見上げ、そして目を見開いた。
上半身はひょろりとした人型の男性体。下半身は大蛇。
灰色の髪、ところどころ銀のウロコに彩られた白肌、顔中に散りばめられた黄金多眼。見ている前で蛇の下半身がヒトの下半身へと変貌する様――何より目がつぶれるほどの光を発する者。
そんな神々しい彼は今、似つかわしくない笑みを浮かべている。
「限界までヌいてやるよ。その狂った殺戮衝動をナァ」