第6話 ヴァイスという壁

文字数 2,816文字

 極限まで張り詰めた空気だ。響は硬直するしかない。

 エンラはヤミ属の統主、つまりはヤミ属全体の頭領である。ヴァイスにどんな思惑があったとしてもこれほど頑なに跳ね除けていいものではないだろう。

 しかし無礼な言葉を受けても、やはりエンラは烈火のごとく怒ることはなかった。

 まるで珍品を眺めるかのように真っ黒な眼球を転がし、玉座で優雅に足を組んでみせる。

「あい分かった。ならばヴァイス、響とアスカを説き伏せてみよ。

 このまま言の葉を交えても話は平行線であろう。かといって貴様が我を無視し勝手な行動を取るならば、我も貴様を阻まざるを得ぬ。だがそれはヤミ属全体にとってあまりに不利益だ。

 ゆえに説得をしてみせよ。こやつらが執行者となることを諦める自由を行使するならば、我はそれを尊重するだけだ」

「……機会を与えていただき感謝いたします」

 明らかに面白がり始めたエンラに、傍らのリンリンは「やれやれ」とでも言うような表情で嘆息する。

 ヴァイスはエンラへ一礼をしたあとで響やアスカの方をゆっくりと振り返った。

 フルフェイスマスクに覆われた彼が今どんな表情をしているのかは分からない。だが、逃げ出したくなるほど怖いのだけは確かで、響の足は反射的に半歩後ずさることを選んだ。

「――さて、響くん。久しぶりの再会がこんな形になってしまったのは非常に心苦しいところだが、まずは君の考えを聞かせてほしい。君はどうして執行者になりたいと思ったのかな」

 響に向けられた問いはエンラに対する音色よりはずっと穏やかに聞こえた。

 しかし響の唇は言葉を発するのにかなりの時間を要した。それでも懸命に唇を開き、思いを伝えようとする。

「その……ここ最近、色々考えてて。僕は何をしたらいいんだろう、せっかく助かった命なのに、毎日毎日適当に過ごすばかりで……このままじゃもったいない、こんな僕でも何か役に立てればなって、思ってて……。

 そうやって今日まで悩んでたところに、エンラ様から執行者になってみないかって言われて、そういう道もあるんだって気づいて……。

 だから、執行自体はできないけど……雑用的なことを担当するだけでもいいのなら、役に立ちたいって思いました。それならアスカ君の紋翼を、活かすこともできますし……」

 恐れのあまりに目を泳がせ、切れ切れな言葉ながらも動機を口にする。これまで胸の内に抱えていた思いも吐露する。

 響はアスカの紋翼を魂魄に埋め込まれたことで〝半陰〟となり、家族だった人々に忘れ去られ、生物界で普通の人間として生きることが叶わなくなってしまった。

 結果としてヤミ属界で暮らすしかなくなってしまったが、そんな生活もまだ二ヶ月に満たない響には己の行く先を意識することは難しかった。

 それでも〝このままでいいのか〟という思いは確かにあったのだ。

 それが今日、エンラの提案で具体的なカタチを持った。

 シエルというヒカリ属によってアスカが失ってしまった紋翼。失ってしまったために執行者でいられなくなった事実。

 例えアスカが気にしなくていいと言ってくれても、〝アスカは執行者でなくなったために果たすべきことが果たせなくなった〟というキララの言葉はずっと響のなかに残り続けていた。

 自分が執行者になればアスカは執行者に戻ることができる――だから受けてもいいと思った。

 脳裏に家族だった人たちが浮かんでくればなおさら、響は執行者になりたいと思った。

「そうか。そんなふうに思ってくれていたんだね。ありがとう響くん」

 だから響はヴァイスの返事に安堵する。受け入れてくれたのだと早合点をする。

「しかし――だからといって執行者になる必要はない」

「……、」

「アスカの紋翼のことも君が気にすることではない。むしろキレイさっぱり忘れてしまって構わないものだ。使い方を間違えば危ないものだからね」

 だが、ヤミ属統主の言葉すら跳ね除けるヴァイスが響の言葉ひとつで納得してくれるわけがなかった。

 ヴァイスは響を見下ろして続ける。

「いいかい響くん。君には考えなければならないことが大きくふたつある。ひとつはヤミ属執行者に与えられる任務のこと。

 もうひとつは先ほどエンラ様と私が話していたように、君が今後も罪科獣に狙われる可能性があるということ……簡単に言えば己の安全のことだ」

 言いながらヴァイスは金属グローブに覆われた人差し指を立ててみせた。

「まずひとつめ。執行者に与えられる任務についてだが、例え与えられる任務がどんなに易しいものでも、常に陰鬱な死や念慮がつきまとうことを君は知るべきだ」

「……、」

「喜びはない。称賛もない。ヤミ属執行者は生物の〝まだ生きたい〟という本能をただひたすら挫き続けなければならない。

 悲痛な慟哭を無視し、赫怒の声を跳ね除け、怨嗟を真っ向から受けながらとどめを刺す。君はそれを常に目の当たりにすることになるが、耐えられる自信はあるかな」

 返事ができないでいる響に、しかしヴァイスは中指も立てながら淡々と続ける。

「ふたつめの安全について。これは先ほど話したとおりだ。

 不確定要素が多い以上、君をつけ狙ったのがあの毛玉型罪科獣のみの特性か、罪科獣全体の特性かは分からない。だが、一度狙われたならば後者を想定して行動するのが定石だ。

 生物としての存在養分を得るために生物界へ下りるのは仕方がないとしても、それ以外の用で下りることは極力避けるべきだ。君だって痛い思いはしたくないだろう?」

「……それは、はい……」

「ディルによると、毛玉型罪科獣との戦闘は響くんの無謀な機転と、封じていた紋翼が何故か解き放たれたことで事なきを得られたらしいね。

 だが、あんなふうに勝てるのが普通だなんて思わないことだよ。むしろ幸運と思うべきだ。

 熟練の執行者でも罪科獣との戦闘で死ぬことは普通にある。執行者は色々な意味で常に死と隣り合わせだ……例え罪科獣に狙われても倒せばいいと簡単に思っているのなら、間違いというものだ」

「……」

「もちろん、君が役に立ちたいと思ってくれたこと自体は嬉しいからね。その思いは私も最大限尊重したい。このヤミ属界でその方法を模索するならばいくらでも力になるよ。

 ヤミは生物、特に人間の紡ぎ出す歴史や文化に興味津々だ。君の知識はきっと皆を喜ばせるだろう」

「……」

「君はヤミ属界ででも役に立てるんだ。わざわざ執行者になどならなくても、危険な道を選ばなくてもね」

「で、でも……」

「何より、君は自衛すらできない。そんな君を守るために窮地へ立たされるのはアスカであることを忘れてはいけないよ」

「!……」

 その一言に響は目をみはる。逆接を唱えようとしていた唇は薄く開いたままで言葉を失くしてしまう。

 確かにそうだ。アスカが響を守るということは、響の被るであろう危険をアスカが一身に背負わなければならないということ。

 ならば無力な自分が決めていいことでは、ないではないか。
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